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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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18/21

光を映す者

朝靄の漂う森の小径を、チョンハオとジンランは並んで歩いていた。


夜の名残を含んだ冷たい空気が、木々の間をゆっくりと流れている。

葉先には細かな露が宿り、二人が通り過ぎるたび、かすかな振動に揺れては、朝の光を受けてきらりと輝いた。


やがて、東の空から淡い陽光が差し込み始める。

薄い靄を透かした光が木々の隙間から幾筋もこぼれ、苔むした岩や湿った土、足元に落ちた葉を柔らかく照らしていく。


つい先ほどまで静まり返っていた森が、少しずつ目を覚ましていくようだった。


鳥の声が遠くで響く。

風が枝を揺らし、葉擦れの音が重なっていく。

そのすべてが、まるで朝という一つの命を形づくっているかのようだった。


ジンランは、そんな景色を眺めながら歩いていた。

チョンハオとこうして並んで歩くことにも、少しずつ慣れてきた。


けれど―― 隣を歩く彼の横顔を意識するたび、胸の奥には今でも小さな鼓動が生まれる。


何か特別な言葉を交わしているわけではない。

肩が触れるほど近いわけでもない。

それでも、同じ道を歩き、同じ朝の空気を吸っている。


そのことが、ジンランには不思議なほど心地よかった。


ふと、前を歩いていたチョンハオが足を緩めた。


そして、静かに口を開く。

「ジンラン…」


呼ばれた名に、ジンランは顔を上げた。


「はい。」


振り向いたチョンハオの瞳には、朝靄を映したような淡い光が宿っていた。

その眼差しはいつものように穏やかだったが、どこかいつもとは違う。


「そろそろお前にも見せよう。私が、どのように人の心を照らしているかを。」


その言葉が、朝の静けさの中へ静かに落ちていく。


ただ「見せる」と告げただけのはずなのに――

そこには、これまでとは違う何かがあった。


これまでジンランが学んできたのは、自分自身の心と向き合うことだった。


心を鎮めるのではなく、感じること。

痛みを消すのではなく、そこにあるものとして受け入れること。

誰かを無理に救おうとするのではなく、その人自身の中にある光に気づくこと。


けれど、それはまだ教えの中でしか知らない。


では――

人の心を照らすとは、本当はどういうことなのか。

その答えを、これから自分の目で見ることができる。


そう思った瞬間、ジンランの胸が小さく高鳴った。


チョンハオの声は、風よりも静かだった。

それなのに、不思議なほど遠くまで届く。

まるで言葉そのものが空気に溶け込み、森の奥へ静かに波紋を広げていくようだった。


木々の葉がかすかに揺れる。

その葉脈の一つひとつまで、その声に呼応しているように感じられた。


ジンランは、しばらく何も言えなかった。

胸の内に、期待がゆっくりと広がっていく。


そして、その期待の奥には―― もう一つ、別の想いもあった。


この人が、どんなふうに人を導くのか。

どんなふうに誰かの心に寄り添うのか。

もっと知りたい。


師としてだけではなく――

一人の人として、もっとこの人のことを知りたい。

そんな想いが、まだ淡いまま、胸の奥で静かに息づいていた。


「はい…」

ようやく返した声は、ほんの少しだけ震えていた。

けれど、それは不安からではなかった。


「私、ずっと見てみたかったんです。」

