夜明けの漂流者(A Tribute to "Shinya Kousoku" by Flower Companyz)
日常に埋もれ、心の奥底に澱のような感情を溜め込みながら、僕らは大人になる。
ふと、全てを投げ出してどこか遠くへ走り出したくなる夜はないだろうか。
本作は、そんな誰の心にも潜む衝動と再生を描いた物語です。
ある偉大なロックナンバーが持つ魂に触発され、この物語は生まれた。ページをめくるあなたの耳にも、魂を震わすあのメロディが鳴り響くことを願って。
これは、あなたの物語かもしれない。
金曜の夜。蛍光灯の白い光が、生気のないオフィスを冷ややかに照らし出している。時任健司は営業部長の小田が座るデスクの前で、プラスチックめいた笑みを顔に貼り付けていた。
「……以上です。本件、来週早々には先方へ正式な提案書を提出いたします」
自分の口から滑り出た言葉が、まるで他人の声のように遠く響く。今しがた淀みなく説明した企画は、入社三年目の部下、高橋が連日徹夜を重ねて練り上げたものだった。健司がしたのは、その荒削りな原石にやすりをかけ、体裁の良い報告書に仕立て上げ、あたかも自分がゼロから生み出したかのようにプレゼンしただけだ。
「ご苦労。さすがだな、時任くん。期待しているよ」
小田の満足げな声に、健司は深々と頭を下げた。背後で、高橋がどんな顔をしているか。見なくても分かった。賞賛と、ほんの少しの軽蔑が混じった目。それが今の健司に向けられる、正当な評価だった。罪悪感はとうに麻痺している。ただ、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような、ひどい空虚感だけが広がっていた。これが、四十二歳の男の「仕事」というものなのだろうか。
自分のデスクに戻り、PCの電源を落とす。黒い画面に映るのは、疲れ果てた中年男の顔だ。いつからだろう、鏡の中の自分と目を合わせるのが億劫になったのは。
会社の駐車場で、くたびれたセダンのエンジンをかける。ダッシュボードに置いたスマートフォンが短く震えた。妻の美咲からのメッセージだ。『夕飯は?』『今日は遅くなるの?』。その短い文面が、見えない楔となって健司の胸に打ち込まれる。優しい妻と、今年小学生になった娘。守るべきものがあるという事実は、時として重たい鎖になる。温かい家庭という名の鳥籠。俺はいつから、この籠の中で飼い慣らされてしまったのだろう。健司は返信もせず、スマホを裏返した。
いつもの道。いつもと同じ信号。いつもと同じコンビニの明かり。繰り返される日常の風景が、健司の神経を鈍く逆撫でする。壊したいものなど、もう何もない。だが、だからといって、この世界の全てに満足しているわけがなかった。
いつもなら左に曲がる交差点。そこを、健司はなぜか直進した。まるで何かに引かれるように、車の流れに乗っていく。やがて視界の先に、夜の闇に浮かび上がる巨大な緑色の標識が飛び込んできた。
(東名高速)
その無機質な文字が、健司の心の奥底で化石のように眠っていた何かを激しく揺さぶった。衝動だった。理由も目的もない、ただ純粋な破壊と逃亡への渇望。健司はほとんど無意識に右のウインカーを出し、緩やかなカーブを描く導入路へとハンドルを切った。
ETCゲートのバーが音もなく上がり、健司の車を夜の奔流へと解き放つ。ゲートを通過した瞬間、背徳的な高揚が背筋を駆け上がった。どこへ行くんだ? 頭の中で自問する声が響く。答えはない。ただ、帰り道はもう忘れてしまったような気がした。アクセルを踏み込む。エンジンが低く唸り、回転計の針が跳ね上がる。車は暗闇の中へと、弾丸のように溶けていった。
*
高速道路は、黒い河だった。等間隔に並ぶオレンジ色の街灯が、現実と非現実の境界線のように後方へ流れ去っていく。健司はただ、アクセルを踏み続けた。百キロ、百二十キロ。速度を上げるほどに、まとわりついていた日常の澱が剥がれ落ちていくような錯覚を覚える。追い越し車線を猛スピードで駆け抜ける大型トラックの赤いテールランプが、まるで獲物を追う獣の目のように見えた。
ヘッドライトが照らし出すのは、せいぜい数十メートル先のアスファルトだけだ。その先は深い闇に閉ざされている。まるで自分の人生そのものじゃないか、と健司は自嘲した。手前しか見えない道を、胸を高鳴らせながら、あるいは怯えながら、ひたすらに走り続ける。
鳴り続けるスマートフォンの振動を無視し、健司は記憶の海へと深く沈んでいった。
二十年前。煙草の煙とアンプの熱気でむせ返る、大学近くの練習スタジオ。そこに、翔太がいた。
汗で濡れた髪を振り乱し、ボディの塗装が剥げた傷だらけのテレキャスターを掻き鳴らす。彼の指から生まれるリフはいつも鋭く、そしてどこか泣いているようだった。
「健司、今のフレーズどうだ? 天才的じゃね?」
