卒業と開放
ジンランがイェンミンに、自分の本当の気持ちを正直に伝えてから――
二人は再び、それぞれの忙しい日々へと戻っていった。
館には相変わらず、人々から寄せられる依頼が絶えなかった。
癒しを求めて訪れる者。
悪しきものに取り憑かれ、助けを求める者。
長く続く不運の原因を探してほしいと願う者。
ジンランはそれら一つひとつに向き合い、己の力を使って人々を救っていった。
以前なら、何か困ったことがあればイェンミンに尋ねていた。
術の使い方に迷えば、その背中を探した。
ほんの些細なことでも、彼の顔色を窺いながら答えを求めていた。
けれど、今は違う。
自分で考え、自分で決め、自分の力で道を切り拓いていく。
その日々は忙しく、決して楽なものではなかったが――
その忙しささえ、今のジンランにはどこか心地よかった。
イェンミンと顔を合わせる機会も、以前よりずっと減っていた。
互いに仕事を抱え、同じ館にいながらも、すれ違うだけの日さえある。
以前なら、彼の姿を見れば心が強張った。
何を言われるのかと身構え、その視線を意識し、ほんの些細な言葉にさえ心を揺らされていた。
けれど今は――その必要がない。
それだけでも、ジンランにとっては大きな変化だった。
もちろん、恐れがすべて消えたわけではない。
ふとした瞬間に、胸の奥にあの日々の記憶が蘇ることもある。
イェンミンの表情を見れば、かつて感じていた緊張が身体のどこかに残っていることを思い知らされることもあった。
それでも。
以前とは違う。
恐れの中にあったはずの心に、今は小さな光が灯っている。
その光を支えてくれているのは、チョンハオの言葉だった。
イェンミンとすれ違ったとき。
胸の奥に、ほんのわずかな不安がよぎったとき。
ジンランは、心の中でそっとその言葉を繰り返した。
『感謝の想いは、必ず届く。イェンミンも、きっとその優しさを感じている。』
その言葉を思い出すたび、張り詰めていた心がほんの少しだけ緩んだ。
自分は、もう過去には戻らない。
けれど、だからといって、これまでの日々をすべて否定する必要もない。
母を救ってくれたこと。
自分に力を与えてくれたこと。 何も知らなかった自分に、術を教えてくれたこと。
そのすべてが、今の自分を形作っている。
だからこそジンランは、憎しみではなく感謝を抱いて前へ進もうとしていた。
それが、チョンハオの教えてくれた「光への道」なのだと思う。
ジンランは小さく息を吐くと、再び目の前の仕事へと意識を戻した。
まだ、先のことは分からない。
それでも――今は、自分の足で歩いていける。
そう思えることが、何よりも嬉しかった。
一方で、イェンミンもまた、静かな揺らぎの中にいた。
ジンランの言葉は、受け止めた。
彼女がもう自分を恋の相手として見ていないことも。
自分を師として敬い、感謝しているのだということも。
頭では、理解している。
そして、彼女が自分に嘘をつかなかったことを、イェンミン自身も分かっていた。
だから、責めることはできなかった。
むしろ――正直に告げてくれたことに、どこか安堵している自分さえいた。
それでも、胸の奥に残ったものが消えるわけではない。
ふとした瞬間、ジンランの姿を目で追っている自分に気づく。
誰かと話している姿。
人を癒している姿。
以前よりもずっと迷いなく、自分の力を使っている姿。
その姿を見るたびに、嬉しいと思う。
同時に、胸のどこかが痛む。
――もう、私がいなくても歩いていける。
そう思うたび、喜ぶべきことだと自分に言い聞かせる。
けれど、その言葉だけでは、胸の奥に残る寂しさまでは消えてくれなかった。
自分は、これから彼女とどう向き合えばいいのだろう。
以前のように、師として接すればいいのか。
それとも、少し距離を置くべきなのか。
彼女の自由を尊重すると決めたのなら、自分はどこまで彼女の傍にいていいのか。
答えは、まだ見つからない。
愛しさも。
切なさも。
手放したくないという気持ちも。
すべてが、まだ胸の内に残っている。
けれど、それを今のジンランに向けてはいけないことだけは、少しずつ分かり始めていた。
だからイェンミンは、何も言わなかった。
ただ、いつも通りに日々を過ごした。
仕事をこなし、弟子たちの様子を見て、寄せられる依頼に応える。
そうして忙しさの中に身を置いている間だけは、余計なことを考えずに済む。
けれど夜になり、館が静まり返ると――
どうしても考えてしまう。
