第3話 エリシア
少女を抱えたまま村の中へ入ると、昼過ぎだというのに通りにはほとんど人影がなかった。
畑仕事に出ているのか、家々の戸は半ば閉ざされ、窓から差し込む光だけが静かに揺れている。
だが、見知らぬ男が泥だらけの少女を抱えて歩いていれば目立つのは当然で、戸口にいた数人の村人が怪訝そうな視線を向けてくる。
「……すまない。宿はどこにある?」
声をかけると、初老の男が警戒を解かぬまま顎で奥の建物を指した。
「突き当たりの二階建てだ。……その子はどうした」
「道端で倒れていた」
それ以上は何も言わなかったが、男も深く追及することはなかった。
興味はあるが関わりたくはないという態度が露骨だった。
教えられた建物は、他より少し大きい木造の家で、入口の上に簡素な看板が掲げられている。
どうやらここが宿らしい。
扉を開けると、暖炉の熱と食事の匂いが一気に流れ込んできた。
昼の客は少ないのか室内は静かで、奥の席に男が一人、薄い酒を舐めるように飲んでいる。
「……おや?」
カウンターの向こうにいた女が目を丸くする。
「部屋を一つ借りたい。それと水と食べ物を」
少女を抱えたままそう言うと、女は一瞬ためらったが、すぐに頷いた。
「事情は知らないけど……弱ってるね。その子。銅貨一枚でいいよ。食事込みで大人二人分だ」
レイは言われた通り銅貨を一枚差し出した。
硬貨は指先で鳴って、女の掌に落ちる。
「奥の部屋を使いな」
案内された部屋は簡素だが清潔だった。
ベッドに少女を横たえ、濡らした布で顔の汚れを拭うと、年若い少女であることがはっきり分かる。
整った顔立ちをしているが、やつれが酷く、本来の美しさはまだ影に隠れていた。
水を口元に運ぶと、かすかに喉が動いた。
無意識のまま飲み込んでいる。
「……生きてはいるな」
食事は粥のようなものを頼み、少しずつ口に含ませる。
完全に目覚める気配はないが、呼吸は少しずつ落ち着いてきていた。
窓の外を見ると、まだ明るさは残っており、昼の光はゆっくりと傾き、時間だけが静かに進んでいく。
レイは椅子に腰を下ろし、少女を見守りながらぼんやりと考えていた。
この世界に来て最初に接触した人物が、意識を失った少女というのは奇妙な巡り合わせだ。
とにかく今は情報が欲しい。金の使い道も、価値の基準も常識も何も分からない。
だから誰かが必要だ――そう理屈で片づけようとしても、胸元で感じる少女の浅い呼吸が、妙に現実を突きつけてくる。
ふと、さっきのことを思い出した。
宿代として銅貨を一枚払ったとき、ステータスの資産額がわずかに減っていた。
「……なるほど」
どうやらこの世界では、金を“使った”ときに資産が減るらしい。
やがて、窓の外で日が沈み始め、部屋の中に橙色の影が伸びてきた頃——
少女の指先が微かに動いた。
「……っ」
ゆっくりと瞼が震え、薄く開く。焦点の合わない瞳が天井を彷徨い、やがてレイの姿を捉えた瞬間、驚いたように大きく見開かれた。
見知らぬ天井。見知らぬ男。
反射的に身を引こうとするが、体は思うように動かない。
「……ここは……?」
掠れた声だった。
「村の宿だ。入口で倒れていた」
少女の視線が鋭くなる。
「……あなたは?」
「レイだ。ただの旅人だ」
少女はしばらくレイを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……私は、エリシアと申します。助けていただきありがとうございました」
名を名乗った直後、彼女ははっと目を見開く。
「——いけない!」
体を起こそうとするが崩れ落ちる。
「落ち着け。まだ動ける状態じゃない」
「こうしてはいられません!……行かなければ……!王都に……今日中に……急がなければ…家族が……処刑されてしまう……!」
レイは眉をひそめる。
「どういうことだ」
彼女は何度か深呼吸を繰り返した。胸の奥で堪えていたものが今にも溢れそうになる。
これ以上一人で抱えきれない。誰かに聞いてもらわなければ、自分のほうが先に壊れてしまう。
