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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第一章:アテネの咳
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肺胞の沈黙

 最高権力者の邸宅。中枢だか何だか知らんが、今やただの巨大な便所だ。 クセノフォンは手に持った革筒を、忌々しそうに握り直した。中身は警備隊のどうでもいい報告書だ。こんな死臭の漂う場所に、わざわざ運ばされる身にもなってみろ。


 扉は分厚い樫の木。重いだけだ。 開けた途端、むせ返るような煙が肺を突いた。高価な乳香(リバノス)だか没薬(スミュルナ)だか知らないが、要するに、死体の腐敗臭を誤魔化すための安っぽい舞台装置だ。煙が目に染みて、涙が出る。 「……クソが」 クセノフォンは汚れた袖で目を擦った。脂ぎった皮膚が、布地と嫌な音を立てて擦れる。


 部屋の隅に立つ二人の兵士。顔を布で縛り、槍の柄を握る指先がガチガチと鳴っている。英雄を守る重装歩兵(ホプリタイ)? 笑わせるな。ただの怯えた小僧だ。こいつらの股間は、恐怖でとうに湿っているに違いない。


 寝台。 あの上に転がっているのが、あのアテネの太陽、ペリクレスか。 ただの古びた革袋だ。 肌はどす黒く、腐った葡萄みたいに膨れ上がっている。シーツには、体から漏れ出した得体の知れない黄色い汁が染みを作り、それが床に滴り落ちていた。


「おい、また漏らしてやがるぜ」 一人の兵士が、鼻を塞いだまま吐き捨てた。


「あんたの愛する司令官だ、拭いてやれよ」


「断る。触れば呪われる。この水ぶくれ、死神の卵だぜ」 「もう死んでるのと一緒だ。ただの肉だ。言葉なんて、もう一言も出やしない」


 クセノフォンは鼻腔を抜ける酸っぱい悪臭に耐えながら、寝台を見下ろした。 足の裏に伝わる石の冷たさ。 こいつの口から、あんなに綺麗な言葉が出てきたとは信じがたい。


「アテネは学校だ」? 「正義」? くだらない。

この男が積み上げた(ノモス)美徳(アレテー)も、結局はこの腐ったシーツの湿り気以上の価値があったのか。 結局、人間を動かしていたのは高尚な理念などではない。喉を震わせる単なる空気の振動だ。その振動に、俺たちは尻尾を振って群がっていただけだ。腹が空けば鳴き、熱が出れば喚く、獣の群れと何が違う。 脳の奥で、粘りつくような倦怠感が膨らむ。


 その時、寝台の肉塊が跳ねた。 「……ゴッ、ゴブッ……」 喉の奥で、汚い水が沸騰するような音が鳴る。 肺の中に溜まったヘドロを、無理やり排出しようとする無様な痙攣。


「おい、何か言うぞ」 兵士が槍を向けた。死体相手に、腰が抜けている。


「遺言か? スパルタへの呪詛か?」


「いや、ただのゲップだろ。見ろよ、あの目」


 ペリクレスのまぶたが、無理やり剥がされたみたいに開いた。 濁った、黄色い眼球。 天井の染みを見つめて、何事かを、かつての演説のように、威厳を持って吐き出そうと、その肥大した舌がのたくった。


 刹那。 汚物が、その黄金の口から勢いよく溢れ出した。 黒ずんだ吐瀉物。 それが、知性の宿っていたはずの顔面をドロドロに塗り潰し、胸元に広がった。 数秒、ビクビクと手足が震え、それから、動かなくなった。 ただの物質に戻った。


 沈黙。 香炉の中で、炭が崩れるカサッという音だけが、部屋の空気を無造作に切り裂く。


「……あー、終わったな」


 兵士が、あくびを噛み殺しながら呟いた。


「マジか。誰がこれ、片付けるんだよ。俺たちの給料はどうなる」


「知るか。とりあえず帰って酒だ。この臭い、脳味噌にこびりついて取れやしない」


 アテネという船。舵を握っていたのは、今、自分の反吐に塗れて沈黙したこの肉塊だ。 クセノフォンは、届けにきた報告書の筒を、無造作に床へ放り投げた。乾いた音が響く。 もう誰も、こんな紙切れは読まない。


 外へ出れば、九万の人間が同じように腐りながら歩いている。 国家? 市民? そんなものは、この熱病の幻覚が見せる寝言に過ぎない。 冷たいドアノブ。 指先に、自分の嫌な、ぬるりとした汗の感触がまとわりつく。 生きているのか、それとも自分もまた、順番待ちをしているだけの死体なのか。


 クセノフォンは、そんな疑問すらどうでもよくなり、ただ、空気を汚す自分の吐息の重さを感じながら、暗い廊下へと足を向けた。

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