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あれから、数週間が過ぎた。
神保町の古書店街の一角、鈴懸並木は、すっかりと葉を落とし、冬の訪れを待つ肌寒い一日となっていた。
古物屋『古今堂』の店内は、いつもと変わらない、穏やかな午後の空気に満ちていた。
埃と古い木、そして微かな香の匂いが混じり合った独特の空気。
それが、神阪志乃が再び取り戻した、日常の香りであった。
彼女はカウンターの奥で、一枚の古い伊万里の小皿を、柔らかい布で丁寧に磨いていた。
その白い指先が、染付の青い模様を優しくなぞる。
その光景は、以前までの日常と何ら変わらない。
しかし彼女自身は、もう以前のままではなかった。
(…終わったのですね)
ふとした瞬間に、あの山頂での出来事が、遠い夢の記憶のように蘇る。
原初の光が闇を祓い、神代の怪異が消滅した後、志乃は丸一日眠り続けた。
彼女が目を覚ました時、仲間たちはただ静かに、彼女の回復を待っていてくれたのだった。
山を下りる道すがら、誰もがあの戦いについて口にすることはなかった。
ただ、源兵衛が別れ際に「千代によく似てきたな」と、別人のように優しい顔で、彼女の頭を一度だけ、無骨な手でぽんと撫でた。
それが老猟師の、最大限の愛情表現だったのだろう。
帝都に戻った後、志乃は麻布の神宮文庫で、さらに数日を過ごした。
それは、苦難を支え合った仲間との、暇乞いのための猶予であった。
八坂翁は、いつものように書庫の奥で古文書を紐解いていた。
彼は志乃に「そなたは役目を果たした。じゃが、『鎮めの乙女』としての宿命が、そなたから消えることはない。これからも、その清い心で世の理の乱れを見つめ続けなされ」と、静かに語った。
和泉は、志乃が山で使った泥だらけの登山靴を、まるで神器を扱うように、丁寧に手入れをしてくれていた。
「また、いつでもいらしてくださいね」と、はにかむように微笑んだその顔は、初めて会った時の、あの職人らしい厳しいものではなかった。
巌は最後まで何も言わなかった。
ただ、志乃が屋敷の門を出る時、これまでに見たことがないほど深く、そして長い時間、頭を下げ続けていた。
その姿が無言のままに、彼女への忠誠と感謝とを語っていた。
そして水上は、古今堂まで志乃を送り届けてくれた。
彼は、確保した二つの神器を、神宮文庫の最も安全な場所に再び封印したと語った。
「あなたの力がなければ、我々は皆、あの山で命を落としていました。本当に、ありがとうございました」と、彼は言った。
「しばらくは何事もないでしょう。ですが、もし再びあなたの力が必要になった時は…」
「はい」志乃は、彼の言葉を遮るように穏やかに頷いた。「その時は、また」
古今堂の格子戸を開けた時、帳場で算盤を弾いていた父、宗一郎が顔を上げた。
彼の顔には、驚きと、安堵と、そして積もり積もった怒りで、ぐしゃぐしゃになった。
「…しの…志乃!」
父は、椅子から転げ落ちるように立ち上がると、娘の元へ駆け寄った。
そして、娘の両肩を掴むと、これ以上ないというほど、こっぴどく叱りつけた。
一人で危険な場所へ行ったこと、何日も連絡ひとつよこさなかったこと、そして、どれほど自分が心配で、夜も眠れなかったかということ。
しかし、その怒りの言葉は次第に嗚咽に変わっていった。
「…馬鹿、もんが…! よく…よく、無事で…!」
宗一郎は、娘を、子供にするように、強く、強く抱きしめた。
その背中が、小刻みに震えている。
志乃は、父の温かい胸の中で、ようやく自分が本当の日常へ帰ってきたのだと実感し、こらえていた涙をとめどなく流した。
——そして、今。
志乃は、磨き上げた小皿を元の場所へと戻した。
父は帳場で、相変わらず難しい顔で、仕入れたばかりの掛軸を検分している。
いつもの古今堂の午後だ。
だが志乃には、もう世界が以前と同じには見えていなかった。
彼女の目には、店に並ぶ品々が放つ、微かな『気』が見えるようになっていた。
