↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/21

春光、ふたたび

冬が過ぎ、山々を覆っていた雪が少しずつ解け始めると、凍てついていた大地にも、再び生命の気配が戻ってきた。


雪解け水は岩間を縫って流れ、枯れ草のあいだからは、淡い緑の芽が顔を覗かせている。

枝先には小さな蕾が膨らみ、冬のあいだ沈黙していた木々も、春の訪れを静かに告げていた。


山を渡る風は、もう冬のように冷たくはない。

その風に吹かれながら、ジンランはひとり、庭に佇んでいた。


かつて、母と共に暮らしたこの家。


病に伏せる母を看病し、薬草を煎じ、明日こそはよくなるようにと祈りながら過ごした日々。

あの頃の彼女にとって、この家は世界のすべてだった。


けれど今、そこに母の姿はない。


静まり返った部屋にも、庭先にも、かつての暮らしの気配は薄れていた。

それでも、母と過ごした時間まで失われたわけではない。

何気ない言葉も、柔らかな笑顔も、ふとした仕草も、今なお彼女の心の奥に息づいている。


ジンランは、そっと目を伏せた。


この家に戻ってから、彼女は毎日のように瞑想を続けていた。


特別な術を求めているわけではない。

何かを得ようとするのでも、心を無理に静めようとするのでもなかった。

ただ、自分の内にあるものを見つめる。


風の音に耳を澄まし、肌を撫でる空気を感じ、ゆっくりと繰り返される呼吸に意識を向ける。


心に何かが浮かんでも、追い払おうとはしない。

悲しみが訪れれば、その悲しみを感じる。

懐かしさに胸が満たされれば、その温もりをそのまま受け止める。


そうしているうちに、彼女は少しずつ、自分の心に生まれるものを恐れなくなっていた。


悲しみが消えたわけではない。

母を思えば、今でも胸が痛むことがある。

もう一度声を聞きたいと思うことも、あの日の別れを思い返すこともあった。


けれど、以前のように、その感情に心を閉ざされることはなくなった。


悲しみもまた、自分の中にあるもの。

大切な人を愛した証であり、共に過ごした時間が確かに存在した証なのだと、今は思える。


やがて、ジンランはゆっくりと目を開けた。


木々のあいだから差し込む陽光が、庭の草葉を淡く照らしている。

風が吹くたび、若葉がかすかに揺れ、その葉先に残っていた雫が、きらりと光を弾いた。


春の匂いがした。


土の湿り気と、芽吹いたばかりの草木の香り。

冬を越えた大地が、再び動き始めたことを告げる匂いだった。


ジンランは、そっと息を吸い込んだ。

そのとき、不意に、胸の奥がかすかに震えた。


――チョンハオ様。


意識して思い浮かべたわけではなかった。

ただ、春の風に触れた瞬間、彼の姿が心に浮かんだのだ。


静かにこちらを見つめる、淡い金色の瞳。

何かを語るときの穏やかな声。

時折、ほんのわずかに緩む口元。

人々の悩みに耳を傾け、相手が自ら答えを見つけるまで、決して急かすことなく傍らにいる姿。


彼のもとで過ごした日々が、ひとつ、またひとつと蘇る。


言葉を交わさずとも、同じ場所にいるだけで心が安らいだこと。

何気ない一言に、思いがけず心を揺さぶられたこと。

彼が自分を見つめる眼差しに、時折、言葉では言い表せない何かを感じたこと。


思い返せば、あの庵で過ごす時間は、いつも静かだった。


けれど、その静けさは決して空虚なものではなかった。

言葉にしなくても伝わるものがあり、何も起こらないひとときさえ、彼の傍らでは不思議と心に残った。


ジンランは、しばらくその記憶に身を委ねていた。


かつての彼女なら、こうして誰かを想う気持ちが生まれたとき、それが何を意味するのか、答えを探そうとしたかもしれない。


この感情は何なのか。

自分はどうするべきなのか。

それは正しいことなのか。

けれど今は、無理に名前をつける必要はないと思えた。


ただ、思い浮かべるだけで心が温かくなる。

彼の声を聞きたいと思う。

