第21羽 父親になりました。
なにか重大なことを打ち明けるような比重の言葉尻に、なにか悪寒めいたものが背筋を撫でる。冷たい汗が脇を流れ、腕の肌は視覚化できるほどに粟立つ。
「久しいな、ダーリン」
「ま、ま、ま、まさか、その言い回しは、」
「――そうだ、私が婚約者だ」
雪山の圧倒的な寒さで震える登頂者の如く、歯がガチガチ鳴って噛み合わない。なにが一番恐怖かというと、今まで相手の正体に気がつかないでいた自分の愚かさでも、捕食者によって密室に追い込まれたことでもない。
アラサーの女性がダーリンとか素で言ってしまう、その痛々しさだ。
「きみがまさか私のクラスに転校するとはなね」
僕もまさか船上の酔っ払いが教師とは思いませんでした。
ふっ、と陶酔するように婚約者は呟く。
「運命を感じずにはいられないよ」
「どんな運命だって、僕が乗り越えてみせる!」
人生で一度は言ってみたかった台詞を、こんなところで無駄使いするなんて。
というか再会したくなかった。
深夜帯で暗かったからこそ、あの時はそれなりの美人と錯覚した。でも今はどうだだろうか。肌の小皺が表面化してしまっているのが、近距離だからこそ黙視できる。年月の残酷さを如実に物語ってしまっている。
……うっ、といきなりハンドルを握りながら、昔はきっともっと綺麗だった人が呻く。顔に色がなくて、どこか体調が悪そうだ。
「どうしたんですか?」
「すまない。酔ってしまった。乗り物全般的に苦手なんだ、私は」
「それじゃあ、運転しないでくれますか?」
蛇行運転がそこはかとなく不安で、車窓から見えると白線をタイヤが超えているように見えて、生きた心地がしない。
「あの、先生大丈夫ですか?」
遠回しに早く下ろせ、ボケと言ってみる。帰って欲しい客に対して、ぶぶ漬けをお出しするのと同義だ。
「きみに言っておかなければならないことがある」
厳かな口調に気を引き締める。
真剣に彼女の言葉を聞かなければらない。というか、真剣に聞かないと、この平和ボケと評価されている日本で、なぜか僕の命が懸かっている非常事態。どんな一挙手一投足も、真摯冷静に受け取らなければ命取りになる。
先生は片手をヒョイと持ち上げて、自分を人差し指で指し示す。
「ダーリン、うち蘭だっちゃ」
「黙れ、バ――おばあさん!! 誰が自己紹介しろって言った!?」
しかも電撃娘とか、今時の高校生に通じると思ってんじゃねーぞ。仮に思い浮かんでも、お姉様の方だから、超電磁砲の方だから。
ショックを受けたのか、またうっ……と言葉尻を濁す。
そうだ。
よくよく考えれば僕も汚い言葉で揶揄しすぎたかもしれない。相手は老婆への道を突き進む婦女子なのだから、少しぐらいは労わる気持ちもなければらならない。
……うっ、と目を眇めながら、彼女は腹を押させている。
「う、う、う、産まれる」
「なに輪をかけたような混乱招いてんだ、ババア!?」
一介の高校生が現状処理できる許容範囲を遥かに超越してませんか!?
「おろせー! はやく僕をこの地獄から開放させてくれー!」
「堕ろせ? とんだ鬼畜だな、きみは」
「そっちじゃねぇーよ! 車から降ろせって言ってんだよっ! ああ、もうっ、とにかく旦那さんとお幸せに」
まるで今までの体調の悪そうだったように、彼女の表情はまた能面になっている。冷静に話すのが余計に腹が立つ。そのまま彼女は鼻で笑うように口火を切る。
「何を他人事のように言っている。これはきみと私の子だぞ?」
「それ、想像妊娠だろーがっ!!」
え、嘘だよね。嘘だと言ってください、お願いします。
そんな行為をやった覚えなんてないし、あったとしてもそんな短期間で産まれないよね。
想像妊娠とかも全部ただの冗談だよね。仮にも相手は成人を迎えた大人。モラルぐらいは熟知していて然るべき年。
僕の婚約者は目尻の皺がまた深まりそうな、不似合いなウインクをかます。接近していたがため、破壊力は絶大。そして絶望はさらに増幅する。
「子どもの名前はなんにする、ダーリン?」
「助けてください! 誰か! 僕を! 助けてください!!」
車窓を全開にして、僕は喉がかれるまで叫んだ。




