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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第三章:デルポイの沈黙
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神殿の淫臭と肉の値段

 神殿の階段に痩せ細った犬の群れがたむろしている。一頭のあばらが浮いた雑種が、供え物だったらしい泥まみれの臓物を咥え、列柱の影へと逃げ込んだ。追う仲間の犬たちの爪が石床を叩く、乾いた音が響く。


 クセノフォンは、喉の奥にへばりついた粘りつく痰を吐き捨てた。

 パルテノンを抜けてくる風は、かつては神の息吹を含んでいたはずだが、今はただ、都市の腐敗を運んでくるだけだ。路地裏の排泄物の臭いと、焼かれすぎた安肉の脂の匂い。

「ひどい面構えだ。哲学を食いすぎたか?」

 背後から、不釣り合いに軽快な声が飛んできた。

 プロクセノスだ。

 彼の纏う(キトン)は、この灰色の街では暴力的なほど白い。指先で弄ばれるペルシャ製の金貨が、鈍い陽光を跳ね返した。

「プロクセノス。お前のその格好は、今のこの街では死罪に値する贅沢だ」

「はは、法律が機能していればね。今は誰もが、明日のパンのために自分の法律を書き換えている最中だよ」


 プロクセノスはクセノフォンの隣に立ち、神殿の奥、薄暗い廊下の先を顎で示した。そこには、数人の女たちが立っている。かつては神に仕える身とされた「神聖娼婦」たちだ。だが今、彼女たちの前に並んでいるのは、祈りを捧げる信者ではない。小銭を握りしめ、剥き出しの眼差しを向ける、行き場を失った男たちだ。

「見なよ。あそこの彼女たちと、僕らの違いを。彼女たちは一晩の体温を売り、僕らは戦場での死を売る。それだけの違いだ」

「俺は、ソクラテスに相談した。彼はデルポイの神託を聞けと言った」

「神託だって? 冗談はやめてくれ」

 プロクセノスは短く笑い、クセノフォンの肩に手を置いた。その手のひらは、戦いを知らない男特有の、気味の悪いほど滑らかな感触だった。

「神託が腹を膨らませてくれるのかい? 違うだろう。今、僕らに必要なのは神の声じゃない。キュロス王子が支払う、確かな金貨の重みだ。君のその立派な体格、軍人としての教養。それをこの腐りかけたアテネで腐らせるのか?」


 神殿の奥から、硬貨が石床に落ちる高い音が響いた。チリン、というその音は、この聖域で最も純粋な「祈り」のように聞こえた。

 クセノフォンは視線を落とした。自分のサンダルは、親指の付け根が擦り切れ、そこから覗く皮膚は土埃で黒ずんでいる。

「一万人の男が必要なんだ」プロクセノスが囁く。「王位を狙う若き王子のために、ギリシャの鋼鉄を貸し出す。これは戦争じゃない。ビジネスだ」

 クセノフォンの脳裏に、かつて学んだ論理(ロゴス)の体系が浮かぶ。だが、それは空腹で痙攣する胃袋を鎮める役には立たなかった。理性を追求した果てに、自分は今、肉体を売りに出そうとしている。


 ふと、廊下の陰で、一人の男が娼婦の腕を掴むのが見えた。男は汚れた革袋から銀貨を取り出し、女の掌に叩きつける。女はそれを確認もせず、機械的な動作で腰の帯にねじ込んだ。

 その光景を見て、クセノフォンの内側で、何かが静かに、だが決定的に切れた。

 高潔なアテネ市民としてのプライド。ソクラテスの弟子としての自意識。それらは、神殿の床に転がる犬の糞と同じ価値しかない。

「契約しよう」

 クセノフォンの声は、自分でも驚くほど冷えていた。

「おや、神託はどうしたんだい?」

「神は沈黙している。だから、僕が僕に命令することにした。僕という『肉体』を、君の王子に貸し出す」

「いい決断だ、クセノフォン。君ならそう言うと思っていたよ」

 プロクセノスは満足げに頷き、懐から小さな羊皮紙を取り出した。そこには、アテネの法とは無関係な、異国の数字と記号が並んでいた。


 クセノフォンは、神殿の柱に背を預けた。

 大理石の冷たさが、キトン越しに背中を刺す。その無機質な刺激だけが、今の自分を現実へと繋ぎ止めていた。

 視線の先では、先ほどの犬が、再び別の骨を巡って争い始めている。

「死ぬかもしれないぞ」

「ここで飢えるのも、あっちで槍に突かれるのも、統計上の誤差に過ぎない。ただ、あっちには金がある」

 プロクセノスは手を振り、神殿の階段を下りていった。その白い背中を見送りながら、クセノフォンは自分の右手の拳を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込み、小さな痛みを生む。


 自分は今、商品になった。

 神聖な神殿は、もはや祈りの場ではない。ここはただの取引所だ。女たちが肉を売り、男たちが命を売る。市場(アゴラ)の喧騒よりもさらに卑俗で、さらに切実な、生存の最前線。

 クセノフォンは、もう一度痰を吐こうとしたが、口の中は砂を噛んだように乾ききっていた。

 彼は神殿の奥へと一瞥もくれず、プロクセノスの後を追って歩き出した。

 足の裏の角質が、石段の凹凸を不快に伝えてくる。その感触を確かめるたび、彼は自分が、ただの「機能」へと変質していくのを感じていた。

 アテネの腐臭が、遠ざかっていく。

 代わりに、遠い東方の荒野から吹いてくる、砂と血の混じった風の予感が、彼の鼻腔をかすめた。

 救いなどない。あるのは、自分がいくらで売れるかという、ただ一点の事実だけだ。

 

 クセノフォンは、振り返らずに神殿を去った。

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