表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

長崎ちゃんぽん

作者: 金地院 憂

恵の三回忌の帰りに、落葉の残る並木通りを、寒さを踏み締めるように一歩ずつ歩く。


コートの襟を大袈裟に引き寄せ、白い息を吐き出す。


この三年間、僕はただ生きてきた。


来る日も来る日も、もう会う事の出来ない彼女を思い続けていた。


移り行く四季それぞれが見せる表情に目を向ける事なく、モノクロの世界を生き続けた。


あの日から、時計の針は止まったままだ。






中学生の時、僕は長崎に引っ越してきた。


父親の転勤で、住み慣れた大都会から出て来たのだった。


サッカー部に入った事もあって、僕はすぐに新しい学校に打ち解けた。


ある日、僕は練習の後に薄暗い校内へ忘れ物を取りに行った。


その時たまたま通り掛かった美術室に、まだ電気が点いていた。


好奇心から中を覗くと、一人の女子生徒が絵を描いていた。


その綺麗な横顔に、僕は時間を忘れて見とれていた。

それが恵との出会いだった。


忘れ物を取りに行ったのに恋心を落としてきた僕は、周りの友人の冷やかしにも似た後押しに助けられ、恵との距離を縮めていった。


勉強を犠牲にした努力の甲斐もあって、卒業式の日から僕たちは付き合い始めた。


地元の公立高校に大勢の級友たちと進学した僕とは対称的に、恵は美術の専門学校へ通う事になった。


お互いに環境が変わっても、日曜日には必ずデートをしていた。


と言っても、学生の財力で出来る事は限られており、いつも学区内の公園で絵を描く恵の側に僕が寄り添って、他愛ない会話をしていた。


その帰り道に夕食を食べに行くのだが、必ず恵は割り勘を要求した。


しかしリンガーハットに行った時だけ、僕は奢る事を許された。


当時二人で1000円しなかったちゃんぽんに通い詰めた僕たちは、いつしか店長とも仲良くなっていた。

お酢を入れる入れないでいつも口論していた僕たちを見て、店長はいつも豪快に笑っていた。


「いつか恵ちゃんが立派な画家になったら、この店に飾る絵を描いてくれよ!」


それがマスターと親しまれた店長の口癖だった。






そんなある日、恵が体調を崩して入院した。


大した事はないから大丈夫、という恵からのメールで安心していた僕に、恵の母親から電話が掛かってきた。


「今日の夕方に、恵の検査結果が出たの。

それでね…」


お母さんの言葉が詰まる。

「恵がどうかしたんですか。

教えて下さい!」


受話器を握る手に力が入る。


「あの子の…

恵の頭に腫瘍が見つかったの。

大きくなり過ぎて、手術では治せないって。

あなたには知らせないで、って恵には言われてたんだけど。」






集中治療室に入った恵に面会することは許されなかった。


それから2ヶ月後、再び恵の母親から電話が掛かってきた。


恵の訃報だった。


実感がなかった。


僕の知らない世界で、僕の知らない恵が死んだ。


そう思っていた。






市街地に入ると、昼食を取っていない事に気付いた。


ふと足を止めたのは、恵と足しげく通ったリンガーハットだった。


三年振りの店内に入ると、僕を見つけたマスターが駆け寄ってきた。


「おぉ!

久しぶりだなぁ。

今は何してんだい?」


「専門学校に行かせてもらってます。

介護士を目指してます。」


コートを脱ぎながら僕が答えた。


「そおなのか〜!

俺っちの方は、何にも変わらないぞ。」


「…そうですねぇ。」


髪の毛の無くなったマスターの頭を見ながら、僕はカウンターに着いた。


ふと、壁に描けられた油絵が目に入った。


僕にはすぐに分かった。


「恵の…絵だろ…?」


注文もしていないちゃんぽんを運んできたマスターが、今まで聞いたことがない優しい声で言った。


「この絵な…

恵ちゃんが亡くなった日に、お母さんが持って来てくれたんだよ。

ちゃんと約束覚えていてくれたんだな。」


最後の方は涙で聞こえなかった。


優しい色使いで描かれた公園には、生き生きとした木々が並んでいる。


いつも二人で見た風景だった。


桜が開いた春、蝉がうるさい夏、日の陰りが早くなった秋、雪が積もっていた冬。


恵が輝きをくれた世界を思い出しながら、僕は目頭が熱くなるのを感じた。


そしてマスターが運んできたちゃんぽんに、勢いよくお酢をかけた。


「恵ちゃんが薦めても入れなかったのに、今日は初雪でも降るか?」


マスターが目を拭いながら笑った。


その日のちゃんぽんは、昔よりも酸っぱかった。


でも、お酢を入れたのだけが原因じゃなかったと思う。






それから半年後、僕は介護福祉士になった。


出勤初日に、先輩から飲み会に誘われた。


「今日はお前の歓迎会だ!

女の子たくさん呼んでやるよ。

どんな子がタイプなんだ?」


僕はいたって真面目に答えた。


「ん〜、ちゃんぽんにお酢を入れる子ですかね。」



END





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