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一行は、眼下で無駄な努力を続ける玄洋会の男たちを一瞥すると、彼らに背を向け、神域の入り口である注連縄の前に立った。
その瞬間、森の空気がこれまでとは比べ物にならないほど清浄で、厳粛なものに変わったのを誰もが肌で感じていた。
風は止み、鳥の声も聞こえない。
ただそこにあるのは、数千年の時を重ねた、巨大で静かな生命の気配だけであった。
先頭に立っていた源兵衛が足を止めた。
彼の猟師としての本能が、この先へはこれまでと同じやり方では進めないと告げている。
水上も、学者としての知識が全く役に立たないことを悟り、ただ固唾をのんで佇んでいる。
巌は志乃の前に立ち、その巨体で盾となりながら、見えざる敵に対して全身の神経を研ぎ澄ませていた。
その三人の男たちの前に、志乃が静かに進み出た。
彼女は、もはや誰かの後ろに隠れる少女ではなかった。
「私が先に参ります」
その声には、不思議なほどの落ち着きと、覚悟がこもっていた。
彼女は、注連縄の前で一度深く頭を下げると、ゆっくりと神域へとその一歩を踏み出した。
そして目を閉じ、自らの内に満ちる『鎮めの力』を、そっと解き放った。
それは何かを攻撃したり、ねじ伏せたりするための力ではない。
彼女はただ心の中で、この地に古くから住まう者たちに、敬意を込めて語りかけた。
(…お静まりください。私たちは、あなた方の眠りを妨げに来たのではありません。この山を汚し、乱そうとする者たちから、あなた方をお守りするために参りました。どうか、私たちに道をお示しください…)
彼女の祈りは、祝詞でも呪文でもなかった。
ただ純粋で、偽りのない心からの願いであった。
すると信じられないことが起こった。
それまで一行の行く手を阻むかのように、複雑に絡み合っていた木々の枝が、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと静かにその空間を広げ始めたのだ。
行く手を示すかのように木漏れ日が差し込み、苔むした岩の上に一筋の光の道筋を描き出す。
これまで感じていた人を寄せ付けない厳かな空気は、じっとこちらを見守っているような、敵意のない穏やかな気配へと変わっていた。
「……道が」水上が、かすれた声で呟いた。「道が、開いていく…」
源兵衛はその光景を、ただ呆然と見つめていた。
長年、この山を己の庭のように歩き回ってきた彼ですら、このような奇跡は見たことも聞いたこともなかった。
山の主が、この娘のために自ら道を開いている。
志乃はその光の道筋を、一歩、また一歩と迷いなく進んでいく。
彼女の歩みに合わせるように、森は静かにその表情を変え、一行をその最も神聖な懐へと招き入れていくかのようであった。
巌は、そんな志乃の背中をこれまで以上に固い決意の眼差しで見守っていた。
この乙女は、もはや自分が守るべき、か弱い存在ではない。
自分たち一行を、あるいはこの山そのものを導く、尊い巫女なのだ。
一行は志乃を先頭に、神域の奥深くへと進んでいった。
夕暮れの光が、まるで後光のように木々の合間から差し入って、志乃の姿を照らし出していた。
やがて陽が沈み、空が深い藍色に染まる頃には、一行は日鎮ヶ岳の九合目にまで達していた。
眼下には雲海が広がり、遠くの山々の頂だけが、まるで大海に浮かぶ島のように、その黒い影を浮かび上がらせている。
空気は薄く、肌を刺すように冷たい。
しかし、不思議と寒さは感じなかった。
この神域全体が、穏やかで清浄な気に満ちているからであろうか。
「…見えます」
志乃が、前方を指差した。
最後の険しい岩場を登り切った、その先。
日鎮ヶ岳の山頂、天空に最も近いその場所に、一つの社が、静謐ながらも絶大な存在感を放っていた。
それは、志乃が幻視で見た神邑にあった社と、驚くほどよく似ていた。
しかし明らかに違う。
村の社が人の手による、素朴ながらも温かみのある造りだったのに対し、この社は、まるでこの山そのものから直接削り出されたかのような、神々しいまでの威厳と、人を寄せ付けぬ絶対的な孤独を纏っていた。
風雨に晒され、その木肌は白く古びてはいるが、少しの歪みもなく、天に向かって真っ直ぐに伸びる千木と、規則正しく並んだ鰹木。
源兵衛が語った「神様ご自身が作った」という言い伝えが、真実であると誰もが信じざるを得なかった。
一行は、そのあまりに神々しい光景に、言葉を失った。
志乃は息を呑んでその社を見つめた。
(ここが…)
彼女の心の中で、これまでの全ての出来事が、一つの問いとなって浮かび上がった。
(三十年前、海龍光太郎が目指したのは、この場所だったの? 水上さんが言っていた、私のご先祖様が大いなる力を封印したという伝説の舞台は、本当にここなの…? もしそうなら、ここが全ての始まりであり、そして全ての終わりとなる場所なのかもしれない…)
彼女は、自分たちがついに、運命の岐路に立ってしまったのだと、その肌で感じていた。
社には、扉がなかった。
がらんとした内部は、月の光も届かず、深い闇に包まれている。
水上は、背負っていた荷物の中から、真鍮製のカーバイトランプを取り出す。水を注ぎ、バルブを捻ると、アセチレンガス特有の鼻を突くような匂いが漂った。
カチッ、と着火装置を鳴らすと、眩しいほどの白い光が闇を切り裂き、社の内部を隅々まで照らし出した。
そこは、祭壇も、御神体もない、ただの空洞であった。
しかし、その床の中央には、茶碗ほどの大きさの、円形の窪みが一つだけ穿たれていた。
その窪みは、まるで何かをそこに置くために作られたかのように滑らかで、そして吸い込まれるような闇の色をしていた。
「…あそこだ」水上が、かすれた声で呟いた。「おそらくは、玄洋会が『陽霊の玉』と、我々が持っていた『鎮めの石』、そして…志乃さんを揃え、儀式を行おうとしていた場所なのでしょう…」
「奴らがここへ来る前に、手を打たねばならん」源兵衛は、その手の猟銃を固く握りしめた。「この神聖な場所を、奴らの血で穢すわけにはいかん。じゃが、ここから先は一歩たりとも進ませるわけにもいかん。追い出すぞ」
巌は何も言わず、社の周囲を検分し始めた。
切り立った崖、身を隠すのに適した岩陰、そして敵が登ってくるであろう唯一の道筋。
彼の頭の中では、すでに籠城戦の策が練られ始めていた。
「しかし」水上は、一同の顔を見渡し冷静に言った。「奴らが我々のように、この神域をたやすく通れるとは思えません。我々には志乃さんがいた。奴らには、それがない。麓で足止めされていた彼らが、この山頂にたどり着くには、少なくとも丸一日かそれ以上はかかるでしょう。我々には時間がある。ここで彼らを待ち受け、万全の態勢を整える時間です」
水上の言葉は、逸る仲間たちの心を落ち着かせた。
そうだ、焦る必要はない。
自分たちには、地の利と時間という、何物にも代えがたい優位があるのだ。
夜が更け、冷たい風が山頂を吹き抜ける。
一行は、社の中で小さな焚き火を起こし、束の間の休息を取りながら、これから始まる最後の戦いのための、策を練り始めた。




