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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第四章:王子キュロスの甘い罠
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王子の天幕、黄金の目くらまし

 分厚い天幕の布をくぐる。

 背後でうごめく音が、ぴたりと止んだ。一万三千の足音、盾の擦れ、腐った馬の腹が破れる音……全部、布一枚で遮られる。代わりに、ねっとりした空気が肺に絡みつく。乳香。没薬。焦げた羊の脂。混ざり方がおかしい。胃がむかむかする。


 足が沈む。

 絨毯だ。毛が長い。サンダルの底にこびりついた泥と犬の糞が、赤と青の模様に絡まる。親指の水ぶくれが潰れて、じわっと染みていく。ぞわぞわする。虫じゃない。ただの感触だ。

 でも……。

「よく来たね、ギリシャの連中」

 声が奥から。

 天幕の奥。外の刺すような日光から隔離された薄暗がり。

 カチャ、と高い音が鳴る。小石を青銅の板に叩きつけたような嫌な音。

 ペルシャの王族。

 十本の指すべてに、赤だの緑だのの馬鹿でかい石ころがはめ込まれている。王子が手を動かすたびに、石を支える金の台座同士が不快な摩擦を起こし、耳の奥の神経を直接引っ掻くような音を立てる。キイ。カチャ。キイ。

 天幕を支えるレバノン杉の柱には、無駄に金箔が貼り付けられ、その根元では宦官とおぼしき丸坊主の奴隷が二人、孔雀の羽を束ねた扇を力なく動かしている。


 卓の上。銀の杯。

 側面に細かい水滴がびっしりと張り付いてついている。氷冷。この頭の狂いそうな灼熱の荒地にそんなものをもたらす魔法。種を明かせば、遥か遠くの雪山の氷をわざわざ奴隷の足でリレーさせて運ばせた力業。杯の表面を滑り落ちた一滴の水が、卓の絹布に黒っぽい円形の染みを作る。

 クセノフォンはそこから視線を外せない。水。冷たい水。喉の奥で薄い皮が張り付いて剥がれる音がする。唾液の分泌腺が完全に干からびている。あの水滴を舐めとるためなら、隣で扇を動かしている宦官の喉笛を噛み切ってもいい。


「で、仕事の件なんだけど」

 隣でプロクセノスが言う。べったりと油で撫で付けられた髪から飛散する香油の粒子。それが天幕内の獣脂の匂いと衝突して、もはや何の臭いかわからない吐き気を催す気体と化している。プロクセノスの歯の隙間に、さっき食った羊肉の繊維が黒く挟まっているのが見える。こいつはさっき、天幕の外で兵士たちが麦粥の配給を巡ってナイフで顔面を刺し合っている横で、懐から取り出した干し肉を優雅に齧っていた。

「ピシディアの山賊どもをぶっ叩く。それでいいんだよね?」

「ああ。連中、最近うちの領地をちょろちょろ荒らしててね。軽くお灸を据えてやりたいんだ」

 キュロスが笑う。カチャ。指輪がぶつかる。

「山賊退治に一万三千人か」

 クセノフォンは銀の杯の水滴から無理やり網膜を引き剥がした。視線を王子の顔面に向けるが、顔の造作などどうでもいい。ただの金の払い手だ。

「だいぶ大掛かりな害虫駆除だね」

「そりゃあ、害虫は多い方がいいよ」キュロスは銀の杯を無造作に掴む。水滴が王子の太い指の腹を濡らし、金と宝石の隙間に流れ込む。氷水が喉を通る音が天幕に響く。ゴクリ。

「駆除の予算もドカンと増えるからな」

「ピシディアの山賊も、自分たちの首にそんなご立派な値段がついてるとは夢にも思ってないだろうな」

「気にするな。銀貨は余が払う。お前たちはただ、槍の先を前に向けて歩けばいい」


 嘘。

 誰がどう見たって嘘。

 一万一千の重装歩兵。二千の軽装歩兵。それを裏山のコソ泥退治に使う。鶏を絞めるのに破城槌を持ち出すようなふざけた話。本当の狙いは兄王アルタクセルクセスの寝首。

明白。この薄暗い天幕の中にいる全員が、そんなことは何日も前から骨の髄まで理解している。

 だが誰も口に出さない。

 プロクセノスはひたすら楽しそうに頷き続けている。喉仏がごくりと上下する生々しい嚥下音。熱を帯びた瞳が不自然な速度でギョロギョロと動く。アテネで哲学の講義を聞いていた頃の、あの知的な顔面はどこかに溶けて消え、今はただの金貨の重みに媚びる肉の塊だ。

「それで、前払い金の話なんだけどさ」

 プロクセノスが揉み手をする。ペルシャ製の黄金の指輪が薄暗がりで鈍く光る。

「ダレイコス金貨でお願いできるかな。銀貨だとガチャガチャうるさいし、重くて肩がこるんだよね」

「いいだろう。金塊で渡す。好きなだけ削って使え」

「最高だ」

 馬鹿馬鹿しい。

 もしここで、嘘だろ、と口を滑らせればどうなるか。

 明日の朝、列に並んで受け取るはずの親指ほどの干し肉。水っぽい麦粥。それが消滅する。文字が刻まれただけの配給の木札が、ただの焚き付け用の木っ端に変わる。

胃袋がヒクッと痙攣した。


 プロクセノスが頷く。楽しそうだ。クセノフォンは視線を落とした。喉が、からからだった。

 銀貨が一枚手に入って、今日の夕方に腐りかけの干し無花果が食えるなら、世界がどうなろうと知ったことか。自らの理性だの何だのといった上等な臓器は、今朝方、泥まみれの革袋の中に硬貨と一緒に押し込んで固く紐で縛ってしまった。もう開ける気はない。

 クセノフォンは足の裏の角質に絡みつく不快な羊毛の感触を無視して、もう一度絨毯に強く泥を擦り付けた。

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