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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 志乃しのの示した地図にはない道。

 それは、玄洋会げんようかいとの絶望的な時間差をくつがえす希望を与えた。

 源兵衛げんべえですら半信半疑はんしんはんぎであったその道を、一行は、志乃の不思議な確信だけを頼りに進んでいった。


「…こっちです」


 志乃は、鬱蒼うっそうとした木々が壁のようにそそり立つ、一見行き止まりにしか見えない場所を指差した。

 彼女の目には、他の者には見えないかすかな光の道筋が見えているかのようだった。


 先頭に立った源兵衛が、志乃の指差す場所の灌木かんぼくなたで切り払うと、その奥に、こけむした岩に覆われた僅かな隙間が姿を現した。

 それは屈強くっきょういさお巨体きょたいでも、荷物を降ろせばなんとか通り抜けられるだけの、獣道けものみちとも呼べぬほどの狭い道であった。


「…信じられん」源兵衛が驚嘆きょうたんの声を漏らした。「こんな抜け道、この山で五十年、猟師をやってきたわしですら知らんかったぞ」


 その道は確かに最短ルートであったが、決して楽な道ではなかった。

 急峻きゅうしゅんな崖を木の根をつかんで登り、人一人分の幅しかない、谷底を望む岩棚いわだなを慎重に渡る。

 志乃は、巌から教わった身のこなしと、自らの持つ不思議な感覚を頼りに、一歩一歩、確実に進んでいった。

 彼女の心は、もはや恐怖とは無縁であった。

 ただ、この山が示してくれる道筋を信じるだけだった。


 水上は、そんな志乃の様子を驚きをもって観察していた。

 彼女はただ、道を「見て」いるのではない。

 まるでこの山の呼吸そのものと一体になり、最も自然に力が流れる場所を、肌で感じ取っているかのようだった。


 陽が傾き、一行が日鎮ヶ岳(ひずめがたけ)の七合目あたりまで到達した頃、それまで一行を導いていた、志乃の心にある光の道筋が不意に途切れた。

 目の前には二本の巨大な杉の古木が門のようにそそり立ち、その間には、風雨にさらされて、ほとんどちかけた注連縄しめなわが張られていた。


「…ここから先が、神域しんいきじゃ」


 源兵衛が畏敬いけいの念を込めてつぶやいた。

 ここが人と、人ならぬものとの境界線なのだ。

 これまでの険しい山道とは明らかに違う、清浄で人を寄せ付けないおごそかな空気が、一行を包み込んだ。


 志乃は、その張り詰めた空気の中で、ふと眉をひそめた。


「…何か…嫌な感じがします。あちら…この崖の下の方から、誰かの強い憎しみや、焦りのような…乱れた心の気配が…」


 その言葉に一行の緊張が一気に高まる。

 源兵衛と巌が、反射的に志乃の前にふさがり、その身をたてとした。


「玄洋会じゃ」源兵衛が吐き捨てるように言った。「奴らめ、やはりこの山に入り込んどったか」


 水上はふところから小さな望遠鏡を取り出すと、慎重に崖の下をのぞんだ。

 しばらくして彼は低い声で言った。


「…見えました。我々がいる場所から、三百メートルほど下の岩壁の下です。焚き火の跡があり、数人の人影が… 間違いない、玄洋会の連中です。どうやら彼らは、麓から続く古い道を辿たどったものの、三十年前の土砂崩れで行き止まりになった場所から動けず、往生おうじょうしているようです」


 敵はまだ、山頂のやしろには到達していない。

 志乃の奇跡的な道案内がなければ、ここまで追いつくことはできなかっただろう。

 だが、本当の戦いはこれからだ。

 玄洋会は、三十年前に手に入れた『陽霊ようれいの玉』をたずさえ、山頂の社を目指しているに違いない。

 水上は、あの社こそが『陽霊の玉』に秘められた真の力を解放するための、唯一の場所なのだと推測していた。

 玄洋会の目論見もくろみを阻止し、神器じんぎを奪い返すには、今この時をおいて他にはないだろう。


 水上、源兵衛、そして巌は、眼下にいる玄洋会の男たちを、息を殺して見つめていた。

 どうするべきか。

 ここで奇襲きしゅうをかけるか、それともやり過ごすか。

 三人の男たちは、突如とつじょとしておとずれた好機に逡巡しゅんじゅんしていた。


 その沈黙を破ったのは、志乃の静かでりんとした声であった。


「皆様」


 彼女は眼下の敵ではなく、その遥か先、夕闇にそびえる日鎮ヶ岳の山頂を見つめていた。


「玄洋会の方たちは、この神域に入れずにいるようです。おそらくは山の主が、彼らのけがれた心を拒んでいるのでしょう。ですが、私たちには道があります。私が皆様を山頂までお連れできます」


 彼女はそこで一度言葉を切ると、仲間たちに向き直った。


「ここで彼らと戦うのは得策とくさくではありません。それよりも、彼らがこの場所で足止めされている間に、私たちはさきんじて山頂の社に辿たどくべきです。そして相手よりも有利な場所で、彼らを待ち受けるのが良いでしょう」


 その言葉に、三人の男たちは息を呑んだ。

 それはただ闇雲やみくもに戦うのではない。

 敵の弱点を突き、自分たちの利を最大限に活かす、かなった策であった。


「……は、はは」最初に沈黙を破ったのは源兵衛の乾いた笑い声だった。「こいつは驚いた。そうだ、その通りだ。獲物えものわなにかかっている時に、わざわざ同じ土俵どひょうで戦う馬鹿がおるか。高みから静かに待ち構えるのが猟の作法さほうよ」


 水上も興奮を隠しきれない様子でうなずいた。


「…素晴らしい。まだ山頂の社が、どのような場所かは分かりませんが、我々が先に着けば、敵に対して圧倒的な主導権しゅどうけんが得られるのは間違いないでしょう!」


 巌は何も言わなかった。

 ただ、志乃の前に進み出ると深く頭を下げた。

 それは絶対的な信頼の証であった。


「決まりですな」水上は一行の顔を見渡した。「参りましょう。我々の最後の戦いの舞台へ」


 一行は、眼下で足掻あがき続ける玄洋会の男たちを一瞥いちべつすると、彼らに背を向け、神域の入り口である注連縄を静かにくぐった。

 その瞬間、森の空気がこれまでとは比べ物にならないほど清浄で、厳粛げんしゅくなものに変化したのを、誰もが肌で感じていた。


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