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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第1章
7/24

7

 名刺を受け取った志乃は、そこに書かれた文字に目を落とした。

『東京帝国大学 文学部 考古学研究室 水上みなかみ じゅん

 達筆ながらも、力みも気負いもない、流麗りゅうれいな筆跡だった。

 志乃は名刺から顔を上げ、改めて目の前の男を見る。海龍のような威圧的な態度は微塵も感じられない。しかし、信用して良いものだろうか。


 父の宗一郎は、用心深く男を観察している。

 志乃は一瞬考えた。けれど、あの奇妙な小箱も、禍々《まがまが》しい脈動を放っていた黒い石も、もう手元にはないのだ。

 これ以上、事態が悪くなることがあるだろうか。そう考えると、不思議と心が軽くなった。

 むしろ、このまま何も知らずにいることの方が、よほど落ち着かない。

 志乃は小さく頷くと、水上に向かって言った。


「……お話、お聞かせください。どうぞ、お掛けになって」


 志乃に促され、水上は店の隅にある客用の椅子に腰を下ろした。

 宗一郎は娘の隣に立ち、いつでも割って入れるように身構えている。


「先程、あなたはあの石を『しずめの石』と仰いました。あれは、一体何なのですか?」


 志乃の単刀直入な問いに、水上は満足げに頷いた。


「やはり、ご興味がおありのようだ。……『鎮めの石』は、我々がそう呼んでいる通称です。古文書によれば、日本各地には古来より、大地の力、すなわち龍脈りゅうみゃくが乱れる場所が点在すると言われています。その乱れを鎮め、災厄さいやくを防ぐために置かれたのが、かの石だと伝えられている」


「大地の力……ですか」


「ええ。科学では解明できぬ、目に見えぬ力の流れです。玄洋会げんようかいは、その力を信奉しんぽうし、鎮められている力を逆に解放することで、この国を意のままに操ろうと企んでいる。彼らは石を『神器じんぎ』と呼び、その力を解放する鍵だと考えているのです」


 水上の言葉は荒唐無稽こうとうむけいに聞こえたが、あの石が放っていた尋常ならざる気配を思い出すと、志乃は彼の話を信じざるを得なかった。

 宗一郎は、依然として懐疑的かいぎてきな表情を崩さない。


「あなた方は、一体何者なのです。なぜ、そんなことをご存知で?」


 宗一郎の問いに、水上は静かに答えた。


「我々は、玄洋会のような者たちから、そうした危険な遺物を守り、正しく管理することを目的とする、ごく私的な集まりです。大学の研究も、その一環に過ぎません。我々は玄洋会の動きを追っており、例の石が都内に持ち込まれたことを突き止め、昨日ようやくこの店に辿り着いたのです。……しかし、一足遅かった」


 水上は悔しそうに唇を噛んだ。そして、再びその真摯しんしな眼差しを志乃に向けた。


「神阪さん。……いや、志乃さん。あなたにお聞きしたい。海龍は、あなたに何か言いませんでしたか? 石と、あなたに関することで」


「……私のそばにあると、石が落ち着いている、と」


「やはり……!」


 水上は身を乗り出した。


「我々の記録でも、『鎮めの石』は常に不安定で、周囲に不吉な影響を与える危険な存在として記されています。しかし、石が人のそばでその力を鎮めたという記録は、これまで一切なかった。あなたは、特別な存在なのです。だからこそ、海龍はあなたに目を付けた」


 宗一郎が、志乃をかばうように一歩前に出た。


「娘は関係ない! 石はもう渡したのだ。これ以上、我々を巻き込むのはやめていただきたい!」


「無駄です、ご主人」と、水上は静かに首を振った。「石を手に入れた今、玄洋会が次に関心を持つのは、その石を鎮める力を持つ『人間』です。彼らは、志乃さんを、石を制御するための道具、あるいは新たな『神器』として手に入れようとするでしょう。もはや、逃げることはできないのです」


 水上の言葉は、冷徹れいてつな事実として父と娘の胸に突き刺さった。

 平穏な日常に戻るという選択肢は、もはやどこにも残されていなかった。


「志乃さん」と、水上は続けた。「我々と共に来てはくれませんか。あなたご自身の謎を解き明かすことが、あなたと、そしてこの帝都を名状めいじょうしがたい災厄から守る唯一の道だと、私は信じています」


 水上の言葉は、志乃の心にすっと落ちた。

 怖い、危ない、という父が感じるであろう切迫せっぱくした感情よりも先に、「なぜ自分が?」という純粋な疑問が彼女の心を占めていた。

 玄洋会という得体の知れない影に怯えて暮らすよりも、水上と共にその理由を探る方が、ずっと筋が通っているように思えた。

 それは勇敢な決断というより、むしろ彼女にとっては当然の成り行きだった。

 父の心配そうな顔は心苦しかったが、志乃は自分の心の内にある静かな好奇心に従うことに決めた。

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