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志乃の示した地図にはない道。
それは、玄洋会との絶望的な時間差を覆す希望を与えた。
源兵衛ですら半信半疑であったその道を、一行は、志乃の不思議な確信だけを頼りに進んでいった。
「…こっちです」
志乃は、鬱蒼とした木々が壁のようにそそり立つ、一見行き止まりにしか見えない場所を指差した。
彼女の目には、他の者には見えない微かな光の道筋が見えているかのようだった。
先頭に立った源兵衛が、志乃の指差す場所の灌木を鉈で切り払うと、その奥に、苔むした岩に覆われた僅かな隙間が姿を現した。
それは屈強な巌の巨体でも、荷物を降ろせばなんとか通り抜けられるだけの、獣道とも呼べぬほどの狭い道であった。
「…信じられん」源兵衛が驚嘆の声を漏らした。「こんな抜け道、この山で五十年、猟師をやってきたわしですら知らんかったぞ」
その道は確かに最短ルートであったが、決して楽な道ではなかった。
急峻な崖を木の根を掴んで登り、人一人分の幅しかない、谷底を望む岩棚を慎重に渡る。
志乃は、巌から教わった身のこなしと、自らの持つ不思議な感覚を頼りに、一歩一歩、確実に進んでいった。
彼女の心は、もはや恐怖とは無縁であった。
ただ、この山が示してくれる道筋を信じるだけだった。
水上は、そんな志乃の様子を驚きをもって観察していた。
彼女はただ、道を「見て」いるのではない。
まるでこの山の呼吸そのものと一体になり、最も自然に力が流れる場所を、肌で感じ取っているかのようだった。
陽が傾き、一行が日鎮ヶ岳の七合目あたりまで到達した頃、それまで一行を導いていた、志乃の心にある光の道筋が不意に途切れた。
目の前には二本の巨大な杉の古木が門のようにそそり立ち、その間には、風雨に晒されて、ほとんど朽ちかけた注連縄が張られていた。
「…ここから先が、神域じゃ」
源兵衛が畏敬の念を込めて呟いた。
ここが人と、人ならぬものとの境界線なのだ。
これまでの険しい山道とは明らかに違う、清浄で人を寄せ付けない厳かな空気が、一行を包み込んだ。
志乃は、その張り詰めた空気の中で、ふと眉をひそめた。
「…何か…嫌な感じがします。あちら…この崖の下の方から、誰かの強い憎しみや、焦りのような…乱れた心の気配が…」
その言葉に一行の緊張が一気に高まる。
源兵衛と巌が、反射的に志乃の前に立ち塞がり、その身を盾とした。
「玄洋会じゃ」源兵衛が吐き捨てるように言った。「奴らめ、やはりこの山に入り込んどったか」
水上は懐から小さな望遠鏡を取り出すと、慎重に崖の下を覗き込んだ。
しばらくして彼は低い声で言った。
「…見えました。我々がいる場所から、三百メートルほど下の岩壁の下です。焚き火の跡があり、数人の人影が… 間違いない、玄洋会の連中です。どうやら彼らは、麓から続く古い道を辿ったものの、三十年前の土砂崩れで行き止まりになった場所から動けず、立ち往生しているようです」
敵はまだ、山頂の社には到達していない。
志乃の奇跡的な道案内がなければ、ここまで追いつくことはできなかっただろう。
だが、本当の戦いはこれからだ。
玄洋会は、三十年前に手に入れた『陽霊の玉』を携え、山頂の社を目指しているに違いない。
水上は、あの社こそが『陽霊の玉』に秘められた真の力を解放するための、唯一の場所なのだと推測していた。
玄洋会の目論見を阻止し、神器を奪い返すには、今この時をおいて他にはないだろう。
水上、源兵衛、そして巌は、眼下にいる玄洋会の男たちを、息を殺して見つめていた。
どうするべきか。
ここで奇襲をかけるか、それともやり過ごすか。
三人の男たちは、突如として訪れた好機に逡巡していた。
その沈黙を破ったのは、志乃の静かで凛とした声であった。
「皆様」
彼女は眼下の敵ではなく、その遥か先、夕闇にそびえる日鎮ヶ岳の山頂を見つめていた。
「玄洋会の方たちは、この神域に入れずにいるようです。おそらくは山の主が、彼らの穢れた心を拒んでいるのでしょう。ですが、私たちには道があります。私が皆様を山頂までお連れできます」
彼女はそこで一度言葉を切ると、仲間たちに向き直った。
「ここで彼らと戦うのは得策ではありません。それよりも、彼らがこの場所で足止めされている間に、私たちは先んじて山頂の社に辿り着くべきです。そして相手よりも有利な場所で、彼らを待ち受けるのが良いでしょう」
その言葉に、三人の男たちは息を呑んだ。
それはただ闇雲に戦うのではない。
敵の弱点を突き、自分たちの利を最大限に活かす、理に適った策であった。
「……は、はは」最初に沈黙を破ったのは源兵衛の乾いた笑い声だった。「こいつは驚いた。そうだ、その通りだ。獲物が罠にかかっている時に、わざわざ同じ土俵で戦う馬鹿がおるか。高みから静かに待ち構えるのが猟の作法よ」
水上も興奮を隠しきれない様子で頷いた。
「…素晴らしい。まだ山頂の社が、どのような場所かは分かりませんが、我々が先に着けば、敵に対して圧倒的な主導権が得られるのは間違いないでしょう!」
巌は何も言わなかった。
ただ、志乃の前に進み出ると深く頭を下げた。
それは絶対的な信頼の証であった。
「決まりですな」水上は一行の顔を見渡した。「参りましょう。我々の最後の戦いの舞台へ」
一行は、眼下で足掻き続ける玄洋会の男たちを一瞥すると、彼らに背を向け、神域の入り口である注連縄を静かにくぐった。
その瞬間、森の空気がこれまでとは比べ物にならないほど清浄で、厳粛なものに変化したのを、誰もが肌で感じていた。