息を切らしながら振り返る翔太の目は、いつだって自信と野心でぎらぎらと輝いていた。健司は重たいベースを抱えたまま、その眩しさに目を細める。
「悪くないけど、ちょっと走りすぎだ」
「それくらいがロックだろ。俺たちはこんなところで終わる人間じゃねえよな」
本気でそう信じていた。この四人で鳴らす音が、世界を変えると。くだらない大人たちが作った退屈な社会を、自分たちの音楽で塗り替えてやれると。ライブハウスの薄暗いステージの上、熱狂する数人の客の前で演奏した夜。演奏が終わった後、機材車代わりのオンボロのバンで、夜明けのファミレスで語り合った夢。それは若さという名の熱病であり、愚かしいほどに純粋な夢だった。青春ごっこ、と誰かは笑うだろうか。だが、あの頃の自分たちにとっては、それが世界の全てだった。
しかし、時は容赦なく現実を突きつける。卒業が近づくにつれ、仲間たちは一人、また一人と髪を黒く染め、窮屈そうなスーツに身を包んでいった。健司もまた、その一人だった。地元の建設会社から内定をもらった日、翔太にそれを告げた時の彼の顔を、健司は生涯忘れることができないだろう。
「……お前もかよ」
静かな、失望に満ちた声だった。
「仕方ないだろ。音楽だけじゃ食っていけない」
「食うために音楽やってたのか、俺たちは」
「現実を見ろよ、翔太。いつまでも夢みたいなこと言ってられないんだよ」
その言葉を口にした瞬間、健司は自分の中の何かが音を立てて死んだのを感じた。翔太は何も言わず、ただ軽蔑のこもった目で健司を見つめると、踵を返してスタジオから出ていった。それが、彼と交わした最後の会話になった。
翔太は、卒業後も一人で音楽を続けていた。そして、その半年後、深夜の国道でバイク事故を起こし、あっけなく死んだ。二十二歳の若さだった。
葬儀で、健司は涙を流すことができなかった。翔太の遺影は、スタジオで見たあの頃と同じ、不遜な笑みを浮かべていた。お前も結局、そっち側の人間か。その声が、耳の奥でいつまでも響いていた。
「……くそっ」
健司はハンドルを強く握りしめた。俺が今までやってきたこと。たくさんのひどいこと。翔太に吐きつけた酷い言葉。彼を見捨て、夢から逃げた裏切り。癒えることのない痛みを伴う出来事が、胸の奥に澱のように溜まっている。
気づけば、ガソリンの残量警告ランプが点滅していた。健司は最寄りのサービスエリアに車を滑り込ませる。深夜のサービスエリアは、まるで世界の果てのように静まり返っていた。大型トラックが数台、巨体を休めるように停まっているだけだ。自動販売機で買った缶コーヒーは、ひどくぬるくて不味かった。
トイレの鏡に映った自分の顔を、健司はまじまじと見つめた。目尻に刻まれた皺。少し増えた白髪。目の下の、何をしても消えない隈。これが、夢を捨て、現実を選んだ男の成れの果てか。年をとったらとるだけ、増えていくものは何だろう。諦めるための言い訳と、消えない後悔だけじゃないか。透き通るような純粋な気持ちは、一体どこへ消えてしまったのか。
若さは、世間体にとらわれず、自分自身と向き合う孤独な時間だ。翔太はそうだった。そして、そんな彼を置いてきぼりにした自分は、今、家族という温かいものに囲まれながらも、どうしようもなく一人ぼっちだった。心の中にいる漂流者は、明日、どこへ辿り着くのだろう。
ポケットの中で、またスマートフォンが震えた。美咲からの着信だ。健司はそれを取り出すと、迷うことなく電源ボタンを長押しした。画面が暗転し、世界との繋がりが完全に断たれる。解放感と、それ以上の途方もない孤独が押し寄せた。
*
再び闇の中の道を走り始めた。疲労と眠気が、鉛のように身体にのしかかる。意識が朦朧とし、ヘッドライトの光が滲んで見えた。このままどこかのガードレールに突っ込んでしまえば、全てが楽になるのだろうか。そんな考えが頭をよぎった時だった。
気まぐれにつけていたカーラジオから、不意に、ある曲が流れ始めた。ノイズ混じりの、ざらついた音。だが、そのイントロのギターリフを聞いた瞬間、健司は全身の血が逆流するかのような衝撃に襲われた。
間違いない。翔太が愛聴していた、あのバンドの曲だ。事故に遭う数日前、四畳半の安アパートの部屋で、擦り切れるほど聴き込んだカセットテープをかけながら翔太は言った。「この曲、今の俺の歌なんだよ」。
『……大人の皮をかぶって、永遠の青さを求めて彷徨う……』
掠れたボーカルの声が、健司の鼓膜を突き破り、魂を直接鷲掴みにする。それは祈りであり、呪いであり、そして救いだった。
手の中には何もなく、壊すものもない。この静寂を壊す勇気もない。だけど、何一つ満足なんてしていない。夢の中で生きるアウトロー。歌詞の一つひとつが、今の健司自身の叫びとなって胸に突き刺さる。そうだ、俺はまだ旅の途中だったんだ。終わったふりをしていただけで、ずっと青春ごっこを引きずっていたんだ。
そして、曲は堰を切ったようにサビに達した。
