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第一章:アテネの咳 ピレウスの蒸気と渇き

 ピレウスの空は、緑青の浮いた真鍮の色だ。


 風はない。スパルタ軍の長槍が陸の道を塞ぎ、黒海から這い寄る穀物船だけが桟橋にすがりつく。巨大な搬入口。積荷の麦と一緒に、そいつは市街へ這い上がってきた。


 喉の奥に乾いた痰が張り付いている。


 クセノフォンは革の水袋を傾けた。生温かく埃っぽい空気が舌を撫でただけだ。


「あー、こりゃ駄目だ。水が死んでる」

 隣を歩く同輩が、白茶けた土をサンダルで蹴った。男の顎の先、広場の隅にある公共の井戸。


 石組みを囲むように、人が折り重なっている。

 

 昨日まで防壁の石を運んでいた男。籠に干し魚を入れていた老婆。水を汲む姿勢のまま、日陰で泥の塊に混じって動かない。ギリシャの強い陽光が、赤黒く腫れ上がった彼らの顔面を照らしている。半開きの口から垂れる濁った液に、緑色の羽虫がたかっていた。


「今日の朝からだぜ。ちょっと嘘みたいだろ」


 同輩は鼻をすすった。


「触るなよ」クセノフォンは短く言った。


「わかってる。だがよ、昨日までピンピンして、日当の銀貨を指で弾いてた奴らだぜ。なんで急に血を吐いて、道端で丸まるんだよ」


「知るか。アポロンが雲の上から的当てでもやってるんだろ。俺たちはただの歩く的だ」

 

 同輩は靴底を汚さないよう、器用に死体の隙間を抜けていく。


 クセノフォンは井戸端で足を止めた。


 転がっている男の指先に、一枚の陶片が落ちている。民会(エクレシア)で一票を投じるためのものだ。数日前なら、この男はアテネを動かす確かな部品の一つだった。


 だが今、その陶片にハエが止まっている。


 突然、男の喉が痙攣し、ヒュー、と甲高い音が鳴った。


 クセノフォンは腰の剣帯を無意識に握り直す。


 敵がスパルタの重装歩兵なら、盾を構えて槍を突き出せばいい。だが、この敵には陣形が通じない。アテネの城壁も、民会で可決された法令(ノクス)も、この這い回る熱の前ではただの石とパピルスだ。

一人の市民が、ただの汚染された肉に変わる。そこには神の意志も、哲学的な意味もない。ただ壊れただけだ。男の唇から黒い血の泡が吹き出し、今度こそ完全に静止した。


「おい、いつまで突っ立ってんだ」


 前を歩く同輩が振り返った。


「財布でも落ちてたか?」


「いや」


 チュニックの下を這い降りる汗が、ひどく冷たく、不快だ。


 クセノフォンは張り付いた痰を無理やり胃の腑へ飲み下した。陶片を踏み砕き、悪臭が充満する路地へと歩き出す。喉が渇いている。どこかで生きた水を探さなければならない。彼らを結びつけていたはずの都市は、今やただ乾ききった喉を抱えて沈黙していた。

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