あのときのジンランの言葉。
『今の私は、もうあなたを恋する相手として見てはいません。』
その声が、何度も胸の中に蘇る。
イェンミンは一人、静かな部屋の中で目を伏せた。
受け入れなければならない。
彼女の心が、自分から離れていくことを。
そして――これから二人が、どんな関係を築いていくのかを。
まだ、その答えは見えない。
だから今はただ、それぞれの場所で日々を重ねるしかなかった。
同じ館の中で。
同じ月の光を浴びながら。
それぞれの胸に残った想いを抱えたまま――
二人は、静かに時間を過ごしていた。
そんなある夜のことだった。
館が静寂に包まれ、夜の気配が深まった頃。
イェンミンは、不意に夢を見た。
そこには、見慣れたはずの館も、黒い山々もなかった。
ただ、どこまでも澄み渡った空が広がっている。
燦々と降り注ぐ太陽の光が湖面を照らし、細かな波の一つひとつが、まるで無数の星のように煌めいていた。
風は穏やかだった。
水面を撫でるたび、柔らかな光が揺らめき、どこか懐かしい空気を運んでくる。
その湖のほとりに――ひとりの人影が佇んでいた。
長い髪が風に揺れている。
その姿を見た瞬間、イェンミンの足が止まった。
見間違えるはずがない。
もう二度と会うことはできないと思っていた、その面影。
かつて自分のもとで学び、誰よりも長く傍にいた弟子。
娘のように可愛がり、慈しみながら育ててきた、大切な存在だった。
しかし――
自らの手で呪いを施し、その命さえ奪ってしまった女。
「…ヤーシン…」
その名が、唇からこぼれた。
普段なら、どれほど心を乱されることがあっても、それを表には出さないイェンミンの声が――
このときばかりは、わずかに震えていた。
ヤーシンが振り返る。
そこにあったのは、かつての彼女と変わらない、穏やかな笑みだった。
憎しみもない。
恨みもない。
ただ、どこか懐かしむような、温かな眼差し。
それを見た瞬間、イェンミンの胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れ出した。
気づけば、身体が動いていた。
一歩。
また一歩。
そして――夢の中のヤーシンへと駆け寄る。
腕を伸ばし、その身体を強く抱きしめた。
もう二度と離したくないとでもいうように。
けれど、その腕に込められていたのは、かつての執着ではなかった。
言葉では言い表せないほどの後悔。
己への悔恨。
そして――
あのとき、自らの呪いでその命を奪ってしまったことへの懺悔。
長い月日を経ても消えることのなかった重みが、抱きしめた腕の中にすべて集まってくるようだった。
「…ヤーシン…」
もう一度、その名を呼ぶ。
声が震える。
「…すまなかった…」
その言葉は、これまで何度も心の中で繰り返してきたものだった。
けれど、本人を前にして口にするのは、初めてだった。
すると、ヤーシンは静かに腕を伸ばした。
そして、優しく、それでいて確かな力でイェンミンを抱き返す。
「イェンミン様…」
耳元で聞こえた声は、記憶の中にあるものと何も変わらなかった。
「どうか…あなたのもとを去ったことを、許してください。あんなにもお世話になったのに…私は、恩を仇で返してしまいました。」
その言葉に、イェンミンは一瞬、目を閉じた。
「…許してほしいのは、私の方だ…」
胸の奥から、押し出すように言葉が漏れる。
「お前を呪い…その命まで奪ってしまったのは…私だ。」
あのとき。
自分を慕う彼女の心を、正しく受け止めることができなかった。
彼女の想いに応えることもできず、かといって、その心を手放すこともできなかった。
自分の都合で傍に置き、自分の都合で距離を置き――
その結果、彼女の心を深い闇へと追いやってしまった。
そして最後には――
自らが与えた力を奪い返し、その果てに、その魂までも奪ってしまった。
それは、どれだけ時間が過ぎても消えることのない罪だった。
けれど――
ヤーシンは、ただ静かに微笑んだ。
「いいんです、イェンミン様。」
責める響きは、どこにもなかった。
「あなたが与えてくれた、その呪いさえも…私の魂を解き放つ力になりました。」
「…何?」
イェンミンが顔を上げる。
ヤーシンは、湖面に映る光を見つめながら続けた。
「私は、あの場所で終わったのではありません。」
風が吹く。
彼女の髪が柔らかく揺れ、その向こうから差し込む光が、輪郭を淡く縁取っていく。