あの穏やかな眼差しを、もう一度見たいと思う。

それだけで、胸の奥に小さな喜びが灯っていた。


ジンランは、そっと手を胸に当てた。

そこにある想いを確かめるように、指先を静かに重ねる。


「…会いたい。」

こぼれた声は、春風に溶けるほど小さかった。


修行のためではない。

教えを請うためでも、弟子として彼のもとへ戻るためでもない。


ただ、チョンハオに会いたかった。

彼の声を聞き、顔を見て、同じ風の中で、しばらく一緒に過ごしたい。


何かを教えてもらわなくてもいい。

何かを成し遂げなくてもいい。

ただ、彼の傍らにいたい。


その気持ちに気づくと、ジンランの頬に、かすかな笑みが浮かんだ。


それは誰かに認められたいという願いでも、孤独を埋めるためのすがりつきでもなかった。

母を失った悲しみを忘れるためでもない。


悲しみは悲しみとして、彼女の中にある。

そして、それとは別に、誰かを想う気持ちもまた、確かにここにある。


どちらか一方を消さなくてもいい。

どちらかを否定しなくてもいい。

今の自分には、その両方を抱いていられる。


ジンランは、胸に添えていた手をゆっくりと下ろした。


庭の向こうでは、若葉が春の光を受けて輝いている。


母と過ごした日々も、失った悲しみも、これから出会うかもしれない喜びも、すべてが自分の命の中にある。

そう思うと、目の前に広がる春の景色が、以前よりも少し鮮やかに見えた。


風が吹き抜け、彼女の長い髪を柔らかく揺らす。

その風は、山々のあいだを渡り、芽吹いた木々を揺らしながら、遠い庵のある方角へと流れていった。


ジンランは、その行方を見送るように、静かに顔を上げた。

胸に灯った小さな想いを、今はただ、大切に抱いていた。


――そして、その風を、チョンハオもまた感じていた。


夜の碧霧の庵には、淡い月明かりが差し込んでいた。


開け放たれた窓の向こうでは、木々の枝葉が夜風に揺れ、葉擦れの音が静寂に溶けていく。

遠くから聞こえる水のせせらぎも、今夜はひときわ穏やかだった。


チョンハオは机に向かい、書物を広げていた。

筆先を紙に走らせ、読みかけの一節を書き留めようとしたところで、ふと、その手が止まる。

墨を含んだ筆が、紙の上でわずかに揺れた。


心のどこかに、かすかな波紋が広がっていた。


理由は分からない。

何か特別な気配を感じ取ったわけでも、誰かの声を聞いたわけでもない。

ただ、静かに整っていたはずの心に、ひと筋の風が吹き込んだようだった。


チョンハオは筆を置いた。

しばらく、何をするでもなく、机の上に落ちる月影を見つめる。

その淡い光を眺めているうちに、ふと、ひとりの女性の顔が脳裏に浮かんだ。


――ジンラン。

名を思い浮かべただけで、心の奥がかすかに温かくなる。


目を閉じると、彼女の姿が、静かな水面に映る景色のように浮かび上がった。


人を救いたいと、強く願っていた頃の彼女。


初めてこの庵を訪れたとき、ジンランの瞳には、目の前で苦しむ人を何としてでも救いたいという、切実な光が宿っていた。


誰かが悲しんでいるのなら、その痛みを取り除いてあげたい。

自分にできることがあるのなら、迷わず手を差し伸べたい。

そう願う彼女の胸には、教えを一つでも多く身につけたいという思いが、強く宿っていた。


けれど、チョンハオのもとで過ごすうち、彼女は少しずつ、立ち止まって考えることを覚えていった。


悩みを抱えた人を前にしても、すぐに答えを与えようとはせず、まずはその心に耳を傾ける。

自分が正しいと思うことが、必ずしも相手の救いになるとは限らない。

そのことに戸惑いながらも、彼女は相手の苦しみや願いを知ろうと努めていた。


何もできないもどかしさを覚えることもあっただろう。

それでも、答えを急がず、相手が自らの心と向き合う時間を見守るうちに、彼女の中で、救いというものの意味が少しずつ変わり始めていた。


そして、母の命が危ういと知った、あの日。


彼女は涙を浮かべながらも、ただ悲しみに身を任せるのではなく、自分の痛みと向き合うことを選んだ。


