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水上が店を去った後、宗一郎は安堵と不安が入り混じった複雑な表情で、娘を見つめていた。
「……志乃。本当に、あんな得体の知れない男と、ましてや岸馬君まで巻き込んで、あんな危険な連中とやり合うつもりなのか」
「はい、お父様」志乃は静かに、しかしはっきりと頷いた。「あのまま何もしないでいる方が、きっと良くないことになります」
娘の揺るぎない瞳に、宗一郎は言葉を失った。
志乃は少し間を置き、そして変わらずに落ち着いた口調で続けた。
「ですが、その前に一つだけ。岸馬さんに連絡なさる前に、もう一度大学へ行ってもよろしいでしょうか。水上さんが、本当に帝国大学の方なのか、確かめておきたいのです」
それは、この奇妙な状況における、志乃なりに考えた最大限の慎重さだった。
彼女の「危険に対する鈍感さ」は、恐怖を感じさせない代わりに、物事の筋道や道理を冷静に見極めさせる働きをすることがある。
宗一郎は、娘の思慮深い提案に目を見張った。
そうだ、それが順序というものだ。見知らぬ男の言葉を鵜呑みにし、いきなり友人を危険に晒すなど、あってはならないことだった。
「……そうか。そうだな、志乃。お前の言う通りだ。よし、行こう。あの男が本物かどうか、この目で確かめてくる」
父と娘は顔を見合わせると、再び古今堂の戸に鍵をかけ、本郷の帝国大学へと向かった。
今度は、風格のある文学部の校舎を目指し、考古学研究室の事務室の扉を叩いた。
中から出てきたのは、人の良さそうな年配の書記だった。
宗一郎が丁寧な口調で、水上潤という人物について尋ねると、書記は少し困ったように頭を掻いた。
「ああ、水上先生ですか……。ええ、確かに在籍はしております。あの方は、まあ……少し、変わり者でしてな」
書記の話をまとめると、こうだった。
水上潤は、非常勤の嘱託研究員として籍を置いているが、大学から給金は受け取っていない。彼の研究は、裕福なパトロンからの私的な資金で賄われており、大学側も彼の知識と成果を頼りにはしているが、その活動の全貌は誰も把握していない。
年に数回しか大学には顔を出さず、一度姿を消すと、数ヶ月間「実地調査」と称してどこへ行っているのかも分からない。
その研究成果は常に画期的で、学会を驚かせるものばかりだが、彼の私生活や交友関係は、教授たちの間でも謎に包まれているという。
「腕は確かですが、なにぶん神出鬼没でして……。我々も、彼が次にいつ登校するのか、全く分からないのですよ」
書記はそう言って肩をすくめた。
古今堂への帰り道、宗一郎は腕を組んで唸った。
「……分かったような、分からんような話だったな。少なくとも、偽名を騙る詐欺師ではないようだが」
「ええ」と志乃は頷いた。「とても優秀な先生だということは分かりました。でも、やっぱり、不思議な方ですね」
水上潤という男の輪郭は、少しだけはっきりとした。
しかし、その中心にある謎は、依然として霧の向こう側にある。
それでも、最低限の身元は確認できた。これで、心置きなく次の段階へ進める。
志乃は、これから始まるであろう出来事の数々を思い、静かに心を固めた。