「苦しみも、憎しみも、執着も…全部抱えたままでは、私はきっと、いつまでもあの場所から出られなかった。」
ヤーシンはゆっくりとイェンミンへ視線を戻した。
「だから、もういいのです。」
その微笑みは、昔の彼女が見せていたものよりも、ずっと穏やかだった。
「私はもう、自由です。」
その言葉を聞いた瞬間――
イェンミンの胸に長い間のしかかっていたものが、ほんの少しずつ、ほどけていった。
自分が、彼女を苦しめてしまったと思っていた。
そして――
自ら彼女の命を奪ってしまったという思いを、心のどこかで拭いきれずにいた。
けれど、ヤーシン自身が「もう自由だ」と言っている。
その事実を、今になってようやく受け止めることができた。
イェンミンは、しばらく何も言えなかった。
ただ、彼女を抱く腕から、少しずつ力が抜けていく。
まるで――もう、強く掴んでおく必要などないと知ったかのように。
すると、ヤーシンは静かに口を開いた。
「イェンミン様。」
「…なんだ。」
「今度は――ジンランの魂を、解放するときです。」
その名を聞いた途端。
イェンミンの表情が、わずかに強張った。
湖面に揺れていた光が、急に遠くなったような気がした。
ジンラン。
自分が守りたいと思った人。
自分のもとに置いておきたいと思った人。
そして今、自分のもとから歩き出そうとしている人。
頭では、分かっている。
彼女には自由が必要なのだと。
自分のもとを離れても、彼女はもう一人で歩いていけるのだと。
それでも――心だけが、まだその事実を受け入れきれていない。
イェンミンは、わずかに視線を逸らした。
「…わかっている。」
低い声が落ちる。
「だが、すぐには――」
その先の言葉を、口にすることができなかった。
手放す。
その言葉が、どうしても喉の奥につかえてしまう。
そんなイェンミンを見て、ヤーシンはふっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、イェンミン様。」
その声には、昔のような無邪気さがあった。
叱るでもなく、急かすでもない。
ただ、幼い頃の記憶を思い出させるような、柔らかな笑顔だった。
「ジンランには――闇は似合いません。」
イェンミンは、黙って彼女を見る。
「ここは、あの娘の居場所ではないのです。」
その言葉が、静かな湖の上へと落ちていく。
波紋が広がる。
――その一言は、かつてヤーシンがジンランに直接放った言葉だった。
その瞬間、あの頃の記憶が、一気に蘇った。
『お前には闇が似合わない。ここは、お前の居場所じゃないわ。』
あのときも、ヤーシンはジンランにそう言っていた。
――もしかすると。
ヤーシンは、あの頃からすでに知っていたのかもしれない。
ジンランが、本当はここにいるべき人間ではないことを。
そして―― 自分が、ジンランをこの闇の中に縛りつけていることを。
ジンランを守るために、ここへ置いていた。
そう思っていた。
けれど本当は――
自分の傍にいてほしかったから、ここに置いていたのではないか。
自分の手の届くところにいてほしかったから。
自分から離れていかないように。
そのことを、もう否定することはできなかった。
「…そう、だな。」
ぽつりと、言葉が落ちる。
そして――
イェンミンの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
それは、諦めの笑みではなかった。
ましてや、すべてを悟った者の笑みでもない。
まだ迷いはある。
まだ手放したくないという想いも残っている。
それでも――長いあいだ心の奥で固く閉ざされていた何かが、ほんの少しだけ動いた。
ヤーシンは、そんなイェンミンを見つめて微笑んでいる。
太陽の光が湖面を照らす。
その眩しさの中で、彼女の姿が少しずつ淡くなっていく。
「待て…」
思わずイェンミンが手を伸ばす。
けれど、ヤーシンはただ穏やかに笑っていた。
まるで――もう、引き留める必要はないのだと伝えるように。
光がさらに強くなる。
その中で、最後に見えた彼女の笑顔は、かつてイェンミンが知っていた、あの無邪気な笑顔そのものだった。
そして――
イェンミンは、目を覚ました。
温かな涙が、頬を伝っていた。
闇の神である自分には、あまりにも似つかわしくない涙だった。
そう思いながらも――
もう、止めることはできなかった。
ヤーシンを失ったという事実。
自らの手で、その命を奪ってしまったという罪。
