第三章:デルポイの沈黙 路地裏の素足とすっぱい息
犬の小便と、腐りかけのオリーブ。
それから、疫病の咳が染み付いた石壁からべっとりと滲み出す湿気。アテネの裏通りの匂いだ。空の隅の方が汚い赤紫に濁っている。歩くたびに石畳の隙間の泥が跳ねてすねを汚した。
日よけの麻布がだらんと垂れ下がった軒下。
老人が壁にもたれて座っていた。泥と犬の糞を踏み固めたような、分厚くひび割れた足の裏がぼろきれの間から突き出ている。手には素焼きの杯。底にへばりついた黒いカスに銀蝿が一匹、張り付いて死んでいた。
「行くのか」
ひゅるり。
老人の喉の奥から湿った排気音が鳴った。痰が絡んだぜいぜいという音じゃない。もっと粘度の高い、ひしゃげた管を無理やり空気が通るような音だ。
「ええ」
路地の反対側の壁に背中を預ける。漆喰の表面がざらざらしている。昨日の雨を吸って冷たい。
「プロクセノスの誘いか」
「あいつの口車に乗る気はないですがね。ただ、銀貨の重さは本物なんで」
腰の革袋を軽く揺らす。チャリン。ひどく安っぽい摩擦音。一ドラクマ。今日の俺の値段だ。市場で売れ残っているトラキア人奴隷の相場と大して変わらない。
老人が杯をわずかに傾けた。死んだ蝿は動かない。
「ペルシャの金で、君の魂は腹一杯になるのかね」
濁った眼球。昔はもう少し鋭い光があったような気もするが、今はただの曇りガラスだ。神殿の供え物の肉を奪い合う、痩せ細った犬の群れ。最近のアテネを歩いている連中は皆そんな目をしている。俺の目もきっと同じだ。
真理とか美徳とか、昔は市場の隅で日が暮れるまで議論していた。あれは単なる暇つぶしだったと今ならわかる。俺たち市民が青銅の丸盾ホプロンを自前で揃えて国を守るなんて寝言は、ペロポネソスの連中に土地を焼かれ、海からの穀物輸送を止められ、腹を空かせた親戚どもが次々と咳き込んで死んでいった時点で完全に終わった。今はただの肉だ。胃液が食道を焼きながらせり上がってくるような本物の空腹の前では、どんな高尚な言葉も単なる肺からの空気の排出にすぎない。
「腹が減っているのは胃袋ですよ」鼻をすする。「魂の飢えなんて、麦粥一杯で治る。大盛りならなおいい」
喉の奥に溜まった乾いた痰を、地面に向かって吐き捨てた。黄色い塊が埃にまみれて転がる。
老人が笑ったのか、それともただ咳き込んだのか、判断のつかない音を立てた。胸郭の奥で古い革袋がこすれるような音。
「そうか。麦粥か」老人は杯を地面に置いた。「ならば神に聞け。その麦粥が君の喉を詰まらせないかどうかを」
「神殿に?」
「デルポイだ。アポロンに聞いてこい」
また、ひゅるりという排気音。老人はそのまま目を閉じた。もう音声を発する気はないらしい。面倒になった。
俺は革袋を懐にねじ込む。粗末な布越しに銀貨の硬いエッジが肋骨に当たる。
神託。デルポイのアポロン。
馬鹿馬鹿しい。
路地を抜けて広場の方へ歩き出す。すれ違う連中の顔はどれも素焼きの壺みたいに生気がない。ペリクレスが疫病で死んでからこっち、この街全体が巨大な死体置き場になりつつある。残っていれば、いずれ死体泥棒になるか野犬の餌になるかだ。クレタ島だのバレアレス諸島だのから金で買われてきた得体の知れない傭兵の連中が、そこら中で安い酒をあおってゲロを吐いている。アテネの空気がすっぱい。胃酸の臭いだ。俺の口から出ているのか、それとも街そのものがすっぱい息を吐いているのか。どっちでもいいが。
「聞いてこい、ね」
行くか行かないか。それを神に問う。数年前の俺なら、生贄の羊の腹を真面目に割いて神官の言葉を有難く聞いていただろう。だが今は違う。足はもう勝手にペルシャの方へ向いている。雇い主のペルシャ王子キュロスが兄の首を狙おうが、王座を簒奪しようが知ったことじゃない。俺はただ日当を受け取り、邪魔な奴を槍で突き刺し、生き延びて、飯を食う。それだけだ。
神に聞くべきことは一つしかない。どの神の祭壇にいくら銀貨を投げ込めば、飛んでくる矢が俺の頭蓋骨を逸れてくれるか。投資に対する見返りの計算。それ以上でも以下でもない。
道端の建物の陰から、物乞いが手を伸ばしてきた。腐ったイチジクみたいに黒ずんだ指先。俺は歩調を変えずに、サンダルのつま先でその手を蹴り飛ばした。指の骨が鈍く鳴り、泥が跳ねる。物乞いは悲鳴すら上げず、ただダンゴムシのように体を丸めた。文句があるなら神に言え。俺の管轄外だ。
胃の奥がちりちりと痛む。昨日から水しか飲んでいない。またすっぱい唾液がこみ上げてくる。
地面に唾を吐く。
デルポイは遠い。
だが歩く。アテネの法、市民軍の誇り。そんなものは全部市場の排水溝に流してしまった。残っているのは、一ドラクマで自分の肉体を叩き売ったという、この胃液の酸っぱさだけだ。ペルシャの王子の金でギリシャ人が他のギリシャ人を殺す。市場の肉屋に吊るされた羊の肉と何が違う。いや、羊は日当を要求しない分だけ俺たちより上等か。
頭上には白茶けた太陽。熱球。眩しいだけで暖かくない。
さっさと聞いて、さっさと済ませる。
神の言葉なんて、麦粥の値段を決める交渉の材料でしかない。アポロンが何を言おうと俺は船に乗る。金貨の重さが俺の新しい重力だ。
それに逆らう筋合いはない。
俺は腹の虫を黙らせるために、帯をきつく締め直した。
胸当ての革紐が擦れて、肩甲骨のあたりがひどく痒い。掻こうにも手が届かない。いっそこのまま皮膚ごと削ぎ落としてしまいたかった。