「もう逃げません。この痛みも、運命も――私の一部として受けとめます。」

そう告げた彼女の瞳には、悲しみの奥に、確かな意志が宿っていた。


チョンハオは、彼女の手を握り、静かに送り出した。


涙を拭うことなく、それでも微笑んで別れを告げた彼女の姿が、今も心に残っている。


彼女が成長していくことを、何よりも嬉しく思っていた。

いつか、自分のもとを離れ、彼女自身の道を見つけていくのだとしても、それでいいと思っていた。


彼女が誰の隣に立つのか。

どこへ向かい、何を選ぶのか。

それは、彼女自身が決めることだ。


自分が望む未来を、彼女に背負わせてはならない。

そう考えてきたし、その想いは今も変わらない。


けれど――

彼女の自由を願うことと、自分が彼女を想う気持ちをなかったことにするのは、同じではなかった。

そのことに、チョンハオはようやく気づき始めていた。


チョンハオは、ゆっくりと目を開けた。


月明かりの中、机に置かれた筆が静かに影を落としている。

その影を見つめながら、彼はかすかに口元を緩めた。


「…もう、誤魔化すまい。」

声は、夜の静けさを乱さぬほど穏やかだった。


誰かに告げるための言葉ではない。

ただ、自分自身に向けた、小さな告白だった。


彼女を想っている。

その笑顔を見たいと思う。

声を聞き、言葉を交わし、同じ時間を過ごしたいと願っている。


それは、相手を自分のもとにつなぎ留めたいという欲ではなかった。

彼女が自分を必要としなくなっても、その足でどこへでも歩いていけるのなら、それを喜びたいと思う。


それでも、もし彼女が再びこの庵を訪れてくれるのなら。

もし、彼女が自分の意志で、この場所を選んでくれるのなら。


そのときは、ただ師として彼女を迎えるだけではなく、一人の人間として、彼女と向き合いたい。

そこまで思い至ったとき、チョンハオは小さく息を吐いた。


恋という言葉だけでは、まだ言い表せないものがある。

初めて彼女と出会ったときから、彼女が少しずつ変わっていく姿を見守るうちに、彼の心にも何かが積み重なっていた。


その始まりがいつだったのか、今となっては定かではない。

ただ、気づけば、彼女の存在は彼の心の中に、静かに、けれど確かな場所を占めていた。


それは、魂が魂を求める響きにも似ていた。


チョンハオは、窓の外へ目を向けた。

夜の山々は、月の光を受けて淡く浮かび上がっている。


そのときだった。

頬に、柔らかなものが触れた。

窓から吹き込んだ風が、彼の髪をかすかに揺らす。


冷たさも、強さもない。

春の夜の匂いを含んだ、優しい風だった。


チョンハオは、ふと目を細めた。


胸の奥にあった波紋が、静かに広がっていく。

まるで、遠く離れた誰かの心に触れたかのように。


彼は何も言わず、しばらくその風を感じていた。


同じ頃、遠く離れた村の庭にも、春風が吹き抜けていた。


若葉を揺らし、咲き始めた花々のあいだを通り抜け、庭先に佇むジンランの頬をそっと撫でていく。

風に揺れた髪が、肩を滑る。

足元では、淡い色の花びらが一枚、枝を離れて宙に舞った。


ジンランは、ゆっくりと顔を上げた。


頬を撫でた風の向こうに、懐かしい気配を感じた気がした。

それが本当に誰かの想いだったのか、それとも、彼を想う自分の心がそう感じさせたのか。

彼女には分からない。

けれど、確かめずにはいられなかった。


胸の奥に灯った想いが、先ほどよりも少しだけ鮮明になっている。


――会いたい。

その気持ちは、もう心の中に留めておくものではなかった。


ジンランは、そっと目を閉じた。


頬を撫でる風を感じながら、深く息を吸い込む。

春の匂いが、胸いっぱいに広がった。


次の瞬間、彼女の身体を淡い光が包み込んだ。


衣の裾がふわりと揺れ、長い髪が光の中へ溶けていく。

指先から輪郭がほどけるように消え、身体を形作っていた光が、柔らかな輝きとなって宙に広がった。