これまで心の奥深くに押し込め、見ようとしなかったものと――
イェンミンは、今になって初めて向き合っていた。
やがて、唇から小さな嗚咽が漏れた。
そして――
声をあげて、泣いた。
それは――
これまで一度も、彼が見せたことのない姿だった。
誰かを想うことが、こんなにも胸を締めつけるものだとは知らなかった。
失ったことを悔やみ、もう二度と戻らないと知りながら、それでもなお、その人を想わずにはいられない。
その苦しさも。
その痛みも。
溢れる涙さえも――
イェンミンは、そのとき初めて知った。
誰かを愛するということが、その人を失ったあとでさえ、心から消すことのできない存在を抱えて生きることなのだと。
けれど――彼女は最後に、笑っていた。
自分を責めることもなく。
恨むこともなく。
そして、自分自身の足で闇から歩き出していた。
そのことを思うと、胸の奥に長く凝り固まっていたものが、少しずつほどけていくようだった。
やがて、イェンミンは静かに目を閉じる。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
何度か呼吸を繰り返し、乱れていた心を整えると、頬に残った涙を手の甲で拭った。
そして――立ち上がった。
向かう先は、決まっていた。
ジンランの部屋だった。
廊下を歩く足取りは、いつもと変わらないように見えた。
けれど、その胸の内には、これまでとは違う決意があった。
もう、彼女を自分の手の中に置いておくことはできない。
否――
してはいけない。
それは、彼女を愛しているからこそ、選ばなければならないことだった。
やがて、ジンランの部屋の前に辿り着く。
イェンミンは一度だけ足を止めた。
扉の向こうには、ジンランがいる。
今までなら、何の躊躇もなく開けていただろう。
けれど今日は、ほんのわずかに手が止まった。
それでも、静かに手を伸ばす。
そして――
扉を、ノックもせずに開いた。
「…っ」
部屋の中にいたジンランが、驚いて振り返る。
目が合った瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
突然の訪問。
それも、何の前触れもなく。
「イェンミン様…?」
思わず立ち上がりかけたジンランだったが、そのとき――彼の顔を見て、ふと動きを止めた。
いつもと、何かが違う。
よく見ると、イェンミンの目元は赤くなっていた。
ほんの少し腫れているようにも見える。
ジンランは何も言わなかった。
聞いてはいけない気がした。
彼が何を見て、何を思い、何を抱えてここまで来たのか――
それを無理に尋ねることは、今の自分にはできなかった。
ただ静かに、彼を見つめる。
イェンミンもまた、何も説明しなかった。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
やがて――
「…話がしたい。」
低い声だった。
いつものように落ち着いている。
けれど、その奥には、かすかな震えがあった。
その声を聞いた瞬間、ジンランの胸が大きく跳ねた。
不安はある。
緊張もしている。
それでも――逃げずに向き合おうと思えた。
「…もちろんです。」
ジンランは静かに答えた。
その声には、わずかな震えがあった。
けれど、その奥には確かな覚悟があった。
イェンミンはしばらく黙っていた。
何かを言おうとして、言葉を選ぶように視線を落とす。
そして、ようやく口を開いた。
「今まで…お前を縛ってしまって、すまなかった。」
その一言に、ジンランの瞳が揺れた。
イェンミンは続ける。
「私がどれほどお前に怖い思いをさせたか…理解しているつもりだ。」
言葉を紡ぐたび、自分自身の過去を一つずつ見つめ直しているようだった。
「お前の心を無視して、自分の望みを押しつけたこともあった。」
その声は、決して自分を正当化するものではなかった。
「お前が恐れていることを知りながら、それでも自分の傍に置こうとした。」
一度、言葉が途切れる。
そして――
「…あれは、神として決して許されぬ行為だった。」
静かな告白だった。
ジンランは、すぐには答えられなかった。
ずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
けれど、実際にそれを本人の口から聞くと、胸の奥にさまざまな感情が押し寄せてくる。
怖かった。
苦しかった。
逃げたかった。
それでも――
