プロクセノスの黄金の舌
酒場のノイズ。酸っぱい吐瀉物と劣悪なワインの重層。
そこに、決定的に異質な匂いが割り込んでくる。
没薬。そして甘い沈香。東方の高級香料の揮発成分だ。
クセノフォンは視線を上げる。
男が立っている。丁寧に油で撫で付けられた巻き毛。仕立ての良い亜麻布の衣。暗がりのなかで、男の右手の指先が鋭い光を放った。ペルシャ製の純金の指輪。彫り込まれた有翼の獅子。ランプの煤けた炎を反射し、黄金の視覚刺激を周囲の網膜へ撒き散らしている。
「相変わらず、ひどいワインを飲んでるね」
プロクセノスだ。ボイオティア出身の友人。
彼は周囲のトラキア兵やバレアレス兵の体臭に顔をしかめず、むしろ滑らかななステップで床の嘔吐物を避け、クセノフォンの対面の席に腰を下ろした。
「ここはアテネの底だぞ」
クセノフォンは素焼きの杯を置く。
「お前のその匂い、暗闇じゃ銀貨の束に見える。背中から刺される前に帰れ」
「心配ご無用。僕の護衛が外の通りを封鎖してる。それに、君を迎えに来たんだ。こんな 腐った胃袋の底から引き上げるためにね」
プロクセノスは黄金の指輪をはめた指で、卓上の濡れたワインの染みをなぞった。彼の爪は完璧に磨き上げられ、隣の席で眠る投石兵の泥まみれの爪とは別次元の解像度を持っている。
「クセノフォン、アテネの土はもう限界だ。ペロポネソス戦争の負債。疫病の爪痕。市民の権利なんて、今じゃ干からびた羊の糞だ。僕らはただ、ペルシャ王子の広大な庭を散歩しに行くんだよ。ついでに落ちている金貨を拾うだけだ。悪い話じゃない」
軽快なトーン。彼の中で、この絶望的な状況は「高尚な遠征」として完全に書き換えられている。教養ある楽観主義。脳内の論理回路が、破滅の現実を甘い言葉で覆い隠す欺瞞の処理を高速で実行している。
クセノフォンは冷めた目で友人を見た。
「君は死を買いに行くのか。それとも死を売るのか」
「どっちもさ。価格設定の主導権はこちらにある」
プロクセノスは肩をすくめる。
「相手はキュロス王子だ。大王の弟。金払いは保証する。僕らは彼の友として招かれる」
「友、ね」
クセノフォンは鼻で笑った。
「俺たちのアテネの盾は、ペルシャの王室争いに組み込まれるただの部品になる。傭兵。金で買われる肉だ。散歩じゃない。解体作業だ」
「言い方が悪いな。これは投資だよ。若き王子の野心に対する、我々の優れた戦術機能の貸し出しだ。君のその無駄に研ぎ澄まされた理性も、高く売れる。ソクラテスの問答で腹は膨れないだろ?」
プロクセノスは笑う。白い歯が暗がりに浮かぶ。
彼には見えていない。自分たちがすでに、広場の露店に並ぶ腐りかけのイチジクと同一の陳列棚に置かれている事実が。彼は自分が商品を吟味する側の人間だと思い込んでいる。だが実際は、刻印を打たれ、ペルシャという巨大な消費機構に出荷される肉塊に過ぎない。
「王子はギリシャの重装歩兵の威力を買っている」
プロクセノスは身を乗り出した。香料の匂いが強くなる。
「密集陣形の破壊力。あれはペルシャの軽装兵には真似できない。我々は 市場で最も価値のある規格品だ。高く売る権利がある」
「部品に権利はない。使われて、摩耗して、捨てられるだけだ」
「君は悲観的すぎる。ソクラテスの影響だね。いいか、世界は金貨で回っている。神々への祈りではなく、確かな金属の重量だ。我々はその血流に乗る。ただそれだけのことさ」
プロクセノスの黄金の舌は、絶望を希望に偽装する完璧な変換装置だ。クセノフォンはその欺瞞を正確に見抜いている。これは破滅への一本道だ。帰りの船など存在しない。敵対する王国の権力闘争の真っ只中へ、自らの肉体を投下する。それは市民としての完全な死を意味する。
「一日一ドラクマ」
プロクセノスは指輪の光をちらつかせた。
「相場の倍だ。ダレイコス金貨での支払いも可能。指揮官待遇で迎える。ソクラテスには適当に神託でも貰ってこいと言えばいい。どうせあの爺さんも、君の腹の虫は止められない。デルポイの神殿だって、賽銭なしじゃ神託を下さない時代だ」
クセノフォンの喉の奥で、乾いた唾液が鳴る。
一日一ドラクマ。
その数字が、鼓膜から脳の処理中枢へ直接入力される。
アテネの誇り、市民の義務、哲学者の問い。それらすべての演算結果を、たった一つの物理的報酬が上書きしていく。論理空間における完全な敗北。しかし、肉体はそれを激しく歓迎している。
「キュロス王子は、何を企んでいる」
「ピシディア人の討伐さ。表向きはね」
プロクセノスはウインクをした。
「裏の目的は知らなくていい。我々は金をもらい、槍を突き出す。単純な契約だ。複雑に考える必要はない」
「目を塞がれた馬のほうが、恐怖を知らずに突撃できるからか」
「機能美と言ってくれ。考えすぎると足が止まる。戦場では、迷いは直ちに死に直結する。 体に彫り込まれた型の通りに動く。それが一番安全だ」
単純な契約。自らの殺傷能力と引き換えに、生存を維持するためのカロリーを得る。そこには国家も、イデオロギーもない。ただ、肉の塊と金属片の交換という、極めて純粋な物理法則があるだけだ。
クセノフォンは卓の上の杯を見つめた。空っぽの素焼きの器。自分の胃袋の縮図。
「わかった。その庭の散歩、付き合う」
クセノフォンが答えると、プロクセノスは満足げにうなずき、立ち上がった。キトンの裾が翻り、再び没薬の香りが酒場の悪臭を切り裂く。
「賢明な判断だ。明日、サルディスへ向かう準備をしろ」
プロクセノスは卓に銀貨を一枚弾き飛ばした。乾いた金属音。
「酒代だ。外で待ってる」
高価な香料の匂いが遠ざかる。
卓に残された純銀の硬貨。その表面に刻まれたふくろうの目が、ランプの光を受けて鈍く光る。クセノフォンはその硬貨を指先でなぞった。冷たい。圧倒的な質量の冷たさ。
教養ある楽観主義者の甘い嘘。それは、自らを市場の棚に並べるための麻酔薬だ。クセノ フォンは麻酔の効き目を否定しながらも、自らその毒を飲み込んだ。
もはや戻る道はない。アテネの市民クセノフォンは今、この濁った酒場の片隅で死んだ。残されたのは、一ドラクマで機能を出力する、ただの殺戮機構だ。




