法の死臭
麻縄が手のひらに食い込む。痛い。
荷車。車輪の軸が歪んでいて、動かすたびにキーキー鳴る。油なんて差してない。
後ろに乗せているのは昨日まで近所で壺を売っていたおっさんだ。腹が腐ってガスでパンパンに膨らんでいる。昨日からこいつで七十人目だ。段差を乗り越えた拍子に、おっさんの口から黄色い汁が吹き出して俺のふくらはぎに飛んできた。
拭かない。どうせ俺の汗も他人のゲロと同じくらい酸っぱい臭いがするし、今ここで立ち止まったら二度とこのクソ重たい車輪を動かす気力が湧かなくなる。
「よう。精が出るね」
声。やけによく通る声。
振り返る。路地裏の泥水の中に、裸足で立っている初老の男。
獅子鼻。ギョロ目。ヨレヨレの布を一枚引っ掛けただけ。ソクラテス。
街中が疫病でゲロとクソにまみれてるっていうのに、このオッサンだけはいつも通りだ。それが無性にムカつく。
「なんだよ」
俺は荷車の柄から手を離さずに言った。
「いや。肉の塊を引きずり回して、君自身の魂の輪郭は見えてきたかなって」
「勘弁してくれ」
俺は額の汗を手の甲で拭った。泥が混じってジャリッとした。
「魂なんてどこにもねえよ。あるのはこのクソ重たい死体と、すぐそこまで来てるスパルタの槍だけだ。このおっさんだって昨日までは立派なアテネ市民だったんだぜ。それが今はただの生ゴミだ」
「ほう。じゃあ、アテネの法は彼を救わなかったってことかな」
「法律でメシが食えるかよ。法律がこの臭いを消してくれるのか」
足元に、泥に半分埋まった石碑の欠片が落ちている。
文字が彫ってある。市民の義務がどうたらこうたら。
昨日まで広場で偉そうにアテネの民主政がどうのペリクレスの演説がどうのと喚いていた陶器屋の親父がただの腐った水袋みたいになって荷車の上で揺れているのを見ながら俺はいつまでこんな石っころに彫られた法だの義務だのっていうカビの生えたルールのためにタダ働きさせられなきゃならないんだとマジで腹が立ってきた。
「我々のアテネは死んだのかね」
ソクラテスが鼻をほじりながら言う。
「最初から生きてねえよ。ただの錯覚だ」
俺はさっき登録所のハゲの足元からくすねたフクロウの銀貨を、帯の裏側でこっそり指で撫でた。
冷たい。硬い。ギザギザの縁。
これだ。
市民とか、義務とか、そういう見えない鎖で人々をこの巨大な死体みたいな街に縛り付けて、道連れにしようとしてる連中がいる。法なんてのはただの病気だ。タダで死んでくれっていう図々しいお願いだ。
それに付き合ってたら、俺も数日後にはこの荷車の上に乗っかって、誰かのスネに黄色い汁を撒き散らすことになる。
冗談じゃない。俺の命だ。俺の剣だ。
タダで国の穴埋めに使われるのはご免だ。血を流すなら、それに見合った値段をつける。明確な銀貨の枚数。純度とグラム数。
アテネの誇りなんてものは泥と一緒にドブに流せばいい。俺は俺の暴力に値札をつけて、もっと景気のいい場所に売り飛ばす。
「どこ行く気だ、クセノフォン」
ソクラテスが目を細めた。
「少なくとも、このクソみたいな死臭が届かない場所だよ」
俺は麻縄を握り直す。
荷車をごとんと引く。車輪が泥から抜ける音。
後ろでオッサンが何か言っていた気がするが、もうどうでもいい。振り返る理由もない。
靴底の泥がひどく重い。だが、帯の裏の銀貨一枚の重みの方がよっぽどマシだ。俺はゲロまみれの路地を抜けて、港の方へと歩き出した。遠くで、また誰かが咳き込む音がした。




