オオカミ少年 前編。
長くなってしまったので、前後編になりました。
広い広い、草原が広がっています。
どこまでも、どこまでも続くような草原です。
そこには、木で出来た柵がありました。
柵があるということは、人間が居るのでしょう。
トヨは、ナナさんと手を繋いで、柵に沿って歩いてみました。
「ナナさん。ここは、なんでしょうか?
ずっとずっと、遠くまで柵が続いていますね。」
「ここは牧場だよ、おちびちゃん。」
どこからか聞こえた声に、トヨはビクッと怯えます。
声の主の姿はまったく見えないのに、声だけが聞こえたのです。
思わず、ナナさんに しがみつきました。
「おやおや。
お前は、かの有名な銀色じゃあないか。
何をしているんだい?こんなところで?僕はてっきり死んだと思っていた
のだけど。」
クスクス…と嫌味な忍び笑いが、かすかに聞こえます。
トヨは、ナナさんのことをバカにされたような気がして、とても腹が立ち
ました。
『かくれていないで、出てきなさい!』と、叫ぼうとした時です。
ナナさんが右手でトヨの口を覆ってしまいました。
トヨは『ふがふが』としか、しゃべれません。
すると、柵の向こうの草原から、体が大きな誰かがやってきます。
「よぉ。腹黒メガネ。
また懲りずにうちのヒツジたちに手ぇ出しに来たのか?
生憎、今日は雨の匂いがするから小屋から出さねぇぞ。」
そう言われて、木の上から眼鏡をかけたオオカミさんが、音も無く降りて
きました。
「それは残念。じゃあ、今日はもう帰ろうかな。
またね、おちびちゃん。」
眼鏡のオオカミさんは、あっさり去っていきました。
ナナさんは、眼鏡のオオカミさんの姿が見えなくなってから、トヨの口から
手を退けました。
「お久しぶりです。ジャック。」
ナナさんは、柵の内側の大きな誰かに呼びかけます。
「久しぶり。ここで立ち話してっと、雨でずぶぬれになっちまうぞ。
寄って行けよ、どうせヒマだろ?」
ナナさんは、『えぇ。』と、ひとつうなずいて、大きいジャックと並んで
歩いていくので、トヨも遅れないように小走りで追いかけます。
納屋に入った途端に、雨が降り出し『濡れなくてよかった。』と安堵した
ところで、トヨはジャックに自己紹介をしました。
「はじめまして、ジャックさん。私はトヨと申します。」
「あぁ。俺は、ジャーマン・シェパードのジャックだ。
この牧場で羊飼いの手伝いをしている。
…まぁ、俺は一方的にお前のことを知っているんだけどな? トヨ。」
トヨはキョトン、と目を丸くした後『うぅん?』と頭を抱えて考え始めます。
どう考えても、トヨはジャックに見覚えがありません。
「すいません。本当に申し訳ないのですが、どこかでお会いしましたか?」
降参して、トヨはジャックに尋ねました。
「…お前の父ちゃんと俺は親友でなぁ。赤ん坊の時は、おんぶもしたんだぞ?
だがまぁ、トヨは覚えてなくて当たり前か。気にしなくていいぞ。」
”お父さんの親友”…その言葉を聞いたトヨは、突然 足に力が入らなくなって、
倒れそうになりました。
しかし、ナナさんが後ろで支えたおかげで、フニャリと座り込むだけで
済みました。
心配する二匹に、ゆっくりトヨは話します。
「ジャックさん、私は母に『お前はオオカミの子。お前もオオカミよ。
私の子どもじゃない。』と、言われてそだちました。
…父は、オオカミさんだったんですか?