その言葉を口にすると、ジンランは自分でも気づかないほど柔らかく微笑んだ。


これまで学んできたことの先に、何が待っているのか。

自分がこれから、どんな光を見つけることになるのか。

まだ、何もわからない。


それでも――

チョンハオと並んで歩くこの道の先に、それがある。

そんな確かな予感だけがあった。


チョンハオは、彼女の言葉を聞くと、ほんのわずかに目を細めた。

その表情には、静かな喜びが滲んでいる。


「そうか。」

短い言葉だった。

けれど、その声はどこか柔らかかった。


二人は再び歩き始める。

朝靄の向こうへ。

まだ誰も知らない光の場所へ。


そしてジンランは、隣を歩くチョンハオの横顔を、ほんの一瞬だけ見つめた。


その胸の高鳴りが、修行への期待だけによるものなのか――

それとも、別の何かなのか。

今の彼女には、まだわからなかった。


ただ一つわかっているのは――

この人と一緒に見る「光」が、今までとは少し違って見えるような気がしていた。


朝の光が、二人の歩く小径を静かに照らしていた。


湖を下った先には、山々に囲まれるようにして、小さな村があった。


二人が村へ辿り着く頃には、朝の静けさも薄れ、村のあちこちから人の気配が感じられるようになっていた。

けれど、そこに満ちているのは活気ではなかった。


病に伏せ、床から起き上がれなくなった者。

長く続く痛みに耐えながら、ただ静かに日々を過ごしている者。

そして――愛する人を失い、その悲しみから抜け出せずにいる者。


家々の軒先には、干された薬草が風に揺れている。

けれど、その香りさえも、どこか物寂しく感じられた。


ジンランは、チョンハオの後ろを歩きながら、村の様子を見つめていた。


これまでなら、病人を見れば治癒の術を使おうとしただろう。

苦しんでいる人を見れば、その痛みを取り除こうとした。


けれど――

今日、チョンハオがすることは違った。


一人の老人の前に腰を下ろす。


術を使うこともない。

身体に触れることもしない。

ただ、その人の目を静かに見つめ、話を聞いていた。


老人がこれまで抱えてきた痛みを語れば、途中で遮ることなく耳を傾ける。


妻を亡くしたという男の話も。

病に怯える若者の話も。

子を失った母親の話も。


チョンハオは、誰一人として急かさなかった。


「…そうか。」

ときおり、ただそれだけを返す。

その声はあまりにも静かで、最初は何もしていないようにさえ見えた。


けれど――

ジンランには、少しずつわかり始めていた。


チョンハオの言葉は、耳で聞くためだけのものではない。

言葉が発せられるたび、その声に重なるように、ごく淡い気配が空気へ溶けていく。


それは風に似ていた。

触れようとしても、指の間をすり抜けてしまうほどかすかなもの。


けれど、確かにそこにある。

そして、必要なところへ静かに届いていく。


やがて、チョンハオは一人の女性の前に座った。


まだ若い女性だった。

けれど、その顔には長い年月を生きてきたような疲れが滲んでいる。

膝の上で握りしめた両手は、小さく震えていた。


「…あの人がいなくなってから、何をしても意味がないんです。」

絞り出すような声だった。


「朝になっても…目を覚ます理由がなくて。あの人が帰ってくる気がして、何度も玄関を見てしまって…」

そこで言葉が途切れた。


女性の目から、涙が零れ落ちる。


ジンランは思わず一歩前へ出そうになった。

けれど、その足を止めた。

チョンハオが、静かに女性を見つめていたからだ。


慰めるわけでもない。