彼に救われたことも、確かだった。
母を救ってくれた。
何も知らなかった自分に、術を教えてくれた。
そして、そのすべてがあったからこそ、今の自分がいる。
だからジンランは、ゆっくりと首を横に振った。
「…それは、違うと思います。」
イェンミンが顔を上げる。
ジンランは、まっすぐ彼を見つめていた。
「私は…縛られていたのではありません。」
その言葉に、イェンミンの瞳がわずかに揺れる。
「もちろん、怖かったことはありました。」
ジンランは、逃げずに続けた。
「苦しかったこともあります。――でも、それだけではありませんでした。」
彼女の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「イェンミン様は、私にたくさんのことを教えてくださいました。」
一つひとつ、確かめるように言葉を重ねる。
「術のことだけではありません。自分の心と向き合うことも…自分の中にある力を知ることも。」
そして、少しだけ息を吸う。
「…本当の愛とは何なのかを考える機会も、くださいました。」
イェンミンは何も言わない。
ただ、彼女の言葉を聞いている。
「私は、あなたのもとに来たことで、たくさんのものを知りました。」
ジンランの瞳に、少しずつ涙が滲んでいく。
「だから…私は、あなたに心から感謝しています。」
その言葉に、イェンミンの胸の奥が大きく揺れた。
彼女は、過去を否定していなかった。
自分の過ちも。
彼女が受けた苦しみも。
それでも、その中にあったものすべてを抱えた上で――
自分自身の道を選ぼうとしている。
その姿を見て、イェンミンはようやく気づいた。
ジンランは、もう自分が守らなければ歩けない存在ではない。
いつの間にか、自分の足で立っている。
自分の力で考え、自分の心で選び、自分の意思で未来を決めようとしている。
――いや。
もう、とっくに自分を超えていたのだ。
「…立派になったな、ジンラン。」
その声には、寂しさが混じっていた。
けれど同時に、確かな誇りもあった。
「私がお前に教えられることは…もう、何もない。」
ジンランの瞳が揺れる。
イェンミンは、ほんの少しだけ笑った。
「卒業のときが来たのだ。」
その言葉が、静かな部屋の中に落ちる。
「今日からは、もう師弟としての縛りはなくなる。」
「…え?」
ジンランが息を呑む。
イェンミンは、そんな彼女を静かに見つめた。
「お前の力を、自分の道で使うのだ。」
その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
そして――
「でも…」
ジンランが戸惑うように口を開く。
「力の封印も…呪いも…この館の掟では…」
それは、彼女をここにつなぎ止めてきたものだった。
力を封じる術。
逃げることを許さない呪。
そして、師のもとから離れることを許さない、この館の掟。
それらがある限り、ジンランは完全には自由になれない。
イェンミンは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、静かに首を横に振る。
「もう必要ない。」
その声には、迷いがなかった。
「すべて解き放つ。」
ジンランの瞳が大きく見開かれる。
「…本当ですか?」
「ああ。」
短い返事だった。
けれど、その一言には長い時間をかけて辿り着いた決意が込められていた。
「お前を縛るものは、もう何も残さない。」
ジンランの目から、一筋の涙が零れた。
イェンミンは、その涙を見つめながら、静かに続ける。
「…お前を愛していたからこそ。」
そこで、一度言葉を止める。
「最後くらいは、私の手で…そっと解放したいんだ。」
その言葉に、ジンランの胸が締めつけられた。
愛している。
その言葉を聞いても、もう以前のように心が揺れることはなかった。
けれど――
その愛が、今度こそ自分を縛るためではなく、自分を自由にするために差し出されたことが分かった。
だから、嬉しかった。
そして、少しだけ寂しかった。
「…ありがとうございます。」
ジンランは涙を拭いながら、静かに微笑んだ。
「イェンミン様。」
その声には、かつての恋ではない。
けれど、確かな敬意と感謝があった。
イェンミンもまた、微笑んだ。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
以前のように、自分のものにするためではない。
ただ、最後の師として。
