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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 海龍かいりゅうのその指が、志乃しのの肩に触れようとした、まさにその瞬間であった。


「——ぬんっ!」


 それまでやしろの入口近くで、影と一体化していたいさおが音もなく動いた。

 その巨躯きょたいは、まるでやみそのものが意思を持ったかのように、信じられないほどの速さで海龍の死角しかくに滑り込む。

 そして、志乃に伸ばされた彼の腕を、万力まんりきのような手でつかみ、ありえない角度へとねじげた。


「ぐ、あああああっ!?」


 海龍の口から、驚愕きょうがくと苦痛に満ちた悲鳴が上がる。

 何の予兆よちょうも前触れもなかった。

 不意に訪れた、巨躯からもたらされた圧倒的な力が、彼の腕を破壊したのだ。

 あまりの激痛に、海龍の手から『陽霊ようれいの玉』が滑り落ちていった。

 力を失い、赤黒い光を放つ宝玉が、乾いた音を立てて社の板張りの床を転がっていく。


 作戦は成功した。


 水上は、その千載一遇せんざいいちぐう好機こうきを見逃さなかった。

 巌が海龍の動きを封じた、その瞬間、社の入口近くの、もう一方の影から飛び出した。

 床を転がる『陽霊の玉』はあるじを失い、その赤黒い光を周囲にらしている。

 常人ならば、その禍々(まがまが)しいに触れただけでも正気を失うであろう。


 しかし、水上はためらわなかった。

 彼はふところから、幾重いくえにも折り畳まれた、古びた紫色の布を取り出した。

 それは帝都ていと神宮文庫じんぐうぶんこで、和泉いずみ神器じんぎを扱う際に使っている、特別な絹布けんぷであった。


 水上は、その布で自らの手を覆うと、床を転がる宝玉を、素早く正確に掴み取った。


 じゅっ、と。

 肉の焼けるような音がした。

 布越しであるにも関わらず、神器が放つ強烈な気が、水上のてのひらを焼く。

 しかし顔色一つ変えず、その布で玉を幾重にも、固く、固く包み込んでいく。


 布に包まれた『陽霊の玉』から放たれていた、焼けるような禍々しい気配が、急速に和らいでいく。

 やがてそれは沈黙し、ずしりとした重い手応えだけが、その手の上に残った。


 神器は確保された。


 腕を折られ、巌に地面に押さえつけられた海龍が、信じられないものを見るような目で見つめていた。

 勝敗は決した。

 誰もがそう思った。


 だが、海龍が唖然あぜんとするのも束の間、不意にその喉の奥から、くつくつと押し殺したような笑い声を漏らし始めた。

 それは、この極限の状況にはあまりに不釣り合いな、余裕に満ちたあざけりであった。


「…よもや、ここまでの抵抗を見せてくれるとはな!」


 海龍は、折られた腕の痛みなど感じていないかのように、腹の底から笑いだした。

 その狂気きょうきじみた様子に、一行は息を呑む。


脆弱ぜいじゃくな人間共め、ほどを教えてくれる!」


 その声は、もはや海龍のものではなかった。

 それは、いくつもの声が重なり合ったような、人の喉からは決して発せられることのない、おぞましいものだった。


 次の瞬間、海龍を押さえつけていた巌が、驚愕に満ちた叫びを上げた。


「なっ…!?」


 海龍を掴む巌の手から、急に手応えが無くなったかと思うと、海龍の身体は、熱で溶ける蝋人形ろうにんぎょうのように形を失い始めたのだ。

 上質な背広も、その下の肉体も、区別なくどろりとした黒い液体へと変わり、まるでアスファルトを煮詰めたような強烈な異臭いしゅうを放ち始めた。


「だめだ!」水上が叫んだ。「離れろ、巌殿!」


 巌は咄嗟とっさに、後方へと退いた。

 彼が押さえつけていた場所には、もはや人の形をしたものはなく、ただ不定形ふていけいうごめく、黒い影のようなかたまりがあるだけであった。

 その塊は、ぬらりぬらりと脈動みゃくどうしながら、邪悪な気…『邪気じゃき』を、まるで瘴気しょうきのように周囲に撒き散らした。

 それは、魂を凍らせるかのような悪意の塊であった。


 志乃はその邪気に当てられ、立っていることもできずに、その場に膝をついた。

 恐ろしい、という感情ではない。

 彼女の持つ清浄せいじょうな『しずめの力』が、その対極たいきょくにある存在を前にして、激しい拒絶きょぜつを引き起こしているのだ。

 身体中の血が逆流するかのような、そんな耐え難い不快感。


 黒い塊は、ゆっくりとその形を変え、再び人の上半身のようなものを形作った。

 だが、その顔にはもはや目も鼻もなく、ただ、裂けたような口だけが、三日月みかづきのようにゆがんでいる。


「…見つけたり…斎部いんべすえよ…」


 その声は山頂の冷たい風に乗り、一行の魂に直接語りかけてきた。


「そのうつわ、我らがあるじささげよ!」


 その次の瞬間、人型をした黒い塊が、まるで夕闇に伸びる影のように、ぐにゃりと上方に伸び上がった。

 その人ならざるモノは、二本の腕をありえないほど長く伸ばし、逃げ場をふさぐかのように、その異形いぎょうを揺らめかせていた。


 そんな時、こつり、と音を立て、硬い何かが床に落ちる。

 それは、事の始まりとなった、あの『しずめの石』であった。


 黒い影は、何かを仕掛けてくるでもなく、ただその場で、自らの異様な姿を見せつけるかのように立っている。

 その裂けた口からは、人の声ではあり得ない、不気味な風鳴りの音だけが漏れ聞こえていた。


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