イグニション
もともと脱出ポッドは操船機能を持たず、3基あるスラスターによる逆噴射のみが可能。減速専用ゆえに推力は100%固定。よってスロットル調整も不要。
だから僕は、噴射タイミングだけに集中すればいい。
”落ち着け……シミュレーションの成功率は90%以上だったろ?”
気づけば、手汗と動悸が凄い。作業着の尻で両掌を拭う。
概算で、最大7秒の断続噴射が可能。
それを過ぎれば、燃料は空に。もちろん、やり直しなんて効かない。
”まるで計算づくのギャンブルだな”
ふと、積層海図越しに横切る影があった。
アシュリーが手早く、船内作業着と私物のダイバーズジャケットに着替え終わったらしい。
無重力下、船内のどこにも掴まらず、ごく自然に身を任せていた。
この状況下で、よくリラックス出来るものだ――という呆れと、少しだけの安心感。頭からすっぽり被ったバスタオルの所為で表情は見えない。
だが、見られている気配だけが、確かにある。
「スタンバイ・エンジン」
僕は息を整え、手元の操作系に指を添える。タッチパネルの誤動作を排除した物理スイッチ。知らない人間が見ればコンロの調節ツマミと大差ないプラスチックの感触が現実感を押し付けてくる。
――点火。
車両の急加速にも似た――けど、上下の感覚がないぶん、始末が悪い。
船底のスラスター1基のみを逆噴射。結果、推力軸がずれ、擬似的な航路変更が開始された。
船体が短く軋み、背中に鈍い慣性が引っかかる。
光層が揺れ乱れるホログラフに、目を戻す。
船体姿勢と進路が、予測線に吸い寄せられていく。
赤い補正ラインが一つ、また一つと消えていく。
”……あと一発”
小さく息を吸い、最後にタイミングを見計らって、スラスターを1秒間噴かす。
「スラスターカットオフ。速度183ノットまで減速。燃料残量32%」
無音のはずの宇宙が、残響を置き去りにして、静けさを取り戻した。
「フィニッシュ・エンジン。航路変更、無事に完了……」
だが安心はできない。これでようやく、静かに救助を待てる状態になっただけ。
「ねぇ遭難ビーコンは? 作動させないの?」
背後にアシュリーの気配。戸惑いを含んだ声が耳許で漂う。
「念には念を入れて、24時間だけ発信を封止します」
「君……嫌になるほど冷静だね」
喉元がわずかに震えたが、咄嗟の本音は飲み込めた。
結局、口をついて出たのは――よく分からない弁明。
「生き延びる計算をしているだけ。状況が状況……そりゃ必死にもなるさ」
積層海図で一際目立つ、紅い輝点。
スペースジャックに遭った母船――アイリス・カーゴ号の推定現在位置から、僕は目を離せずにいた。