慈しむように、そっとジンランの頭に手を置いた。
柔らかな髪を、静かに撫でる。
その手には、かつてのような強い執着はなかった。
ただ――愛しさと、誇らしさと、言葉にできない切なさが滲んでいた。
ジンランは目を閉じ、その温もりを受け止める。
これが、最後なのだと思った。
長い間、自分を導いてくれた人の手。
恐れたこともあった。
苦しんだこともあった。
それでも、その手によって救われた日も確かにあった。
だから今は、そのすべてを抱えたまま――ただ静かに受け止めた。
やがてイェンミンは、ゆっくりと手を離した。
二人の間に、静かな沈黙が落ちる。
それは、かつてのような重苦しい沈黙ではなかった。
別れを惜しむためでも。
互いを縛り止めるためでもない。
長い月日を共に歩んできた二人が、それぞれの道へ進むための――静かな間だった。
こうして。
長い間続いた二人の師弟関係は、終わりを迎えた。
けれどそれは、すべてを失う別れではなかった。
イェンミンがジンランを手放したその瞬間――
二人は初めて、師と弟子という関係さえも越えて、それぞれ一人の人間として歩き出そうとしていた。
翌朝。
館の中庭は、いつになく華やかな装いに包まれていた。
赤と金を基調とした布が柱や回廊に飾られ、風が吹くたび、柔らかな布端がゆらゆらと揺れている。
柱には、精緻な龍と鳳凰の刺繍が施されていた。
龍は天へ昇るように身体をくねらせ、鳳凰は大きく翼を広げている。
まるで、長い眠りから目覚めたこの館そのものが、今日という日を祝福しているかのようだった。
石造りの床には、白い蓮の花びらが一面に敷き詰められている。
朝の光が差し込むと、花びらの上に細かな光が散り、まるで雪のように輝いた。
その中央に、ジンランは静かに立っていた。
身に纏っているのは、今日のために用意された白を基調とした儀礼の衣。
以前の彼女なら、こうして多くの人の前に立つだけでも、どこか落ち着かなかったかもしれない。
けれど、今のジンランは違った。
緊張はある。
胸の奥には、言葉にしきれない寂しさもある。
それでも、その足元は確かだった。
もう、自分がどこへ向かうのか分からないわけではない。
自分の力で歩いていく。
その意思が、静かに胸の奥に根を張っていた。
やがて、弟子たちが一人、また一人と彼女のもとへ集まってくる。
皆、揃いの儀礼服を身に纏っていた。
普段の賑やかな館とは思えないほど、誰もが静かだった。
そして――
「ジンラン様…」
誰かが、震える声で彼女の名を呼んだ。
ジンランが振り返る。
そこには、涙を浮かべた弟子たちの姿があった。
「本当に…行ってしまうんですね。」
「…はい。」
ジンランは微笑んだ。
けれど、その笑顔にもわずかな寂しさが滲んでいた。
別れが、悲しくないはずはない。
この館で過ごした日々には、苦しい記憶だけではなく、かけがえのない時間もあった。
共に術を学んだ日。
皆で食卓を囲んだ夜。
仕事に追われながらも、誰かが失敗すれば笑い合ったこと。
そのすべてが、今となっては大切な思い出になっている。
「ジンラン様がいなくなると…とても寂しいです。」
弟子の一人が、とうとう涙を零した。
すると、別の弟子も目元を押さえる。
「私たちも、もっと一緒にいたかった…」
その言葉に、ジンランの胸が温かくなる。
「私もです。」
彼女は、皆を見渡した。
「皆さんと過ごした時間を、私は忘れません。」
そして、一人ひとりの顔を確かめるように見つめる。
「だから…どうか、元気でいてください。」
その言葉に、弟子たちは涙を拭いながら頷いた。
「はい…!」
そのときだった。
少し離れた場所から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
弟子たちが一斉に振り返った。
そこにいたのは、イェンミンだった。
その両腕には、大きな白い牡丹の花束が抱えられている。
幾重にも重なった花びらは、朝の光を受けて柔らかく輝いていた。
白い花弁の縁には、細やかな金色の彩りが施されている。
風が吹くと、甘く上品な香りがふわりと辺りに広がった。
イェンミンは、静かにジンランの前まで歩いてくる。
その表情は穏やかだった。
昨日までとは、どこか違って見えた。
悲しみを隠しているわけでもない。
無理に笑っているわけでもない。
ただ――受け入れようとしている人の顔だった。
そして、両手に抱えていた花束を、ジンランへ差し出す。
