春秋櫻
よくある話で御座います。
街を見下ろす小高い丘の上、樹齢何十年……いいえ、もしかすると何百年にもなろうかという程の、それは立派な櫻がありました。その幹の太さは大の男十人程が腕を一杯に伸ばし合う程に太く、春になれば薄紅色の花をそれは見事に咲かせ、花が散った後には沢山の小さな赤黒く甘い実を実らせるので御座います。散った花びらは時には風に乗り、街外れにまでも降る事があるので御座います。けれどそれを聞いて笑う者も少なくはありません。
「そんな馬鹿な事があるか。あの丘から何里離れていると思っているのか。大方近くにある別の櫻の物だろう」
そう、こんな風にせせら笑う者も居るかもしれません。しかし不思議な事に、この街にはその丘の上の櫻以外には一本の櫻も無いのですから、他の櫻であろう筈も御座いません。 街でたった一本の、丘の上から見下ろす様に立つ櫻の巨木。街の者はその櫻をまるで街の守り神……御神木とでもいうかの様に注連縄をその太い幹に回し崇め奉って居りました。そして街の子供達は男も女もこの櫻の丘を遊び場に育っていくので御座います。
けれど秋になり、冬が近くなると途端にその櫻の丘には誰も近寄らなくなるので御座います。吹きさらしの風がその小高い丘の上の櫻の葉を散らせてしまうし、街の者は冬将軍がやって来る前にと家族総出で冬仕度を始めるからなので御座いましょう……
……と、云うのは、実は表向き。
ああほら。云い付けを守らぬ娘がひとり。
櫻に魅せられた娘が月明かりを頼りに夜更けにやってまいりました。 娘の目には何が見えているので御座いましょう。夢見心地のようなその目には何が写っているので御座いましょう。櫻の見せる夢幻。月明かりに浮かぶ朧の櫻。……或いは何も見てなどおらぬのかもしれません。
その夜を境にひとりの娘の姿が見えず、その界隈はにわかに騒がしく。人の口に戸を立てる事など出来ぬとばかりに、やれ神隠しだ、逢引きの末の駆落ちだ、とそこかしこで囁かれ。けれども人の噂も七十五日とは良く云ったもの、さぁっと汐が引くように、日々の喧騒に忘れ去られて行ったので御座います。
……一部の者を除いて。
春になり、少女はある夜に消えてしまった友がとても好いていた、小高い丘の櫻を独り見つめておりました。 いつもなら必ず二人で毎日のように足を運び、日々綻んでいく櫻を見ていたのに、その春は独り……。何も云わずに消えた少女へのどうしようもない哀しみと怒りをその胸に、櫻を見上げるので御座います。その時で御座います。その見上げた櫻の枝に、紅の紐が絡みついているのに気付いて少女は息を飲み、そうして何故かそのまま櫻の根元に目を下ろし……そうして見つけてしまったので御座います。
「い……いやぁぁぁっ!!」
その根元に見えるものは、紅の着物の端。忘れる訳が御座いません。その着物は彼女のお気に入りで、最後に逢った日にも着ていた着物だったのですから。
少女はその着物が埋まっている処を白魚のような手で懸命に掘り出そうと、少しずつ露になっていく土に汚れた着物に爪が折れるのも構わず、土を掻き出すので御座います。そして、その見えていた着物の端が袖であり、元は綺麗だった、今は哀れな骨と化した手を見つけ、少女は……美夜子は櫻の幹に、涙しながら土で汚れた手を打ち付けるので御座いました。
「かえして……お願い……佐久羅を返してぇぇ!」
その後、街の男達によって掘り出された佐久羅の骨には幾重にも櫻の根が張り巡らされていたので御座います。そして、その櫻の木の下には多分年若い娘だっただろう幾人もの朽ちた骨や着物が埋まっていたので御座います。
迷信を信じぬ輩は殺人鬼が街にいるのだと大騒ぎで御座います。真実は、何処にあるので御座いましょうか。誰にも分かりません。
だぁれにも。
「ねぇ、美夜子。私は櫻が好きよ。ほら、綺麗な薄紅色の花びら……美夜子の唇の色のようよ?……でも、知っていて?おばあ様に聞いたのだけど、こんな風に永く生きている櫻は、土の養分だけでは足りなくなってしまうのですって。だからその養分を補う為に秋の月の綺麗な夜、春に満開の花を咲かせる為に、沢山の実をつける為に、娘を惑わせて生き血を吸うのですって……だから、櫻の花びらは薄紅色をしているのですって……ねぇ美夜子、信じられる?」
櫻の木の下には死体が埋まっているだなんて、とっても浪漫ちっくでしょう?
終