やがて、その光はひとつに集まり、小さな姿を結んでいく。


そこに、一匹の青い蝶がいた。


月の名残を宿したような淡い青の翅。

その縁には、春の光を受けた露のような輝きが揺れていた。


蝶は一度、ゆっくりと翅を開いた。

そして、ためらうことなく、空へと舞い上がった。


背後には、芽吹き始めた庭と、母と過ごした家がある。

その景色を振り返ることはなかった。


大切な記憶は、もう彼女の中にある。

失ったものも、受け取ったものも、胸に抱いたまま進んでいける。


今、彼女の心にあるのは、ただ一つの願いだった。

会いたい人がいる。

その人のもとへ、自分の意志で向かいたい。


蝶は月の光を背に、静かに羽ばたいた。

花々の香りを抜け、芽吹いた枝のあいだをすり抜ける。


眼下には、雪解け水を集めた川が、月の光を映しながら流れていた。

蝶はその流れを越え、風の通り道をたどるように、山々の向こうへと進んでいく。


小さな翅が、夜明け前の空気をかすかに震わせた。

その一振りに、言葉にならない想いを乗せて。


ただ、まっすぐに。

遠い庵を目指して、飛んでいった。


朝になる頃、風が優しく流れ、青い蝶はチョンハオの庵へとたどり着いた。

庭先の梅の枝をかすめ、朝靄の残る石畳を越えて、蝶は戸の前にふわりと舞い降りる。


淡い青の光が、静かにその身を包んだ。

光はひとひらの花びらのように広がり、やがて朝の空気へと溶けていく。


その光の中から、一人の女が姿を現した。

ジンランだった。


春風が長い髪を揺らし、衣の裾をそっとなびかせる。

以前よりも凛とした面持ちには、穏やかな強さが宿っていた。

瞳に浮かぶ光も、どこか澄み渡っている。


彼女は、懐かしい庵を見上げた。


ここへ来るまで、何度も心の中で言葉を考えていた。

顔を見たら、まず何と言おう。


久しぶりです、と言えばいいのだろうか。

それとも、また教えを受けに来ました、と以前のように告げればいいのだろうか。

けれど、どれもしっくりこなかった。


彼に会いたかった。

ただ、その気持ちが、彼女をここまで連れてきたのだ。

そう思うと、今さらながら頬が熱くなる。


ジンランは一度、小さく息を吸った。


そして、戸に手を伸ばしかけた、そのときだった。

内側から、戸が開いた。


「…ジンラン?」


姿を現したチョンハオは、目の前に立つ彼女を見て、わずかに動きを止めた。


朝の光を背に、春風に髪を揺らす彼女。

見間違えるはずがない。


けれど、思いがけない再会に、すぐには言葉が出てこなかった。


ジンランもまた、いざ彼を目の前にすると、用意していた言葉がすっかりどこかへ行ってしまった。


「あの…」

口を開いたものの、続きが出てこない。


チョンハオは黙って彼女を見つめていた。


その眼差しに見守られるほど、ジンランは落ち着かなくなった。

指先をそっと重ね、視線を下げる。


それでも、ここまで来たのだ。

伝えずに帰るわけにはいかない。


「戻ってきました…」

ようやく口にした言葉は、自分でも驚くほど小さかった。


言ってから、ジンランはますます気恥ずかしくなった。

何だか、ずいぶんと当たり前のことを言ってしまった気がする。


本当に伝えたいのは、そんなことではない。


「その…」


ジンランはちらりとチョンハオを見上げ、すぐにまた目を伏せた。


頬が熱い。

こんなにも言葉にするのが難しいとは、思ってもいなかった。


普段なら、もう少し落ち着いて話せるはずなのに。

人の悩みに耳を傾けることも、自分の考えを伝えることも、以前よりずっとできるようになったはずなのに。

彼の前では、どうしてこうも勝手が違うのだろう。


指先が、衣の端をそっとつまむ。


「あなたに、また会いたくて…」

そこまで言って、ジンランは口を閉じた。

とうとう、言ってしまった。


彼の顔を見る勇気がなくて、俯いたまま、わずかに身じろぎする。


彼女はそろそろと顔を上げた。


「…戻ってきても、良かったでしょうか?」