「大丈夫だ」と、安易に励ますわけでもない。


ただ――

その悲しみを、そのままそこに置いてやるように。


しばらくして、チョンハオが口を開いた。

「痛みは、命の中の“光の証”だ。」


その声は、森を渡る風よりも静かだった。

けれど、不思議なほどはっきりと女性の心へ届いていく。


「それを消そうとすれば――」

一度、言葉を止める。


そして、柔らかく続けた。

「光もまた、消えてしまう。」


女性は、涙を流したままチョンハオを見つめた。


何か特別な術が施されたわけではない。


それなのに――

その瞬間。

村を包んでいた空気が、ほんのわずかに変わった。

張り詰めていたものが、静かにほどけていく。


女性の肩から、すとんと力が抜けた。

堪え続けていた涙が、頬を伝って落ちていく。

けれど、その涙には先ほどまでの苦しさとは違うものが混じっていた。


悲しみを消したわけではない。

愛する人を失った事実が変わったわけでもない。


それでも――

その悲しみを抱えたまま、生きていってもいい。

そんな小さな許しが、心の奥に生まれたようだった。


ジンランは息を呑んだ。

その瞬間、彼女の目には、チョンハオの周囲に漂うものがはっきりと見えた。


淡い金色の霧。

それは光そのものというより、光が空気に溶け込んだような、柔らかな揺らめきだった。


チョンハオが言葉を紡ぐたび、その光はかすかに広がっていく。

けれど、それは誰かの心へ無理に入り込むものではない。


ただ、その人の周囲に静かに在り続ける。

その人自身が、自分の中にあるものへ気づくまで。


ジンランは、ようやく理解した。

――これが、チョンハオ様の“神気”。


人を動かすための力ではない。

人の心を思い通りに変える力でもない。


ただ、世界に流れる気を整え、その人自身が自分の光へ目を向けられるようにする――

そんな、静かな波動なのだ。


「あなたの言葉…」

気づけば、ジンランは呟いていた。


チョンハオが振り返る。


「まるで、風のようですね。」


その言葉に、チョンハオは微かに目を細めた。


「風は形を持たぬが、すべてに触れる。」


淡い金色の気配が、彼の周囲で静かに揺れる。


「導きとは、形のない風と同じだ。」

そう言って、彼は村の向こうへ視線を向けた。


「必要な場所に――ただ、そっと吹けばいい。」


その言葉が、ジンランの胸へ静かに沁み込んでいった。


かつての自分なら、誰かが苦しんでいれば、すぐに手を差し伸べようとした。


傷を癒そうとした。

痛みを取り除こうとした。

それが「救う」ということなのだと思っていた。


けれど――

違った。


痛みを消さなくてもいい。

涙を止めなくてもいい。


その人が自分自身の痛みを抱えながら、それでも前を向くことができるのなら。

その人自身の中にある光を、もう一度見つけることができるのなら。


それこそが、本当の意味で人を救うということなのかもしれない。


ジンランの瞳に、ゆっくりと涙が滲んだ。


「…そういうことだったんですね。」

小さな声が、唇からこぼれる。


チョンハオは何も答えなかった。

ただ、静かに彼女を見つめている。

その眼差しが、答えの代わりだった。


ジンランは、村の人々へ視線を戻した。


さっきまで俯いていた女性が、涙を拭っている。

まだ悲しみは消えていない。


それでも、ほんの少しだけ顔を上げていた。

その目には、かすかな光が戻っている。


その光を見つめながら、ジンランの胸は静かに満たされていった。


(…なんて、美しい。なんて、尊い…)


