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名刺を受け取った志乃は、そこに書かれた文字に目を落とした。
『東京帝国大学 文学部 考古学研究室 水上 潤』
達筆ながらも、力みも気負いもない、流麗な筆跡だった。
志乃は名刺から顔を上げ、改めて目の前の男を見る。海龍のような威圧的な態度は微塵も感じられない。しかし、信用して良いものだろうか。
父の宗一郎は、用心深く男を観察している。
志乃は一瞬考えた。けれど、あの奇妙な小箱も、禍々《まがまが》しい脈動を放っていた黒い石も、もう手元にはないのだ。
これ以上、事態が悪くなることがあるだろうか。そう考えると、不思議と心が軽くなった。
むしろ、このまま何も知らずにいることの方が、よほど落ち着かない。
志乃は小さく頷くと、水上に向かって言った。
「……お話、お聞かせください。どうぞ、お掛けになって」
志乃に促され、水上は店の隅にある客用の椅子に腰を下ろした。
宗一郎は娘の隣に立ち、いつでも割って入れるように身構えている。
「先程、あなたはあの石を『鎮めの石』と仰いました。あれは、一体何なのですか?」
志乃の単刀直入な問いに、水上は満足げに頷いた。
「やはり、ご興味がおありのようだ。……『鎮めの石』は、我々がそう呼んでいる通称です。古文書によれば、日本各地には古来より、大地の力、すなわち龍脈が乱れる場所が点在すると言われています。その乱れを鎮め、災厄を防ぐために置かれたのが、かの石だと伝えられている」
「大地の力……ですか」
「ええ。科学では解明できぬ、目に見えぬ力の流れです。玄洋会は、その力を信奉し、鎮められている力を逆に解放することで、この国を意のままに操ろうと企んでいる。彼らは石を『神器』と呼び、その力を解放する鍵だと考えているのです」
水上の言葉は荒唐無稽に聞こえたが、あの石が放っていた尋常ならざる気配を思い出すと、志乃は彼の話を信じざるを得なかった。
宗一郎は、依然として懐疑的な表情を崩さない。
「あなた方は、一体何者なのです。なぜ、そんなことをご存知で?」
宗一郎の問いに、水上は静かに答えた。
「我々は、玄洋会のような者たちから、そうした危険な遺物を守り、正しく管理することを目的とする、ごく私的な集まりです。大学の研究も、その一環に過ぎません。我々は玄洋会の動きを追っており、例の石が都内に持ち込まれたことを突き止め、昨日ようやくこの店に辿り着いたのです。……しかし、一足遅かった」
水上は悔しそうに唇を噛んだ。そして、再びその真摯な眼差しを志乃に向けた。
「神阪さん。……いや、志乃さん。あなたにお聞きしたい。海龍は、あなたに何か言いませんでしたか? 石と、あなたに関することで」
「……私のそばにあると、石が落ち着いている、と」
「やはり……!」
水上は身を乗り出した。
「我々の記録でも、『鎮めの石』は常に不安定で、周囲に不吉な影響を与える危険な存在として記されています。しかし、石が人のそばでその力を鎮めたという記録は、これまで一切なかった。あなたは、特別な存在なのです。だからこそ、海龍はあなたに目を付けた」
宗一郎が、志乃を庇うように一歩前に出た。
「娘は関係ない! 石はもう渡したのだ。これ以上、我々を巻き込むのはやめていただきたい!」
「無駄です、ご主人」と、水上は静かに首を振った。「石を手に入れた今、玄洋会が次に関心を持つのは、その石を鎮める力を持つ『人間』です。彼らは、志乃さんを、石を制御するための道具、あるいは新たな『神器』として手に入れようとするでしょう。もはや、逃げることはできないのです」
水上の言葉は、冷徹な事実として父と娘の胸に突き刺さった。
平穏な日常に戻るという選択肢は、もはやどこにも残されていなかった。
「志乃さん」と、水上は続けた。「我々と共に来てはくれませんか。あなたご自身の謎を解き明かすことが、あなたと、そしてこの帝都を名状しがたい災厄から守る唯一の道だと、私は信じています」
水上の言葉は、志乃の心にすっと落ちた。
怖い、危ない、という父が感じるであろう切迫した感情よりも先に、「なぜ自分が?」という純粋な疑問が彼女の心を占めていた。
玄洋会という得体の知れない影に怯えて暮らすよりも、水上と共にその理由を探る方が、ずっと筋が通っているように思えた。
それは勇敢な決断というより、むしろ彼女にとっては当然の成り行きだった。
父の心配そうな顔は心苦しかったが、志乃は自分の心の内にある静かな好奇心に従うことに決めた。