青銅の器とすり替えられた問い
デルポイの空気は、汚物が投棄された海岸のそれ。肺の奥にねっとりと張り付く 。
神殿の裏手、あばらの浮き出た痩せ細った犬の群れが、神への供え物だったらしい泥まみれの臓物を奪い合っている 。一頭が逃げ、他が追う。石畳を叩く爪の音は、乾いた、それでいてひどくありふれた感。
クセノフォンは、喉の奥に溜まった鉄の味のする痰を、無造作に足元へ吐き捨てた 。
巫女が座る内陣から漂ってくるのは、神聖な煙なんかじゃない。
門前町の屋台で焼かれる安肉の焦げた脂と、巡礼の男たちを待つ神聖娼婦たちが塗りたくった安物の香油が混ざり合った、泥のような、あるいは腐りかけた果実のような臭いだ 。
「で、結局何て聞いたんだよ。神様は機嫌よく喋ってくれたか?」
プロクセノスが、キトンの裾についた馬の糞を忌々しそうに払いながら言った 。
彼が指先で弄ぶペルシャ製のダレイコス金貨が、雲の間から漏れる鈍い陽光を跳ね返して、クセノフォンの網膜を不快なリズムで刺し続ける 。
「どの神に、どれだけの羊を殺して捧げれば、この遠征が成功して無事に帰れるか。そう聞いた」
クセノフォンの声は、平坦でどこか投げ捨てられたような響きだった 。砂利の上を擦れる使い古された青銅の器の音。
「はは。ストレートだね。ソクラテスの親父さんは確か、『行くべきかどうか』そのものを神に問えと言っていたはずだろ?」
プロクセノスは、教養ある楽観主義を隠そうともせず、鼻先で笑った 。
「そんな問いは、もう、とうの昔に賞味期限が切れている」
神殿の奥、薄暗い廊下の先で、一人の男が娼婦の細い腕を乱暴に掴んだのが見えた 。
汚れた革袋から取り出した銀貨を、男は女の開いた掌に、吐き捨てるように叩きつける 。
女は硬貨の刻印を確認することもなく、ただ機械的な動作で腰の帯の隙間にねじ込んだ 。
世界で一番古い職業、売春 。
そして世界で二番目に古い職業、傭兵 。
この二つ、苦い共通点がある。
もしかしたら、どちらも己の生身を切り売りして、その日の水っぽい麦粥を購うための、ただの価格のついた肉袋かも 。
「前から思ってたんだけどね。神様だって、実は立派な商売人なんだよ。神殿ってのは信仰の力で安価な労働力を高度に統合する企業体。代価さえ適切に払えば、客が望むサーヴィスを綺麗なパッケイジにして売ってくれる。そうだろ?」
プロクセノスがさらに笑う。その指先の金貨が空中で重力に抗うように弧を描き、チャリンと金属的な音を立てて再び滑らかな掌に収まった 。
クセノフォンは、神殿の太い円柱に背を預けた。
大理石の、一切の感情を排した冷たさだけが、キトン越しに背中を刺し、今の自分をこの汚泥に満ちた現実へと繋ぎ止めている 。
誰かが、自分の中にあったはずのロゴス(理性)に、市場に並ぶ一ドラクマの銀貨以上の価値を見出してくれるのか 。
実態はペルシャ王子の野心という巨大な歯車の一部品になるための、単なる、代えの効く潤滑油に成り下がったのだ 。
視線の先では、先ほどの犬が、別の骨を巡って再び醜い争いを始めていた。
神託、あるいは救済、あるいは愛国的献身。
そんな高級な言葉の数々は、この乾いた土埃が舞うデルポイの街道では、何の意味もなさない空虚な音の羅列でしかない 。
クセノフォンは、拳を強く握りしめた。
伸びた爪が掌の乾いた肉に深く食い込み、小さな、だが確かな、逃れようのない痛みを生む。
自分は今、神という概念を機能的に解体し、その残骸の上で、出発という名の免罪符を買い取ったのだ 。
アテネの法も、師ソクラテスの執拗な問いも、この硫黄の臭いが立ち込める深淵にはもう届かない 。
あるのはただ、これから一歩ずつ踏みしめることになる異国の重い泥の感触と、首筋を無慈悲に焼き焦がすペルシャの太陽の、暴力的な予感だけだった 。
「行こう、プロクセノス。契約の時間だ。無駄話は銀貨の無駄だ」
クセノフォンは、一度も神殿の奥、神の沈黙する闇を振り返ることなく、石段を下り始めた 。
足元の革サンダルは親指の付け根が不格好に擦り切れ、そこから覗く皮膚は、デルポイの不浄な土埃で黒ずんでいた 。
救いなんてどこにもない。
ただ、自分がいくらで売れ、どの程度の期間、機能し続けられるかという、冷厳な一点の事実だけが残っている 。