それは、これまで彼女が知っていた「救い」とは違っていた。


誰かの痛みを自分の力で消してしまうことではない。

誰かの人生を、自分の望む方向へ導くことでもない。


ただ、その人が自分自身の光を見つけられるように――

そっと照らす。

それだけ。


チョンハオが再び言葉を紡ぐたび、周囲の空気が淡い光を帯びて揺らめいた。


村を渡る風が草花を撫でる。

小さな花々が、その風に合わせるようにかすかに揺れた。


まるで森も、空も、大地も――

彼の放つ神気に触れ、静かに調和しているかのようだった。


ジンランは、しばらくその光景から目を離せなかった。

頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ見つめている。


自分がずっと探していたもの。

「人を救う」ということの、本当の意味。

その答えが、今、目の前にある。


そしてその光景を見つめるうちに――

ジンラン自身の中にも、静かな光が灯っていく。


それは誰かから与えられたものではない。

チョンハオが無理に灯したものでもない。

彼の姿を見て、自分自身の心の中にある光へ、ジンランが初めて気づいたのだ。


風が、涙に濡れた頬をそっと撫でていった。


その風はどこまでも静かで――

まるで、光そのものが彼女の頬を撫でているようだった。


その夜。


碧霧の庵を包む森は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。

昼の光を受けていた木々は深い影を落とし、湖から流れてくる夜風が、葉の間を静かにすり抜けていく。


遠くから、虫の声がかすかに響いていた。

それ以外には、ほとんど何も聞こえなかった。


庵の庭にある小さな石段に、二人は並んで腰を下ろしていた。

少しだけ間を空けて。

けれど、離れすぎない距離で。


頭上には、澄みきった夜空が広がっている。

月は高く昇り、淡い光を湖へ落としていた。

水面に揺れる月影は、風が吹くたびに細かくほどけては、またひとつに戻っていく。


ジンランは、しばらくその光景を黙って眺めていた。

隣にいるチョンハオも、何も言わない。


こうして並んでいるだけなのに、不思議と心が落ち着いた。


以前なら、沈黙が続けば、何かを話さなければならないと思っていた。

けれど、ここでは違う。

言葉がなくても、不思議と心が離れているようには感じなかった。


むしろ――

この静けささえ、心地よかった。


やがて、ジンランが小さく息を吸う。


「チョンハオ様…」

夜風に溶けるような声だった。


「…なんだ?」


チョンハオが、静かに顔を向ける。


その淡い月明かりの中で見る横顔は、昼間よりもどこか遠く感じられた。

それでも、その瞳に宿る光だけは、いつもと変わらない。


ジンランは、少しだけためらってから口を開いた。

「私もいつか…あなたのように、人々を導けるようになりたいです。」


言葉にするたび、自分の中にある想いが、少しずつ形になっていく。

「誰かの中にある光を…見つけるお手伝いがしたいんです。」


その言葉を聞いた瞬間。

チョンハオの胸の奥に、かすかな波紋が広がった。

静かな湖面に、一滴の雫が落ちたようだった。


――導きたい。

――誰かの光を見つけたい。

その願いは、以前のジンランにはなかったものだ。


闇の中で傷つき、誰かに救われることを求めていた彼女が。

今は、自分の足で立ち、自分の目で光を見つめようとしている。


その成長が、嬉しかった。

誇らしかった。


けれど――

それだけではなかった。

胸の奥に生まれたものを、チョンハオはまだ正確に言葉にできない。


それは、弟子を見守る師の慈しみなのか。


それとも――

もっと個人的で、もっと危うい何かなのか。


理性によって静かに整えられていた心に、ほんの一瞬だけ、小さな揺らぎが生まれる。

その揺らぎに戸惑うように、チョンハオの視線がジンランの横顔へ向いた。


月明かりを受けた頬。

風に揺れる髪。

そして、言葉を紡ぐたびにわずかに動く唇。


――美しい。


そう思った瞬間、自分の胸に生まれた感情を、チョンハオはもう否定できなかった。


気づけば。

彼の手が、すぐ隣に置かれていたジンランの手へ伸びていた。


ほんの少し。

ためらうように指先が動き――


そして。

そっと、触れた。


指先と指先が重なる。

たった、それだけだった。


けれど。

その瞬間だけ、夜の世界から音が消えたように感じられた。


虫の音も。

木々を渡る風の音も。

遠くで揺れる湖のさざ波さえも。

すべてが、遥か彼方へ退いていく。


ジンランは息を呑んだ。


触れた指先から、じんわりと温もりが広がっていく。

それは、炎のような熱ではなかった。


むしろ、凍えた身体を包む陽だまりのような――

静かで、優しい温もり。


握られた手から伝わってくるものが、指先だけに留まらない。


掌へ。

腕へ。

そして、胸の奥へ。

ゆっくりと、温かな波となって広がっていく。


(…温かい…)


ただ手に触れられただけなのに。

どうして、こんなにも心が満たされるのだろう。


ジンランは、自分でも戸惑うほどの安らぎに、そっと目を伏せた。


その手を振りほどこうとは思わなかった。


むしろ――

このまま、もう少しだけ。

この温もりを感じていたい。

そんな想いが、胸の奥から静かに湧き上がってくる。


まるで、長い旅を終えた魂が、ようやく帰る場所を見つけたような。

まるで、天そのものにそっと抱かれているような。

そんな、不思議な安心感だった。


チョンハオもまた、何も言わなかった。

自分の指先に伝わる、ジンランの小さな温もりを感じている。


神である彼にとって、人の温もりなど、これまで何度も触れてきたものだった。


けれど――

なぜだろう。


今、この手だけは。

ひどく大切なもののように感じられた。


「…お前なら、できる。」

ようやく口からこぼれた声は、いつものような揺るぎないものではなかった。


ほんのわずかに。

誰にも気づかれないほどかすかに、震えていた。


ジンランが顔を上げる。

月明かりの中で、二人の視線が重なった。


その瞬間。

チョンハオは、自分が何をしているのかを思い出した。


――私は、何をしている?

