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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 長い夜が明けた。

 東の空が白み、雲海の下から荘厳そうごんなご来光らいこうが射し始めると、山頂一帯は黄金色の光に包まれた。

 やしろ結界けっかいは、その夜の間に少しずつ力を失ってはいたが、陽の光を浴びたとたんに力強い輝きを取り戻し始める。

 やがて山頂一帯は、以前にも増して清浄せいじょうで、おかしがたい神聖な気が満ちていった。


 一行は社の中で、最後の作戦会議を開いていた。


「我々の目的は、ただ玄洋会げんようかい撃退げきたいすることではありません」水上は、三人の顔を順に見渡し、低い声で言った。「海龍光太郎かいりゅうこうたろうの手にある『陽霊ようれいの玉』を奪還だっかんし、再びこの社に、あるいは我々の手で正しく封印することです。そのためには、ただ守るだけでは不十分。彼を、我々の土俵どひょうに引きずり込まねばなりません」


 水上は、社の中心に座す志乃しのに視線を移した。


「海龍の目的は、『陽霊の玉』の力を完全に引き出すこと。そのためには、志乃さん、あなたの力が必要不可欠です。彼は、あなたを決して殺しはしない。むしろ、無傷で手に入れようとするでしょう。…その心理を、利用します」


「なりません!」


 水上の言葉をさえぎったのは、いさおの、怒りに満ちた声であった。


「志乃殿をおとりにするなど、この巌、命に代えても承知できん!」


「巌さん、お気持ちは分かります」志乃は、激昂げきこうする巌を、穏やかな声で制した。「ですが、水上さんの策はかなっていると、私も思います。私が無防備にここにいれば、海龍は必ず私を捕らえようと、自ら近づいてくるはずです。それこそが、彼から『陽霊の玉』を奪う、唯一の好機こうきなのではありませんか」


「しかし!」


「巌殿」水上が巌の目を真っ直ぐに見つめた。「あなたの役目は、これまでと何ら変わりません。志乃殿を守ることです。ただし、仁王立におうだちで敵を待つのではない。影となり、息を殺し、敵が最も油断した瞬間に、その動きを封じるのです。海龍が志乃殿に手をかけようとした、その一瞬。その時こそ、あなたが動くべき時。あなたならば必ずやれるはずです」


 巌は、志乃の覚悟に満ちた瞳と、水上の絶対的な信頼を込めた視線を受け、悔しそうに、深く、深く頷いた。

 彼の役目は単なるたてではない。

 志乃を信じ、好機を待ち、敵を制するための、最後の一撃となることであった。


 作戦は定まった。


 源兵衛げんべえは、社の屋根の最も高い場所に、わしのように身を潜めた。

 彼の役目は、まじないの罠が作動したことを合図し、そして海龍のともとしてついてくるであろう部下たちを、殺さぬ程度に無力化むりょくかすることにあった。


 水上は、社の入り口の影、巌とは反対側に身を潜めた。

 彼の役目は、巌が海龍を食い止めている隙に『陽霊の玉』を奪取だっしゅすること。


 巌は、社の入り口の、深い影の中に、その巨体きょたいを完全に溶け込ませていた。

 ただ息を殺し、その一瞬の好機だけを待ち続ける。


 そして志乃は、社の中心、円形のくぼみの前に、ただ一人静かに正座した。

 彼女は、ふところから八坂翁やさかおきな護符ごふを取り出し、それを固く握りしめると、静かに瞳を閉じた。

 彼女は無防備な巫女みこを演じる、この作戦の最も重要なこまであった。


 配置は完了した。

 山頂には、張り詰めた静寂が満ちていた。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 陽が完全に昇り、雲海が黄金色に輝き始めた、その時であった。


 静寂を破ったのは、遥か下の道筋から「うわっ!」「何だこれは!?」という男たちの動揺した声と、短い罵声ばせいだった。


 源兵衛が、社の屋根の上から静かに手で合図を送る。

 彼が仕掛けた『まじないの縄』に敵がかかったのだ。


 来た。


 一行は息を殺し、それぞれの持ち場で、静かにその姿が現れるのを待ち構えていた。


 しばらくして、最後の岩場を登ってくる数人の人影が見えた。

 しかし、その足取りは精鋭せいえいとは思えぬほど乱れていた。

 先頭の男が、何もない場所で突然つまづき、仲間をののしり始める。

 別の男は、絶えず背後を振り返り、何かに怯えているかのようだ。

 源兵衛の『まじない』は言い伝え通り、人の心の弱みにつけ込み、仲間を敵と見誤らせる恐ろしい効果を発揮していた。


 やがてその男たちが、志乃が作り上げた目には見えぬ結界の前にたどり着く。

 彼らは、そこに壁があることにも気づかず、無造作に足を踏み入れようとした。


 その瞬間、ばちん! と、火花が散るような音と共に、男たちはまるで透明な何かに渾身こんしんの力で殴りつけられたかのように、激しく後方へとはじき飛ばされた。


「ぐあっ!」「な、なんだこれは!?」


 混乱する部下たちの後ろから、ゆっくりと、一人の男が姿を現した。

 衣服はところどころ破れ、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。

 海龍光太郎であった。

 彼のその手には、かつて神々しいまでの光を放っていたはずの『陽霊の玉』が握られていた。

 しかしその輝きは、今や弱々しい赤黒い光を明滅させているだけであった。


 彼はこの神域の清浄な気に、そのけがれた身を拒まれ続けたのだろう。

 そして、手に持つ『陽霊の玉』の荒ぶる力もまた、この山の気と激しく反発し合ったに違いない。

 その抵抗にあらがい、ここまで登ってくるだけで、神器じんぎの力は、ほとんど使い果たされてしまっていたのだ。


「…小娘が」


 海龍は忌々(いまいま)しげに吐き捨てると、その弱々しく光る『陽霊の玉』を両手で掲げた。


「ぬんんんんん!」


 彼の全身全霊の気合と共に、玉から赤黒い光の奔流ほんりゅうがほとばしる。

 それは志乃が作り上げた結界に突き刺さり、ガラスにひびが入るような嫌な音を立て、その一点を、じりじりと溶かし始めた。


 やがて、人が一人ようやく通れるだけの穴が結界に穿うがたれた。

 海龍は、よろめきながらもその穴を通り抜け、社の境内けいだいへと足を踏み入れた。

 背後から、部下たちが慌てて続こうとするが、彼らが穴に触れた瞬間、再び激しい衝撃と共に弾き飛ばされる。

 弱まった『陽霊の玉』の力では、海龍一人を通すのが限界だったのだ。


「…役立たずどもめが」


 海龍は、結界の外でうめきを上げる部下たちを一瞥いちべつすると、目的地である社の中心へと視線を移した。


 志乃の策は成功した。

 敵の戦力は完全に分断され、大将である海龍光太郎は、その切り札である神器の力を消耗しきった状態で、ただ一人、自ら虎の口へと飛び込んできたのだ。


 海龍は、ぜえぜえと荒い息をつきながら、社の中心で静かに祈りを続ける志乃の姿を、憎悪ぞうお独占欲どくせんよくに満ちた目で見据えた。


「…ようやく、見つけたぞ。『鎮めの乙女』…」


 海龍が、志乃に向かってゆっくりと、確かな足取りで、その手を伸ばしながら近づいてくる。


 五歩、四歩、三歩…。


 巌は、全身の筋肉を極限まで引き絞り、その一瞬の好機だけを、ただひたすらに待ち続けていた。


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