私は、小さかったせいか、父のすがたを覚えていなくて…。」
掠れて震える声で、トヨがジャックに問いました。
ジャックは、座っているトヨと目が合うよう屈んで、ゆっくり言います。
「お前の父ちゃんは、『柴犬』という種類の、俺と同じ『イヌ』だ。
ちなみに、母ちゃんの方も、『オオカミ』じゃあない。」
トヨはコクリと、うなずきます。
「…はい。母は、『イヌ』でした。」
「あぁ。彼女も『柴犬』だった。
彼女は、お前が生まれる前に一度、『オオカミ』に襲われて子どもを死なせて
いる。
その直後は、確かに錯乱が酷かったが、お前が生まれてからは、だいぶ
落ち着いたと思ったんだけどな…。」
トヨと、ナナさんはジャックに勧められて道具などが入った木箱に腰掛け
ました。
「母が、そういうことを言い出したのは、父が亡くなってすぐだったと
思います。
…きっと辛くて、頭の中がグシャグシャになってしまったんですね。」
俯いてしまったトヨに、ジャックが尋ねます。
「彼女は、どうなったんだ?」
「先月、亡くなりました。…私が みとって、埋めました。
知り合いの方は、わからなかったので呼べなかったんです。ごめんなさい。」
ジャックは、無言でトヨの頭をワシワシと撫でます。
その表情はとても辛そうです。
「なぁトヨ。ちょっとだけ、昔話をしてもいいか?」
唐突なその問いに、トヨは首を傾げつつ『はい』と、了承しました。
ナナさんは、ただ雨が打ちつけられる窓の外を見つめていて、反応が
ありません。
ジャックが、子どもに語るおとぎ話のように、話を始めます。
「昔々。あるところに、とても正義感が強いオオカミがいた。
『物語の中のオオカミは悪者ばかりだ。
だけど、きっと良いオオカミだっているはずだ。
私は”良いオオカミの話”を集めて、一冊の本にしよう。
そうしたら、みんなが仲良くなれる。』
そう思い、仲間の静止を振り切って、彼は旅に出た。
しかし、彼の予想以上に、世界は過酷だった。
オオカミたちに家畜を襲うのをやめろと言っても、聞く耳を持たない。
人間は、彼が集落の近くを歩けば容赦なく猟銃を構える。
何度となく傷付き、何度となく心が砕けそうになりながらも、彼は成し遂げた。
確かに、トヨの母さんを襲った奴や、未だに悪行をする奴はいる。
だが、今では『オオカミ』は警戒するべき相手ではあるが、以前よりはずっと
好意を持たれていると思う。
それは、”彼”が成した偉業と言っていい。
ところが、な。
彼はやっと帰った故郷で、一番信頼していた仲間に家族を殺され、財産まで
盗られた。
…そのせいで、心を固く閉ざし、今でも宛ても無くただ彷徨うだけの、
不毛な旅を続けることを選んでしまった。
なぁ、そうだろう?銀色…いや、ヴァルト。」
トヨが、とても驚いてナナさん…銀色オオカミであるヴァルトさんの横顔を
見つめます。
「…私は、あの時 分かってしまったのです…。
『良いオオカミ』など幻想だった。いなかったんです、そんなものは…!」
その言葉を聞いて、トヨの中でバラバラだったすべてが、ひとつに繋がり
ました。
「いいえ。『良いオオカミ』は、居ます。幻想なんかじゃありません。」
トヨが、ひとつひとつの言葉に気持ちを込めて言います。
「嘘です!どこに、一体どこにそんなものが居るというのですか!!」
ヴァルトさんは、今まで見たこと無いようなひどく苦しそうな顔をして、
トヨに掴み掛かります。トヨは、じっとヴァルトさんの瞳を見つめていました。
ジャックさんが立ち上がりかけましたが、トヨがにっこり笑うのを見て、
腕を組んで座り直し、静かに見守ります。
「居ます。『良いオオカミ』は、ナ……ヴァルトさん、あなたです。」
ヴァルトさんは、たちまち目に涙をいっぱいに溜めて、首をブンブン横に
振りました。
「違う!私は、違う…っ!」
「いいえ、あなたです。
あなたは、偶然だったとしても 私をたすけて、ここまで付いて来るのを
ゆるしてくれた、とても優しい『オオカミ』です。
子やぎさんたちの面倒をみていたリリーさんも、言っていました。
『気付かせてやって。『良いオオカミ』の話は、もうみんなが知ってる。
もう大丈夫なんだよ。』と。
これは、私が勝手に思ったことですが、赤ずきんのヘンゼルくんと一緒に居た、
茶色のオオカミさんも楽しそうでした。」
「それは…!」
言いかけるヴァルトさんに、トヨはうなづきます。
「確かに、ご飯が目的だったのかもしれません。
でも私の目には、猟師さんとヘンゼルくんの後を追いかけようとしていた
茶色のオオカミさんが、心から楽しんで笑っているように見えました!
…あなたは、もう十分がんばったんですよ!
もう、自分を責めないでください!!」
掴んでいるヴァルトさんの手がゆるんで、トヨは自由になりました。
「トヨ…分かっているのですか?
あなたのお母さんをおかしくさせたものは、『オオカミ』なのですよ?
私も、同じ『オオカミ』です。……あなたは、許せるのですか。」
わずかに殺気がこもった目で、ヴァルトさんはトヨをにらみます。
しかし、トヨはそれを気にもせず、静かに微笑んでいます。
「母をおそったオオカミを許せるか、と聞かれれば、もちろん許せません。
だけど、それはそのオオカミが悪いのであって、『オオカミ』全体をきらう
理由にはならないと思います。
私は、自分の目で『良いオオカミ』がいるのを見て、知ることが出来ました。
ヴァルトさんが、努力して自分から『良いオオカミ』になったんです。
だから、絶望なんてしなくていいんですよ。」
戸惑ったような表情で顔をそらすヴァルトさんに、それまで腕を組んで
黙っていたジャックが言います。
「…トヨが言う通りだ。
お前は十分よくやったし、一部はともかく、多くの『オオカミ』がお前に
感謝してる。
そろそろ、そのうざってぇモン捨てて楽になれよ。」
ヴァルトさんは、目をじっと閉じて『しばらく一人にして下さい』と静かに
言います。
ジャックがひとつ うなずいて トヨを連れて納屋から出て母屋へ向かいました。
後編に続きます。