長崎ちゃんぽん
恵の三回忌の帰りに、落葉の残る並木通りを、寒さを踏み締めるように一歩ずつ歩く。
コートの襟を大袈裟に引き寄せ、白い息を吐き出す。
この三年間、僕はただ生きてきた。
来る日も来る日も、もう会う事の出来ない彼女を思い続けていた。
移り行く四季それぞれが見せる表情に目を向ける事なく、モノクロの世界を生き続けた。
あの日から、時計の針は止まったままだ。
中学生の時、僕は長崎に引っ越してきた。
父親の転勤で、住み慣れた大都会から出て来たのだった。
サッカー部に入った事もあって、僕はすぐに新しい学校に打ち解けた。
ある日、僕は練習の後に薄暗い校内へ忘れ物を取りに行った。
その時たまたま通り掛かった美術室に、まだ電気が点いていた。
好奇心から中を覗くと、一人の女子生徒が絵を描いていた。
その綺麗な横顔に、僕は時間を忘れて見とれていた。
それが恵との出会いだった。
忘れ物を取りに行ったのに恋心を落としてきた僕は、周りの友人の冷やかしにも似た後押しに助けられ、恵との距離を縮めていった。
勉強を犠牲にした努力の甲斐もあって、卒業式の日から僕たちは付き合い始めた。
地元の公立高校に大勢の級友たちと進学した僕とは対称的に、恵は美術の専門学校へ通う事になった。
お互いに環境が変わっても、日曜日には必ずデートをしていた。
と言っても、学生の財力で出来る事は限られており、いつも学区内の公園で絵を描く恵の側に僕が寄り添って、他愛ない会話をしていた。
その帰り道に夕食を食べに行くのだが、必ず恵は割り勘を要求した。
しかしリンガーハットに行った時だけ、僕は奢る事を許された。
当時二人で1000円しなかったちゃんぽんに通い詰めた僕たちは、いつしか店長とも仲良くなっていた。
お酢を入れる入れないでいつも口論していた僕たちを見て、店長はいつも豪快に笑っていた。
「いつか恵ちゃんが立派な画家になったら、この店に飾る絵を描いてくれよ!」
それがマスターと親しまれた店長の口癖だった。
そんなある日、恵が体調を崩して入院した。
大した事はないから大丈夫、という恵からのメールで安心していた僕に、恵の母親から電話が掛かってきた。
「今日の夕方に、恵の検査結果が出たの。
それでね…」
お母さんの言葉が詰まる。
「恵がどうかしたんですか。
教えて下さい!」
受話器を握る手に力が入る。
「あの子の…
恵の頭に腫瘍が見つかったの。
大きくなり過ぎて、手術では治せないって。
あなたには知らせないで、って恵には言われてたんだけど。」
集中治療室に入った恵に面会することは許されなかった。
それから2ヶ月後、再び恵の母親から電話が掛かってきた。
恵の訃報だった。
実感がなかった。
僕の知らない世界で、僕の知らない恵が死んだ。
そう思っていた。
市街地に入ると、昼食を取っていない事に気付いた。
ふと足を止めたのは、恵と足しげく通ったリンガーハットだった。
三年振りの店内に入ると、僕を見つけたマスターが駆け寄ってきた。
「おぉ!
久しぶりだなぁ。
今は何してんだい?」
「専門学校に行かせてもらってます。
介護士を目指してます。」
コートを脱ぎながら僕が答えた。
「そおなのか〜!
俺っちの方は、何にも変わらないぞ。」
「…そうですねぇ。」
髪の毛の無くなったマスターの頭を見ながら、僕はカウンターに着いた。
ふと、壁に描けられた油絵が目に入った。
僕にはすぐに分かった。
「恵の…絵だろ…?」
注文もしていないちゃんぽんを運んできたマスターが、今まで聞いたことがない優しい声で言った。
「この絵な…
恵ちゃんが亡くなった日に、お母さんが持って来てくれたんだよ。
ちゃんと約束覚えていてくれたんだな。」
最後の方は涙で聞こえなかった。
優しい色使いで描かれた公園には、生き生きとした木々が並んでいる。
いつも二人で見た風景だった。
桜が開いた春、蝉がうるさい夏、日の陰りが早くなった秋、雪が積もっていた冬。
恵が輝きをくれた世界を思い出しながら、僕は目頭が熱くなるのを感じた。
そしてマスターが運んできたちゃんぽんに、勢いよくお酢をかけた。
「恵ちゃんが薦めても入れなかったのに、今日は初雪でも降るか?」
マスターが目を拭いながら笑った。
その日のちゃんぽんは、昔よりも酸っぱかった。
でも、お酢を入れたのだけが原因じゃなかったと思う。
それから半年後、僕は介護福祉士になった。
出勤初日に、先輩から飲み会に誘われた。
「今日はお前の歓迎会だ!
女の子たくさん呼んでやるよ。
どんな子がタイプなんだ?」
僕はいたって真面目に答えた。
「ん〜、ちゃんぽんにお酢を入れる子ですかね。」
END