長い年月を経てきた品が持つ、穏やかな光。
持ち主の情念が染み付いた品が放つ、澱んだ影。
彼女の『鎮めの力』は、もはや神器に対してだけでなく、この世の全てのモノが持つ、声なき声を聞くための力となっていた。
からん、と。
店の格子戸が開き、一人の客が入ってきた。
「ごめんください。少し、変わったものを買い取っていただきたいのですが…」
志乃は、布巾を置くと、静かに立ち上がった。
「はい、いらっしゃいませ」
彼女の穏やかな微笑みは、以前と何も変わらない。
しかし、その瞳の奥には、どんな珍品奇品が持ち込まれようとも、決して動じることのない、巫女としての、深く、静かな輝きが宿っていた。
神阪志乃の、不思議な物語は、まだ始まったばかりである。
毎日新聞社の編集局は、インクと煙草、そして人いきれの匂いで満ちていた。
鳴り響く電話のベル、けたたましいタイプライターの打鍵音、そして怒号に近い編集者たちの声。
岸馬進は、その喧騒の只中にある自分の席で、山と積まれた資料と、吸い殻で溢れた灰皿を前に、一本の万年筆を握りしめていた。
彼の目の前には、数日かけて書き上げた原稿の束があった。
タイトルは、『帝都の闇に蠢く影、日鎮ヶ岳に消ゆ』。
それは、記者生命を賭けても余りある、あまりにも荒唐無稽な物語であった。
古物屋に持ち込まれた一つの石。
謎の考古学者と、国粋主義の秘密結社『玄洋会』。
神代の昔から続くという巫女の血筋。
そして、長野県の山頂で起きた、人ならざるモノとの死闘と、奇跡。
水上と、そして古今堂の神阪親子から聞かされた話を、彼は一つの記事としてまとめ上げたのだ。
「…馬鹿げてる、か」
岸馬は自嘲気味に呟くと、その原稿を手に編集長室の扉を叩いた。
編集長の長谷川は、岸馬の原稿に目を通すうちに、そのしかめ面をますます険しいものにしていった。
やがて原稿を机の上に放り出すと、心底呆れ果てたという口調で言った。
「岸馬、お前、少し休みを取れ。疲れてるんだ」
「ですが長谷川さん、これは…」
「にべもないが、公表は出来ん内容だな」長谷川は、岸馬の言葉を遮った。「確かに、オカルトや心霊学は今の流行りだ。だが、『ヨモツシコメ』だぁ? これは新聞記事じゃねえ、三文小説だ。それに陸軍が絡んでるだと? こんな記事を出してみろ。明日には俺もお前も、帝都から消えてなくなるぞ」
正論であった。
岸馬は、ぐうの音も出ずに編集長室を後にした。
自席に戻り、再び煙草に火をつける。
記事にすることは、初めから無理だと分かっていた。
だが、書かずにはいられなかった。
あの少女が、そして友人が巻き込まれた事件の、あまりに巨大な真相を、自分一人で抱え込むには荷が重すぎたのだ。
彼の脳裏に、水上から伝え聞いた、あの山頂での出来事が蘇る。
彼が最も引っかかっていたのは、あの黒い怪異が、最後に告げたという言葉であった。
『その器、我らが主に捧げよ!』
『器』とは、志乃のことだろう。
だが、『我らが主』とは、一体誰を指すのか。
ヨモツシコメですら、誰かに仕える下僕に過ぎなかったというのか。
海龍光太郎という柱を失い、手勢も瓦解した。
だが、玄洋会という組織そのものが、完全に消滅したわけではない。
そしてその背後には、ヨモツシコメですら『主』と呼ぶ、さらに巨大な、得体の知れない何かが、今もなお帝都の闇に潜んでいる。
全ては、まだ何も終わってはいない。
岸馬は、書き上げた原稿の束を、丁寧に引き出しの奥にしまい込むと、鍵をかけた。
これは、いつか来るべき時のために、自分が残しておくべき真実の記録だ。
彼は、新しい紙をタイプライターに差し込むと、煙草の煙を吐き出しながら、別の、もっとありふれた事件の記事を書き始めた。
帝都の喧騒は変わらない。
人々の日常は続いていく。
今はまだ、それでいい。
だが、岸馬は知っていた。
この平和な日常の、ほんの薄皮一枚下で、神代の昔から続く巨大な闇が、再び動き出すのを静かに待ち続けているということを。
<了>