最後の言葉は、少しだけ心細げに揺れていた。


チョンハオの瞳が、大きく見開かれた。


彼女に会いたいと思っていた。

幾度となく、その姿を思い浮かべた。

今頃どうしているだろうかと考え、彼女が歩む道を思い、胸に浮かぶ言葉を何度も飲み込んだ。


それでも、自分から彼女を呼び戻すことはしなかった。

彼女が選ぶ道を尊重したかったからだ。


だから、再び会える日が来るとしても、それはいつになるかわからないと思っていた。


もしかすると、二度と会えないのかもしれない。

そんな可能性さえ、心のどこかで受け入れようとしていた。


それなのに。

今、彼女は自分の前に立っている。

自分に会いたかったと、恥ずかしそうに告げている。

そして、ここへ戻ってきてもよいかと尋ねている。

まるで、そんなことを聞く必要などないと伝えたくなるほどに。


チョンハオの胸の奥で、何かが大きく揺れた。


答えなければ。

そう思った。


戻ってきてくれて嬉しいと。

ずっと会いたかったと。

伝えたい言葉はいくつもあった。


けれど、そのどれもが、声になる前に胸の奥であふれてしまった。

気づけば、チョンハオは一歩、彼女との距離を詰めていた。


ジンランが驚いて顔を上げる。


次の瞬間、その身体は彼の腕の中にあった。


「…っ」


思いがけないことに、ジンランは息を呑んだ。


チョンハオは何も言わなかった。

ただ、彼女を抱きしめていた。


細い肩を腕の中に包み込み、そこに確かな温もりがあることを確かめるように。


もう一度会いたいと願っていた人が、今、自分の腕の中にいる。

その事実を、言葉ではなく、触れることで確かめずにはいられなかった。


ジンランはしばらく、何が起きたのかわからないまま立ち尽くしていた。


いつも静かで、どんなときも落ち着いているチョンハオ。

その彼が、こんなにも唐突に自分を抱きしめるなんて。

驚きに見開かれた瞳が、ゆっくりと揺れる。


やがて彼女の頬に、ふわりと笑みが浮かんだ。


「…チョンハオ様。」

小さく名を呼ぶ。

返事はなかった。


けれど、彼の腕がわずかに彼女を抱き直した。

その仕草に、ジンランの胸が温かくなる。


彼もまた、自分に会いたいと思ってくれていたのだろうか。

そうであったなら、どれほど嬉しいだろう。


確かめるように、彼女はそっと両腕を持ち上げた。

そして、彼の背に回す。

ためらいがちだった指先が、やがて衣をしっかりとつかんだ。


チョンハオの胸元に頬を寄せると、彼の温もりが伝わってくる。

ジンランは目を閉じ、静かに息を吐いた。


もう、言葉はいらなかった。

二人はしばらく、互いの腕の中にいた。


戸口から吹き込む春風が、二人の髪をそっと揺らしていく。

庭の梅の枝が風にしなり、ほころんだ花びらが一枚、朝の光の中を舞った。


チョンハオは、腕の中のジンランを抱きしめながら、ゆっくりと目を閉じた。

彼女の温もりが、あまりにも確かだった。


ずっと胸の奥に押し込めてきたものが、静かにほどけていく。


ただ、会いたかった。

ずっと、会いたかったのだ。

その想いを認めた途端、胸の奥が静かな喜びで満たされていった。


チョンハオは、彼女の背に添えた手にそっと力を込めた。

ジンランもまた、その腕の中で微笑んでいた。


今はまだ、互いの気持ちを言葉にして確かめたわけではない。


けれど、彼女が戻ってきたこと。

彼が彼女を抱きしめたこと。

その二つの出来事が、何よりも雄弁に、二人の心を語っていた。


外では、春風が庭を渡っていた。

梅の花びらが、二人の足元へ静かに降り積もる。


長い冬を越えた枝に咲く花は、誰に急かされることもなく、ただその時を迎えていた。


光の差し込む戸口で、二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。

まるで、ようやく巡り合った春を、確かめるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。