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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第三章:デルポイの沈黙
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沈黙の買収

 硫黄の臭いが鼻の粘膜にこびりついている。

 何度唾を吐き出しても、舌の根のあたりに古くなったゆで卵の味。


 大理石の冷たい床から、外の石段へ出る。

 見上げた空は、病的に白茶けた色。朽ち木の内部、分解しかけたセルロースの色。光が網膜を焼く。目を細め、(キトン)の前合わせを荒々しく引っ張って整えた。

 懐にねじ込んだ神託の木札。裏側のささくれが、胸の皮膚をチクチクと引っ掻いている。

 安物のオリーブ材。適当に削られた表面に、黒い墨で走り書きの記号が並んでいるだけだ。


 石段の下で、プロクセノスがペルシャの金貨を指先で弾いていた。

 チャリン、チャリン。

 薄っぺらな金属音が不規則なリズムを刻んでいる。こいつの油で撫で付けられた髪から漂う没薬の甘い匂いが、デルポイの乾いた土埃に混ざってひどく悪目立ちしていた。

「で。どうなったの」

 プロクセノスが金貨を手のひらに握り込み、顎をしゃくった。

「ゼウスに羊三頭。アポロンに山羊二頭。それで無事に戻れるってさ」

「安いね。ペルシャの相場からすりゃタダみたいなもんだ」

「タダじゃない。俺の手持ちの銀貨からすれば、これで三日分の麦粥が飛んだ」

「気にするなよ。サルディスに着きゃ、キュロス様が腹が裂けるほど肉を食わせてくれるさ。それで、親父さんに言われた『行くべきか』ってのは?」

「聞いてない」

「あっそ」

 プロクセノスはあっさりと踵を返した。

 彼にとってはどうでもいいことだ。羊の数だろうが神の名前だろうが、遠征のスケジュールに影響さえ出なければなんだっていい。すり減った革サンダルの底が、石段の表面にこびりついた羊の脂と古い血の跡を踏み滲ませる。


 胸の木札がまた皮膚を引っ掻く。

 神託。オラクル。ただの手続き。

 口を開けた真っ暗な空洞に銀貨を放り込み、適当な答えを引き出した。憂慮があった。神なんてものは最初からそこにはいないし、ただの人間が集団を維持するために仕方無しに信じ込んだ妥協の産物、空っぽの甕にすぎないのだとしたら…。その甕に向かって「ペルシャに行って金をもらいたいから適当な免罪符をくれ」と叫び、痙攣する巫女の口を借りて「いいよ、羊を何頭か殺せばね」という領収書を受け取っただけ。


 ソクラテスの顔が、脳裏の隅で一瞬チラついた。

 行くべきか、留まるべきか。市民としての法。理性(ロゴス)

 喉の奥に溜まった乾いた痰を、道の脇の乾いた土に向かって吐き捨てる。

 法なんてものは、アテネの路地裏で疫病に黒ずんで積み重なっていた死体の山と一緒に、とうの昔に腐って溶けた。誰の腹も満たさない無償の奉仕。誇り。そんなものは、手首に巻きつけたすり切れた革紐より役に立たない。

「おい、急ごうぜ。港の船の連中、金払いが遅いとすぐ他の客を乗せちまう」

 プロクセノスが振り返りもせずに言う。

 その背中を見ながら、足の指先に力を入れた。親指の付け根の皮が破れ、砂利が食い込んで鈍い痛みがある。

 この痛みが、今の俺の全財産だ。


 アテネの法も、市民としての身分も、全部このデルポイの石段に置き去りにしてきた。神という名の空洞に責任を丸投げして、俺は俺自身の自決権を、一日一ドラクマの相場で市場の陳列棚に並べたのだ。明日からは、俺の肉体も、この脳味噌に詰まった知識も、ただの軍需物資になる。ペルシャ王子の野心という巨大なシステムに組み込まれる、ただの規格品の歯車。いや、歯車の間の摩擦を減らすための、使い捨ての油。


 宿屋の裏口から、酸っぱいワインと吐瀉物の混じった臭いが風に乗って流れてきた。

 犬が鳴いている。

 神殿の供え物の残りカスを奪い合って、肋骨の浮き出た汚い犬どもが牙を剥いていがみ合っている。一匹が前足を噛まれ、キャンと甲高い声を上げて逃げていく。毛皮にはこびりついた泥と血。

 俺もあいつらと同じだ。首輪を外し、野良に下りて、他人の残飯を奪い合うための列に並んだ。


「船賃は俺が出すよ。前借り分があるからな」

「悪いね。出世払いで頼むよ」

 プロクセノスが軽く手を上げる。手首にはめられた黄金の腕輪が、ギラリと嫌な光を反射した。

 木札のトゲが、もう一度胸を刺す。

 チクリとした微小な刺激が、脳髄の奥の痺れを少しだけ冷ました。

 もう迷いはない。というより、考えるのをやめた。

 頭を空っぽにして、歩幅を広げる。

 後ろを振り返る理由は、どこにもなかった。

 ただ前にあるのは、土埃の舞う乾いた道と、その先に待つ暴力の規律だけ。

 生き残って、銀貨を稼ぐ。

 そのためなら、どんな残酷な計算もやってのける。

 人間の肉体に値段の札をぶら下げる、冷たい算術の世界。


 歩き出した。

 デルポイの沈黙が、背後で重く扉を閉める音がした。気がしただけだ。

 実際には、ただの風がロバの糞と乾いた葉を巻き上げた音だった。

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