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海龍のその指が、志乃の肩に触れようとした、まさにその瞬間であった。
「——ぬんっ!」
それまで社の入口近くで、影と一体化していた巌が音もなく動いた。
その巨躯は、まるで闇そのものが意思を持ったかのように、信じられないほどの速さで海龍の死角に滑り込む。
そして、志乃に伸ばされた彼の腕を、万力のような手で掴み、ありえない角度へと捻り上げた。
「ぐ、あああああっ!?」
海龍の口から、驚愕と苦痛に満ちた悲鳴が上がる。
何の予兆も前触れもなかった。
不意に訪れた、巨躯からもたらされた圧倒的な力が、彼の腕を破壊したのだ。
あまりの激痛に、海龍の手から『陽霊の玉』が滑り落ちていった。
力を失い、赤黒い光を放つ宝玉が、乾いた音を立てて社の板張りの床を転がっていく。
作戦は成功した。
水上は、その千載一遇の好機を見逃さなかった。
巌が海龍の動きを封じた、その瞬間、社の入口近くの、もう一方の影から飛び出した。
床を転がる『陽霊の玉』は主を失い、その赤黒い光を周囲に撒き散らしている。
常人ならば、その禍々しい気に触れただけでも正気を失うであろう。
しかし、水上はためらわなかった。
彼は懐から、幾重にも折り畳まれた、古びた紫色の布を取り出した。
それは帝都の神宮文庫で、和泉が神器を扱う際に使っている、特別な絹布であった。
水上は、その布で自らの手を覆うと、床を転がる宝玉を、素早く正確に掴み取った。
じゅっ、と。
肉の焼けるような音がした。
布越しであるにも関わらず、神器が放つ強烈な気が、水上の掌を焼く。
しかし顔色一つ変えず、その布で玉を幾重にも、固く、固く包み込んでいく。
布に包まれた『陽霊の玉』から放たれていた、焼けるような禍々しい気配が、急速に和らいでいく。
やがてそれは沈黙し、ずしりとした重い手応えだけが、その手の上に残った。
神器は確保された。
腕を折られ、巌に地面に押さえつけられた海龍が、信じられないものを見るような目で見つめていた。
勝敗は決した。
誰もがそう思った。
だが、海龍が唖然とするのも束の間、不意にその喉の奥から、くつくつと押し殺したような笑い声を漏らし始めた。
それは、この極限の状況にはあまりに不釣り合いな、余裕に満ちた嘲りであった。
「…よもや、ここまでの抵抗を見せてくれるとはな!」
海龍は、折られた腕の痛みなど感じていないかのように、腹の底から笑いだした。
その狂気じみた様子に、一行は息を呑む。
「脆弱な人間共め、身の程を教えてくれる!」
その声は、もはや海龍のものではなかった。
それは、いくつもの声が重なり合ったような、人の喉からは決して発せられることのない、おぞましいものだった。
次の瞬間、海龍を押さえつけていた巌が、驚愕に満ちた叫びを上げた。
「なっ…!?」
海龍を掴む巌の手から、急に手応えが無くなったかと思うと、海龍の身体は、熱で溶ける蝋人形のように形を失い始めたのだ。
上質な背広も、その下の肉体も、区別なくどろりとした黒い液体へと変わり、まるでアスファルトを煮詰めたような強烈な異臭を放ち始めた。
「だめだ!」水上が叫んだ。「離れろ、巌殿!」
巌は咄嗟に、後方へと飛び退いた。
彼が押さえつけていた場所には、もはや人の形をしたものはなく、ただ不定形に蠢く、黒い影のような塊があるだけであった。
その塊は、ぬらりぬらりと脈動しながら、邪悪な気…『邪気』を、まるで瘴気のように周囲に撒き散らした。
それは、魂を凍らせるかのような悪意の塊であった。
志乃はその邪気に当てられ、立っていることもできずに、その場に膝をついた。
恐ろしい、という感情ではない。
彼女の持つ清浄な『鎮めの力』が、その対極にある存在を前にして、激しい拒絶を引き起こしているのだ。
身体中の血が逆流するかのような、そんな耐え難い不快感。
黒い塊は、ゆっくりとその形を変え、再び人の上半身のようなものを形作った。
だが、その顔にはもはや目も鼻もなく、ただ、裂けたような口だけが、三日月のように歪んでいる。
「…見つけたり…斎部の裔よ…」
その声は山頂の冷たい風に乗り、一行の魂に直接語りかけてきた。
「その器、我らが主に捧げよ!」
その次の瞬間、人型をした黒い塊が、まるで夕闇に伸びる影のように、ぐにゃりと上方に伸び上がった。
その人ならざるモノは、二本の腕をありえないほど長く伸ばし、逃げ場を塞ぐかのように、その異形を揺らめかせていた。
そんな時、こつり、と音を立て、硬い何かが床に落ちる。
それは、事の始まりとなった、あの『鎮めの石』であった。
黒い影は、何かを仕掛けてくるでもなく、ただその場で、自らの異様な姿を見せつけるかのように立っている。
その裂けた口からは、人の声ではあり得ない、不気味な風鳴りの音だけが漏れ聞こえていた。