その問いが、静かに胸へ落ちる。


次の瞬間。

チョンハオは、そっと手を離した。

指先から温もりが消える。


それはあまりにも早くて――

ジンランは、わずかに名残惜しさを覚えた。

けれど、それを口にすることはできなかった。


離れていく指先を見つめながら、ジンランはそっと手を握る。

そこに残った温もりを、逃がさないようにするかのように。


一方、チョンハオは月へ視線を戻した。


(…いけない。私は神だ。)

胸の奥で、静かに呟く。


神は、すべての命に等しく光を注ぐ存在。

誰か一人だけに心を寄せてはならない。

誰か一人を特別に想えば、その想いはいつか、相手の道を曇らせるかもしれない。


――愛とは、相手を縛るものではない。

そう信じてきた。


だからこそ。

自分の中に生まれた、この感情を認めることが怖かった。


けれど。

今、離したばかりの手に残る温もりを思えば、胸の奥がわずかに痛む。

それは、これまで知らなかった痛みだった。


神として、永い時を生きてきた彼が。

初めて知る――

ひとりの人間を、ただひとりの女性として想うことの痛み。


理と感情。

神としての自分と、一人の男としての自分。

その狭間で、チョンハオは静かに目を閉じた。


夜風が二人の間を通り抜ける。

けれど、その風は不思議なほど冷たくなかった。


隣では、ジンランが小さく微笑んでいる。

頬には、まだほんのりと赤みが残っていた。


「今はまだ…遠いですけれど…」


その声に、チョンハオが目を開く。


ジンランは月を見上げながら、静かに続けた。

「いつか、あなたのように…優しく、強くなりたいです。」


その言葉に、チョンハオはすぐには答えなかった。

ただ、月を見上げる。

その横顔はいつものように静かだった。


けれど――

その瞳の奥に宿る光は、ほんの少しだけ揺れていた。


弟子の成長を見守る師としての誇り。


そして、それだけではもう説明できなくなりつつある――

ひとりの人を慈しむ心。

その二つが、月明かりの中で静かに重なっていた。


やがて、チョンハオはほんの僅かに口元を緩めた。


ジンランはそれに気づかない。

ただ、隣にいる彼の気配を感じながら、もう一度だけ月を見上げた。


触れたのは、ほんの一瞬。

言葉も、ほんのわずか。


それでも――

その夜の出来事は、二人の心の奥に、小さな光として残った。


まだ名前のない想い。

まだ、誰も口にしない想い。


それは夜風に揺れる灯火のように、消えることなく――

静かに、二人の間で芽吹き始めていた。


それからの日々。

ジンランは、チョンハオの傍らで、少しずつ人々と向き合うことを覚えていった。


病に苦しむ者がいれば、その傍に静かに座った。

愛する人を失った者がいれば、無理に励ますことはせず、その人の言葉を最後まで聞いた。

不安に震える者には、ただ微笑みかけることもあった。


以前のジンランなら、それだけでは足りないと思っていただろう。

手を差し伸べなければ。

術を使わなければ。

痛みを取り除かなければ。


――自分は、何の役にも立てていない。

そう思っていた。


けれど、今は違う。

人の痛みを前にしても、すぐに消そうとはしない。

その人が抱えている悲しみも、迷いも、恐れも。

まずは、そのまま受け止める。


そして、その人自身が自分の中にある光へ目を向けられるように、そっと言葉を置く。

「大丈夫です。」


そんな簡単な言葉でさえ、以前とは違っていた。

ただ安心させるために言うのではない。


その人自身の中に、もう一度立ち上がる力があることを――信じて伝える。


最初の頃は、言葉を選ぶたびに迷った。

これでいいのだろうか。

余計なことを言ってはいないだろうか。

相手の心へ踏み込みすぎてはいないだろうか。


けれど、そんな迷いさえも、チョンハオは急かさなかった。


「焦る必要はない。」

ただ、それだけを言う。


そして、彼女が自分で考え、自分で言葉を見つけるまで、静かに待っていた。


その距離が、今のジンランには少しずつ心地よくなっていた。


誰かに答えを与えてもらうのではなく。

自分自身で見つけていく。

そのことが、いつしか彼女の中に小さな自信を育てていた。


やがて――

村人たちの表情にも、少しずつ変化が見えるようになった。


病がすぐに治るわけではない。

失った人が戻ってくるわけでもない。


それでも。

以前は俯いたままだった者が、空を見上げるようになった。

涙を流しながらも、明日のことを口にするようになった。

誰かの手を借りながらでも、自分の足で歩こうとする者が増えていった。