「…おめでとう。」
短い言葉だった。
けれど、その一言に込められた想いは、決して短くはなかった。
ジンランは一瞬、言葉を失った。
そして、そっと両手を伸ばす。
花束を受け取った瞬間、ふわりと牡丹の香りが鼻腔をくすぐった。
その美しさに、ジンランは思わず目を細める。
白い花。
金色の縁取り。
そして、朝の光。
まるで、これから向かう先に待つ未来そのもののようだった。
「…なんて、美しい花束…」
ジンランは花をそっと抱きしめる。
「本当にありがとうございます、イェンミン様。」
イェンミンは、その姿を静かに見つめていた。
以前なら、この手で彼女を引き留めようとしていたかもしれない。
もう少しここにいてほしいと。
自分の傍にいてほしいと。
けれど、今は違う。
彼女を送り出すために、ここに立っている。
そのことが、胸に痛みを残しながらも――
どこか清々しかった。
やがてイェンミンは、ジンランをまっすぐに見つめる。
「…ジンラン。」
「はい。」
「私からの、最後の言葉だ。」
その声に、周囲の弟子たちも静かに耳を傾けた。
イェンミンは、少しだけ間を置く。
そして、一言一言を確かめるように告げた。
「これから、お前がどんな困難に出会おうとも――己に負けるな。」
ジンランは黙って、その言葉を受け止める。
「誰かの言葉に迷うことがあっても。道を見失うことがあっても。自分の力を疑うことがあっても――」
イェンミンの瞳に、静かな光が宿る。
「最後に何を選ぶのかは、お前自身が決めるんだ。」
ジンランの胸が、強く打った。
それは、かつての師なら決して口にしなかった言葉だった。
自分の言葉に従え。
自分のもとにいろ。
自分が守ってやる。
そんな言葉ではない。
自分自身で選べ、と。
自分自身の足で歩け、と。
それが、イェンミンから贈られる最後の教えだった。
「…それだけは、忘れるな。」
ジンランの目に、ゆっくりと涙が浮かぶ。
けれど今度は、その涙を隠さなかった。
「…はい。」
声が少し震える。
それでも、はっきりと答える。
「必ず…心に刻みます。」
そして、深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました。」
イェンミンは静かに頷いた。
「…ああ。」
それ以上の言葉は、必要なかった。
二人の間には、もう師弟としての約束も、縛りもない。
ただ、長い月日を共に歩んだ者同士としての感謝と、これからを願う想いだけが残っていた。
やがて、弟子たちから小さな拍手が起こった。
一人。
また一人。
それは次第に大きくなり、中庭いっぱいに広がっていく。
「ジンラン様、お元気で!」
「どうか、お幸せに!」
「いつでも遊びに来てください!」
涙で声を詰まらせながら、それでも皆が笑っていた。
ジンランもまた、涙を拭いながら笑う。
「皆さんも…どうか、お元気で!」
最後にもう一度、振り返る。
赤と金に彩られた館。
白い蓮の花びら。
懐かしい弟子たち。
そして、その少し奥に立つ――イェンミン。
彼は何も言わなかった。
ただ静かに、彼女を見つめていた。
ジンランも、深く一礼する。
そして――館を後にした。
一歩。
また一歩。
今まで何度も歩いた道を、今日は違う気持ちで進んでいく。
やがて、湖が見えてきた。
朝日が水面に降り注ぎ、きらきらと光を弾いている。
その光景を見つめながら、ジンランは足を止めた。
胸に抱いた白い牡丹が、朝風に揺れる。
その香りを胸いっぱいに吸い込み、静かに目を閉じた。
ここから先は――自分の道だ。
もう、誰かに決めてもらう必要はない。
自分で選び、自分で歩いていく。
そう心に決めた瞬間。
ジンランの身体が、柔らかな光に包まれた。
次の瞬間――
そこにいたのは、一匹の美しい青い蝶だった。
青い翅をゆっくりと広げる。
朝日を受けた翅は、湖面の光を映すようにきらめいた。
かつてこの姿になったとき、彼女はただ、館から逃げ出したかった。
閉ざされた場所から、自由になりたかった。
けれど――今は違う。
もう、逃げるためではない。
自分の意思で、飛び立つために。
青い蝶は、朝の空へと舞い上がった。
一度、大きく羽ばたく。
そして、二度、三度と翼を動かしながら、光の中へ進んでいく。
その姿は、まるで新しい人生の始まりを告げるかのようだった。
湖面に映る朝日の輝きが、青い翅を照らしている。
その光の中を――
ジンランは、未来へ向かって飛んでいった。