そんな思いが警戒心よりもわずかに勝ったのだろう。
そして、彼女は震える声で口を開いた。
「……私は、元侯爵家の娘です」
一瞬、言葉が止まる。
「元と言うのは…横領の罪を着せられたのです」
唇を噛み、視線を伏せる。
「家族は、いま王都の牢に囚われています。賠償金を支払えなければ……処刑すると」
喉が詰まり、声が揺れる。
「王子は私に言いました。今日までに賠償金を支払えなければ、家族を殺すと」
そこで小さく息を吸う。
「そして……私を、自分の私室付きにすると」
最後の言葉は、ほとんど吐き出すようだった。
「とにかく今日中に王都へ行かなければ……私が行かなければ……」
言葉の途中で声が崩れた。
正直、賠償金の用意は、まだできていない。手元にも何もない。
それでも、何もせず時間だけが過ぎれば家族は処刑される。
そうなってしまうくらいなら、王子と直接向き合うしかない。
頭を下げてでも時間を乞う。交渉し、猶予を求める。
屈辱を受けようとも構わない。家族の命が繋がるなら、それでいい。
「……まずは王都へ行き、王子にお目通りを願うのです。話をしなければ…、でも……もう……」
窓の外はまだ夕暮れの色で、暗闇というほどではない。
それでも時間が残っていないことは、彼女の顔がはっきり物語っていた。
エリシアは再びレイを見た。警戒は消えていない。
それでも、その奥にわずかな希望が混じっている。
この男が何者なのか分からない。信じていい理由もない。
だが、ここで疑い続けていても何も変わらない。
——それなら。
「ここから王都まではどれくらいだ?」
エリシアが何かを言いかけた、その直前だった。
不意に投げかけられた問いに一瞬息を呑む。
だが、すぐに意識を引き戻し、かすれた声で答えた。
「馬車なら……三刻ほどです……でも……徒歩では……一日……」
「……なるほど」
「馬には乗れるのか?」
「はい……幼い頃から父に教えられていました……」
「なら、まだ間に合う可能性はあるな」
「……どういうことですか?」
レイは立ち上がった。
「心配するな」
エリシアが呆然とするのも構わず、レイは部屋を出て厩舎へ向かう。
夕方の風は冷え始めていたが、まだ空は完全に落ちきっていない。
実は昼に宿へ向かうときに馬が繋がれていたのを俺は見ていた。
馬はずんぐりした体つきで、いかにも家畜用という雰囲気だ。
速さは期待できないが、足は強そうだった。
「この馬、いくらだ」
近くにいた男に尋ねる。
男は一瞬、怪訝そうな顔をした。
「売り物じゃない」
即答だった。
「金貨三枚支払う」
男の目が見開かれる。
「……正気か?」
「あー、おおマジだね」
男はレイの顔と馬を見比べ、少しの沈黙の後、ゆっくり頷いた。
「……持っていけ」
レイは頷きかけて、続けて言った。
「これから夜道を走る。松明もくれ」
男は渋い顔をしたが、結局、物置の方へ行って松明を数本持ってきた。
「ほらよ。だが無茶はするな。あの道は夜になると獣も出る」
「助かる」
レイは金貨を三枚手渡し、手綱を掴む。
宿へ戻ると、エリシアは半ば呆然としたまま待っていた。
時間の感覚だけが焦りを煽るのだろう。息が浅く、肩が小刻みに揺れている。
「立てるか?」
差し出した手を、エリシアは震えながら掴む。
外へ出ると、夕暮れはさらに深まり、空の端が紫に滲み始めていた。
完全な夜ではないが、時期に暗くなる。
「二人乗りになるが我慢しろ」
俺はエリシアを前に乗せ、自分も鞍に跨る。
彼女の体はまだ弱っていたが、必死に前へしがみついた。
「この馬は農耕用なので速くはありませんが……それでも走り続ければ、三刻ほどで王都へ着けるはずです」
「なら問題ない」
松明を括りつけ、手綱を引き、踵で腹を蹴ると馬が踏み出す。
村の灯りが遠ざかり、森の影が濃くなる。
エリシアの呼吸が背中越しに伝わる。
馬は速くない。だが止まらなければ着く。
三刻――何もなければ十分間に合う時間だった。
こうしてレイは、異世界で初めて騎乗体験をしたのだった。