それを見つめるたび、ジンランの胸に静かな喜びが広がった。


――ああ。

こういうことなのだ。

導くということは。


光を与えることではない。

誰かのために、自分が光になろうとすることでもない。

その人の中に、もともと眠っている光を信じること。


そして、その光が自ら芽吹くまで――

ただ、そばで見守ること。


そのことを、ジンランはようやく自分の心で理解し始めていた。


夕暮れ。

その日の村での務めを終え、二人は庵へ戻る道を歩いていた。


山あいの道には、夕陽が斜めに差し込んでいる。

昼間の白い光とは違う、どこか柔らかな色だった。

木々の間からこぼれた光が、二人の足元へ細長い影を落としている。


風が吹く。

草の葉が揺れ、木々の枝がさらさらと音を立てる。

その風には、昼間の熱が少しだけ残っていた。


ジンランは、隣を歩くチョンハオをそっと見上げた。

彼はいつものように静かだった。


何かを考えているようにも見える。

けれど、その横顔には、以前よりも柔らかなものがあった。


ジンランは、ふと笑う。

こうして隣を歩くことにも、いつの間にか慣れていた。


初めてこの道を歩いた頃は、彼の背中を追いかけるだけで精一杯だった。


何を考えているのか。

何を求めているのか。

どんなことを教えてくれるのか。

そんなことばかり気にしていた。


けれど今は――

ただ、一緒に歩いている。

それだけで、不思議と心が満たされていた。


そのとき。

少し先を歩いていたチョンハオが、ふと足を止めた。

そして、振り返る。


「…チョンハオ様?」

呼びかけるジンランの声に、夕暮れの風が重なる。


チョンハオは、しばらく何も言わずに彼女を見つめていた。

その瞳には、夕陽が映っている。

淡い金色の光が、その奥で静かに揺れていた。


やがて、静かな声が落ちる。

「今日…お前の中の光が、ひとつ芽吹いたな。」


ジンランは、目を瞬いた。


「…私の中の、光が…?」


「そうだ。」


チョンハオは小さく頷く。


「以前のお前なら、誰かの痛みを見れば、すぐにその痛みを消そうとした。」

責めるような声ではなかった。

むしろ、懐かしむような優しさがあった。


「だが、今日は違った。お前は、相手の痛みを奪わなかった。その人自身が立ち上がるまで、ただ傍にいた。」


チョンハオの視線が、柔らかく細められる。


「それは、簡単なことではない。」


夕陽を含んだ風が、二人の間を通り抜けた。


ジンランの髪がふわりと揺れる。

チョンハオの袖も、同じ風に揺れた。


「…お前は、自分の光を見つけ始めている。」


その言葉を聞いた瞬間。

ジンランの胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「…はい。」


小さく頷く。

そして、少し照れたように笑った。


「私、自分の中の“気”が…少しわかった気がします。」


チョンハオは何も言わなかった。

ただ、彼女の言葉を受け止めるように、静かに頷いた。


その眼差しには、師としての誇りがあった。

けれど、それだけではない。


以前よりも近くなった彼女を見つめる、その瞳の奥には――

言葉にすることのできない、柔らかな温もりが宿っていた。


ジンランは、その視線に気づいたような、気づかないような顔で、再び前を向く。


夕陽が、二人の歩く道を金色に染めている。

風が吹く。

草花が揺れる。

その風に押されるように、二人は再び歩き始めた。


ふと気づけば。

いつの間にか、二人の歩幅は揃っていた。


どちらかが合わせたわけでもない。

チョンハオが速さを緩めたわけでも。

ジンランが急いだわけでもない。


ただ自然に。

同じ歩幅で。

同じ道を歩いている。


ジンランは、隣にある気配を感じながら、そっと微笑んだ。

その横顔を見て、チョンハオもまた、ほんのわずかに口元を緩める。


言葉はなかった。

けれど――

今は、それでよかった。


かつては、師と弟子という距離があった。

光を与える者と、光を求める者という違いもあった。


けれど今。

二人はただ、同じ夕暮れの中を歩いている。


一方が導き、一方が追いかけるのではない。

互いの光を感じながら。

互いの歩みを尊重しながら。

同じ風の中を、並んで進んでいく。


夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。


その二つの影は、地面の上でいつしかひとつに重なり――

そのまま、静かな山道の向こうへと消えていった。

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