5
岸馬の警告は、宗一郎の心を完全に折るには十分だった。
古今堂に戻る道すがら、彼の顔からは血の気が引き、その足取りは鉛のように重い。
店に着き、戸に錠を下ろすと、彼はまるで亡霊のように力なく椅子に崩れ落ちた。
志乃はそんな父の姿を、心配そうに、しかし落ち着いて見つめていた。
「……お父様」
「言うな、志乃。岸馬君の言う通りだ。我々が関わっていい話じゃない。玄洋会だと? 軍や華族まで絡んでいるなど……。あの石は禍いの元だ。持っているだけで、我々は破滅する」
宗一郎は決意を固めたように顔を上げた。その目には、恐怖と、娘を守らねばという悲壮な覚悟が宿っていた。
「あの男、海龍とか言ったな。彼が戻って来たら、この箱を渡そう。金などいらん。ただ、これ以上我々に関わるなと、それだけを願ってな」
「それが一番良いかもしれませんね」
志乃はあっさりと頷いた。
彼女にとって、石は興味深い観察対象ではあったが、父がこれほどまでに苦しむのであれば、手放すことに何の未練もない。
むしろ、あの海龍という人物が、なぜあんなにも一つの石に執着するのか、その理由の方が気になっていた。
「あの人たちに渡してしまったら、私たちはもう関わりなくいられますでしょうか」
「そう願うしかない……」
宗一郎は力なく答えると、帳場から小箱を取り、店の奥にある蔵の入口近くの棚に、いつでも持ち出せるようにと置いた。
その日から、古今堂には重苦しい緊張が漂い始めた。
翌日、そしてまたその翌日。店の格子戸が開くたびに、宗一郎の肩がびくりと震えた。
志乃はその様子を気の毒に思いながら、いつも通り店番をこなした。
海龍光太郎が姿を現すことはなく、不気味なほど穏やかな時間が過ぎていく。
蔵の近くを通っても、志乃は以前感じたような脈動をほとんど気に留めなかった。それは彼女にとって、柱時計の音と同じような、そこにあるのが当たり前の音になっていた。
三日目の夕暮れ時だった。
客足も途絶え、宗一郎が落ち着かない様子で店じまいの準備を始めようとした時、格子戸が静かに開いた。
そこに立っていたのは、紛れもなく海龍光太郎だった。
以前と同じく上質な絹の羽織をまとっているが、今回は一人ではない。彼の後ろに、岩のように大柄な男が控えている。男は無言で、感情の読めない目で店内を見渡した。
「……お待ちしておりました」
宗一郎は、緊張で声を震わせながらも、深々と頭を下げた。
「先日のお品、お譲りいたします。どうか、これでお納めください」
彼は棚から風呂敷包みを取り出し、カウンターの上に置いた。海龍はそれを一瞥すると、鼻で笑った。
「ふん。賢明な判断だ。初めからそうしていれば良かったのだ」
彼は懐から財布を取り出すと、約束の三百円ではなく、くしゃくしゃの十円札を数枚、無造作にカウンターに放り投げた。
「手間賃だ。取っておけ」
その侮辱的な態度に、宗一郎の顔が赤くなったが、彼は唇を固く結んで耐えた。
海龍は小箱を手に取ると、こともなげにその蓋を開けた。先日、宗一郎が苦心して開けた錠前は、彼の手にかかるといとも容易く口を開いたように見えた。
箱の中から黒い石が姿を現す。海龍はそれを手に取ると、恍惚とした表情で眺めた。
彼の目は、古物商が逸品に向けるそれとは全く違っていた。それは、失われた神器を前にした狂信者のそれであり、熱に浮かされたような光を帯びていた。
「……そうだ。これだ。これで、玄き海は目覚める」
海龍は誰に言うともなく呟くと、不意にその視線を志乃に向けた。
彼の鋭い目が、何かを見定めるように志乃を上から下まで値踏みする。
「妙だな」
「……何がでございましょうか」
宗一郎が訝しげに問い返す。
「この石は、本来もっと荒々しく脈打つはずだ。だが……お嬢さん。お前のそばにあると、石が妙に落ち着いている。まるで、赤子が母の腕に抱かれているかのようだ。……面白い」
海龍の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
それは、新たな玩具を見つけた子供のような、無邪気で、それ故に残酷な笑みだった。
彼は石を懐にしまうと、大柄な男を伴って店を出て行った。
男たちの姿が見えなくなると、宗一郎はカウンターに手をつき、大きく息を吐いた。
「……終わった。これで、やっと終わったんだ」
父の安堵した声が、店内に虚しく響く。
しかし、志乃の心は晴れなかった。
石がなくなったことで、奇妙な喪失感が胸に広がる。
それ以上に、海龍の最後の言葉が、解けない謎掛けのように頭の中を巡っていた。
「石が落ち着いている」。なぜだろう。
あの黒い石と自分との間に、何か繋がりがあるとでもいうのだろうか。
恐怖ではなく、ただただ大きな疑問符が、志乃の心の中を占めていた。