6
父を安心させたい一心で、志乃はその日から何事もなかったかのように振る舞った。
海龍光太郎も、あの黒い石も、まるで初めから存在しなかったかのように。
朝は父と食卓を囲み、日中は女学校へ通い、午後は店の手伝いをする。
古今堂には、以前と変わらない穏やかな時間が流れていた。
宗一郎も、志乃の落ち着いた様子を見てか、次第に口数も増え、笑顔を見せるようになった。
あの事件について二人が語り合うことは、もうなかった。表面上は、すべてが元通りになったように見えた。
しかし、志乃の心の中では、あの日の出来事が消えることなく燻り続けていた。
授業中、ふとした瞬間に海龍の言葉が蘇る。「お前のそばにあると、石が妙に落ち着いている」。
あれは一体、どういう意味だったのだろうか。自分の何が、あの不可思議な石に影響を与えたというのだろう。
それは恐怖ではなく、純粋な知的好奇心として、志乃の心を捉えていた。危険に対する鈍感さは、彼女を恐怖から遠ざける代わりに、謎そのものへと引き寄せていた。
数日が過ぎたある日の午後、志乃が一人で店番をしていると、格子戸が静かに開いた。
入ってきたのは、見慣れない若い男だった。学生風の着物にマントを羽織り、理知的な丸眼鏡をかけている。
「ごめんください。こちらで珍しい南蛮渡りの小箱を買い取られたと伺ったのですが」
志乃の心臓が、小さく跳ねた。
男は穏やかな笑みを浮かべているが、その目は熱心な探求者の光を宿している。
「あいにくですが、そのお品はもう……」
「存じております。玄洋会の方に渡ったそうですね」
男の言葉に、志乃は息を呑んだ。どうしてこの人がその名を。
男は慌てる志乃を見て、悪戯っぽく笑みを深めた。
「ご安心を。私は彼らの仲間ではありません。むしろ、彼らが探すような品々を、先んじて確保し、保護する側の人間です。私は、帝大で考古学を研究している、水上と申します」
水上と名乗る男は、懐から一枚の名刺を取り出した。
「単刀直入に申し上げます、神阪さん。あなたがあの石……『鎮めの石』と接触した唯一の人物です。あの石が、あなたの前でだけその力を鎮めていた、というのは本当ですか? そして、玄洋会の海龍は、そのことに気づいてあなたに興味を抱いている。違いますかな?」
平穏な日常は、脆くも崩れ去った。
志乃は、自分が再びあの不可思議な世界の入り口に立たされていることを悟った。
今度の案内人は、海龍のような脅威ではなく、知的好奇心という、抗いがたい魅力を纏っていた。