絶叫にも似たボーカルが、夜の闇を引き裂くように歌う。
『生きててよかった』
その瞬間、健司の目から涙が溢れ出した。嗚咽が漏れ、視界が歪む。ハンドルを握りしめる手に、爪が食い込む。
この命に、ありがとう。
そんな夜を、俺はずっと探していたんじゃないか。
翔太が死んで、俺は生き残った。平凡な日常に埋もれ、夢を忘れ、魂をすり減らしながら、それでも生きてきた。そのことに、どんな意味があるのか分からなかった。虚しいだけだと思っていた。
だが、違った。
この虚しさも、後悔も、罪悪感も、全て。生きているからこそ感じられる痛みだ。死んでしまった翔太には、もう何も感じることができない。
「ごめん……ごめん、翔太……っ」
謝罪の言葉と共に、熱いものが込み上げてくる。それは翔太への懺悔だけではなかった。不甲斐なく、みっともなく、それでも生き永らえてきた自分自身を、初めて肯定できた瞬間の、歓喜の涙だった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、健司はアクセルをさらに踏み込んだ。曲はクライマックスへと向かっていく。
行こう、行こうぜ。
ボーカルの煽りに呼応するように、健司もまた、声にならない声で叫んでいた。剥き出しの胸で。震わせていこうぜ。
そうだ、行こう。
俺が犯してきたたくさんの過ちも、口にしてきたたくさんの酷い言葉も、翔太への拭いきれない罪悪感も、ひとつ残らず全部持って、どこまでも行ってやる。涙なんかで終わらせない。この痛みも苦しみも、全て抱きしめて、俺は俺の道を行く。
もっと遠く、まだ名もなき景色へ。
この手が続くかぎり、光の種をまいていく。
感じる。それだけが、証。
今、この胸に突き上げている衝動。生きているという、ただそれだけの圧倒的な実感。それだけが、唯一の真実だった。
剥き出しの胸で。嗄れた声で。土に汚れた素手で。
健司は夜の高速を、ただひたすらに突き進んだ。
*
どれくらい走っただろうか。
曲はとうに終わり、ラジオは次の曲を流していた。健司はいつの間にかラジオの電源を切り、車内にはエンジン音だけが響いていた。
ふと顔を上げると、東の空がわずかに白み始めていることに気づいた。夜と朝の境界線が、深い藍色と淡いオレンジのグラデーションを描いている。健司は次のインターチェンジで高速を降りると、まるで導かれるように、海沿いの小さなパーキングエリアに車を停めた。
エンジンを切ると、世界は完全な静寂に包まれた。いや、違う。微かに、波の音が聞こえる。寄せては返す、永遠に繰り返されるリズム。潮の香りが、開けた窓から流れ込んできた。
健司は車を降り、冷たいコンクリートの防波堤に寄りかかって水平線を眺めた。
やがて、水平線の向こう側から、燃えるような太陽がゆっくりと姿を現した。世界が光に満たされていく。そのあまりに荘厳で、圧倒的な美しさに、健司は言葉を失った。光の粒子が、疲弊しきった彼の魂を優しく洗い清めていくようだった。
昨日の夜までの自分は、もうどこにもいない。
心の中は空っぽだった。だが、それは虚無ではなかった。嵐が過ぎ去った後のような、不思議なほどの静けさと充実感がそこにあった。
生きててよかった。
心の底から、そう思えた。それはもう、昨夜の激情的な叫びではなく、静かで、確かな実感だった。そんな夜を、俺は見つけたんだ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れる。起動した画面には、おびただしい数の不在着信とメッセージの通知が表示されていた。健司はそれをスクロールもせず、美咲宛に新しいメッセージを打ち込んだ。
『帰る。少し時間がかかる』
謝罪も、言い訳も、愛情の言葉もなかった。ただ、事実だけを伝える短い文。それを送信すると、健司は深く息を吸い込んだ。
これからどうするのか。会社は? 家族は? 何も決まっていない。目的地はない。
だが、もう闇雲な逃避ではなかった。
健司は車に戻り、再びエンジンをかけた。
帰り道ではない。まだ見たことのない景色が、この道の先には広がっているはずだ。
夜明けの光の中を、健司の車は再び走り出した。それは、失われた青春を取り戻す旅ではなく、これから始まる新しい人生のための、静かで力強い旅立ちだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、フラワーカンパニーズの名曲『深夜高速』に最大限の敬意を込めて執筆しました。あの曲が持つ、不器用で、みっともなくても、ただひたすらに生きることを肯定する力は、時代を超えて多くの人の心を打ちます。
人生に迷い、立ち止まった主人公が再び走り出す姿が、明日へ向かうあなたの背中を少しでも押すことができたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。