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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第1章
5/23

5

 岸馬の警告は、宗一郎の心を完全に折るには十分だった。

 古今堂に戻る道すがら、彼の顔からは血の気が引き、その足取りは鉛のように重い。

 店に着き、戸に錠を下ろすと、彼はまるで亡霊ぼうれいのように力なく椅子に崩れ落ちた。

 志乃はそんな父の姿を、心配そうに、しかし落ち着いて見つめていた。


「……お父様」


「言うな、志乃。岸馬君の言う通りだ。我々が関わっていい話じゃない。玄洋会げんようかいだと? 軍や華族かぞくまで絡んでいるなど……。あの石はわざわいの元だ。持っているだけで、我々は破滅する」


 宗一郎は決意を固めたように顔を上げた。その目には、恐怖と、娘を守らねばという悲壮ひそうな覚悟が宿っていた。


「あの男、海龍とか言ったな。彼が戻って来たら、この箱を渡そう。金などいらん。ただ、これ以上我々に関わるなと、それだけを願ってな」


「それが一番良いかもしれませんね」


 志乃はあっさりと頷いた。

 彼女にとって、石は興味深い観察対象ではあったが、父がこれほどまでに苦しむのであれば、手放すことに何の未練もない。

 むしろ、あの海龍という人物が、なぜあんなにも一つの石に執着しゅうちゃくするのか、その理由の方が気になっていた。


「あの人たちに渡してしまったら、私たちはもう関わりなくいられますでしょうか」


「そう願うしかない……」


 宗一郎は力なく答えると、帳場から小箱を取り、店の奥にある蔵の入口近くの棚に、いつでも持ち出せるようにと置いた。

 その日から、古今堂には重苦しい緊張が漂い始めた。


 翌日、そしてまたその翌日。店の格子戸が開くたびに、宗一郎の肩がびくりと震えた。

 志乃はその様子を気の毒に思いながら、いつも通り店番をこなした。

 海龍光太郎が姿を現すことはなく、不気味なほど穏やかな時間が過ぎていく。

 蔵の近くを通っても、志乃は以前感じたような脈動をほとんど気に留めなかった。それは彼女にとって、柱時計の音と同じような、そこにあるのが当たり前の音になっていた。


 三日目の夕暮れ時だった。

 客足も途絶え、宗一郎が落ち着かない様子で店じまいの準備を始めようとした時、格子戸が静かに開いた。

 そこに立っていたのは、まぎれもなく海龍光太郎だった。

 以前と同じく上質な絹の羽織をまとっているが、今回は一人ではない。彼の後ろに、岩のように大柄な男が控えている。男は無言で、感情の読めない目で店内を見渡した。


「……お待ちしておりました」


 宗一郎は、緊張で声を震わせながらも、深々と頭を下げた。


「先日のお品、お譲りいたします。どうか、これでお納めください」


 彼は棚から風呂敷包みを取り出し、カウンターの上に置いた。海龍はそれを一瞥いちべつすると、鼻で笑った。


「ふん。賢明な判断だ。初めからそうしていれば良かったのだ」


 彼は懐から財布を取り出すと、約束の三百円ではなく、くしゃくしゃの十円札を数枚、無造作にカウンターに放り投げた。


「手間賃だ。取っておけ」


 その侮辱的な態度に、宗一郎の顔が赤くなったが、彼は唇を固く結んで耐えた。

 海龍は小箱を手に取ると、こともなげにその蓋を開けた。先日、宗一郎が苦心して開けた錠前は、彼の手にかかるといとも容易たやすく口を開いたように見えた。


 箱の中から黒い石が姿を現す。海龍はそれを手に取ると、恍惚こうこつとした表情で眺めた。

 彼の目は、古物商が逸品に向けるそれとは全く違っていた。それは、失われた神器じんぎを前にした狂信者きょうしんしゃのそれであり、熱に浮かされたような光を帯びていた。


「……そうだ。これだ。これで、くろき海は目覚める」


 海龍は誰に言うともなく呟くと、不意にその視線を志乃に向けた。

 彼の鋭い目が、何かを見定めるように志乃を上から下まで値踏みする。


「妙だな」


「……何がでございましょうか」


 宗一郎がいぶかしげに問い返す。


「この石は、本来もっと荒々しく脈打つはずだ。だが……お嬢さん。お前のそばにあると、石が妙に落ち着いている。まるで、赤子が母の腕に抱かれているかのようだ。……面白い」


 海龍の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

 それは、新たな玩具を見つけた子供のような、無邪気で、それ故に残酷な笑みだった。

 彼は石を懐にしまうと、大柄な男を伴って店を出て行った。


 男たちの姿が見えなくなると、宗一郎はカウンターに手をつき、大きく息を吐いた。


「……終わった。これで、やっと終わったんだ」


 父の安堵した声が、店内に虚しく響く。

 しかし、志乃の心は晴れなかった。

 石がなくなったことで、奇妙な喪失感そうしつかんが胸に広がる。

 それ以上に、海龍の最後の言葉が、解けない謎掛けのように頭の中を巡っていた。

「石が落ち着いている」。なぜだろう。

 あの黒い石と自分との間に、何か繋がりがあるとでもいうのだろうか。

 恐怖ではなく、ただただ大きな疑問符が、志乃の心の中を占めていた。

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