第4話 対峙
夜の街道は、想像していた以上に暗かった。
昼間に見た道とは、まるで別物だ。
松明の火が揺れるたび、森の影が形を変える。
木々の隙間を抜ける風が葉を震わせ、そのたびに視界の端で何かが動いたような気がした。
農耕用の馬は速くない。
だが重い蹄で確実に地面を踏みしめ、着実に前へ進んでいる。
その振動が鞍を通してレイの身体に伝わってきた。
王都まで三刻。
焦りはある。
だが焦ったところで馬の脚が速くなるわけではない。
無理をさせれば途中で潰れるだけだ。
止まらず進み続けることだけが、唯一の近道だった。
背中越しに、エリシアの呼吸が伝わってくる。
まだ少し荒い。それでも彼女の腕はしっかりとレイの腰に回されていた。
しばらく走ったあと、エリシアが口を開く。
「……おそらく、あと半分ほどです」
振り返らないままの声だった。
だがそこに恐怖はない。
あるのは残された時間を測る冷静さだけだった。
そのときだった。
森の奥から低い唸り声が重なって響く。
一匹ではない。
複数だ。
馬の耳がぴくりと動き、脚運びが乱れた。
次の瞬間、街道の脇から影が飛び出す。
狼に似た獣が五匹。
松明の光を受けて牙を剥き、低い姿勢でじりじりと距離を詰めてくる。
逃げ道を塞ぐように円を描き、こちらを囲み始めていた。
レイは反射的に手綱を引く。
馬が前脚を浮かせ、不安げに嘶いた。
――こんなときに。
舌打ちしそうになった瞬間、昼間の厩舎の男の言葉が脳裏をよぎる。
『あの道は夜になると獣も出る』
見事にフラグを回収してしまったらしい。
「大丈夫です」
意外にも、エリシアの声は落ち着いていた。
「恐れている時間はありません。どうすれば抜けられるか、それだけを考えましょう」
恐怖よりも時間。
彼女の中では優先順位が揺らいでいない。
家族の命がかかっている以上、ここで足を止める選択肢はないのだ。
レイは松明を大きく振りかざした。
炎が唸り、火の粉が夜空へ舞い上がる。
焦げた匂いが広がった。
獣たちは一瞬だけ後ずさる。
だがすぐに位置を変え、包囲を崩そうとしない。
一匹が低く身を沈め、今にも飛びかかってきそうだった。
馬の脚が震え、鼻息が荒くなる。
――このままじゃ持たない。
その瞬間だった。
視界の端を、黒い影が横切る。
風を裂く音が一瞬だけ響いた。
次の瞬間、獣の一匹が地面に崩れ落ちる。
理解が追いつく前に、二匹目、三匹目と倒れていった。
動きは滑らかで、無駄がない。
断末魔すら上げる暇もない。
わずか数呼吸のうちに、五匹すべてが動かなくなっていた。
首筋が、正確に断たれている。
あまりにも整然とした死だった。
レイは思わず松明を影の方へ向ける。
闇の中に、黒い人影が立っていた。
全身を黒で包んだような輪郭。
顔は見えない。
背丈も体格もよく分からない。
ただ、その存在だけが異様なほど静かだった。
その人物はレイとエリシアを一瞥する。
値踏みでも敵意でもない。
ただ確認するような視線だった。
次の瞬間、影は森の奥へ溶け込むように消えた。
静寂が戻る。
馬の荒い呼吸だけが夜気に響いていた。
「……何だったんだ」
レイは思わず呟く。
エリシアも振り返るが、すでに森は闇を取り戻していた。
「分かりません……ですが、立ち止まっている余裕はありません」
その通りだった。
レイは手綱を握り直し、再び馬を走らせる。
農耕馬はすでに限界に近い。
汗が泡立ち、足取りも重くなっていた。
それでも懸命に前へ進もうとしている。
途中で一度だけ速度を緩め、水を飲ませた。
ほんのわずかな休息だった。
月明かりの下で、白い息が立ち上る。
エリシアは無言で空を見上げ、刻限を測るように目を細めていた。
やがて、遠くに灯りが見えてくる。
城壁の輪郭が夜の中に浮かび上がった。
「……間に合いました。ここがアルディオン王国の王都です」
エリシアの声が、初めてわずかに揺れる。
門前には槍を構えた警備兵が立っていた。
「止まれ。何用だ」
冷たい声が夜気を裂く。
エリシアは馬から降りた。
足元がわずかにふらつく。
それでも膝を折らずに立つ。
「アルヴェリア家の件で参りました。王子にお目通りを願います」
兵は視線を鋭くする。
名を聞き、顔を見比べる。
やがて取次が走った。
時間が静かに削られていく。
レイは何も言わず、周囲を観察していた。
城壁の高さ。
兵の装備。
動線。
ここが権力の中心であることは疑いようがない。
やがて、重い鉄扉が軋みを立てて開く。
「通れ」
城内の石畳は冷たく、静まり返っている。
長い廊下に足音だけが響いた。
案内された先の扉が開く。
そこにいたのは、豪奢な衣装に身を包んだ若い男だった。
玉座にもたれかかるように座り、退屈そうに顎を支えている。
その視線がゆっくりとエリシアへ向けられた。
そして、薄く笑う。
「……ほう。来たか」
王子との対面だった。




