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一行は、日鎮ヶ岳の山頂を目指し、再び険しい道を進み始めた。
しかし、志乃は歩きながら、自分の身体に確かな変化が起きていることに気づいていた。
これまでは、ただ無意識のうちに発動したり、あるいは精神を集中させることで、かろうじて感じ取ることしかできなかった『鎮めの力』。
それが今、まるで呼吸をするかのように、ごく自然と身体の内と外を巡っているのが分かった。
森の木々が、風にざわめく音。
それはもはや、ただの音ではなかった。
それぞれの葉が擦れ合う音の違い、枝がしなる強さ、それら全てが、この道のりの先に繋がる天候の変化として、志乃は感じ取っていた。
地面を踏みしめる足の裏からは、土の湿り気や、その下に潜む岩の硬さだけでなく、遥か地中深くを流れる、巨大な地下水脈の脈動さえも感じ取れるようだった。
彼女の力は、もはやただ『鎮める』だけの力ではなくなっていたのだ。
それは、この山そのものと対話し、その声を聞き、未来を予見するための力へと確かな変貌を遂げていた。
しばらく進んだ先で源兵衛が不意に足を止めた。
目の前には、崖崩れで道が完全に寸断されている場所があった。
「…ちっ。いけねぇ。昨日の雨で崩れたか。こいつは大きく迂回せにゃならんな…」
源兵衛が苦々しく舌打ちをした、その時であった。
「源爺様、お待ちください」
志乃が静かに言った。
彼女は目を閉じ、じっとその場に佇んでいる。
「…大丈夫です。この崖の向こう、三十歩ほど先に大きな岩があります。その岩の根元は、人が一人、ようやく通れるだけの隙間が残っているはずです。そこを抜ければ元の道に戻れます」
その言葉に一行は息を呑んだ。
見えるはずのない崖の向こう側の光景を、まるで見てきたかのように語っているのだ。
源兵衛は半信半疑ながらも、志乃のその不思議な確信に満ちた瞳に何かを感じ取った。
「…分かった。お嬢ちゃんを信じよう」
一行は志乃が指し示した、一見ただの崖にしか見えない場所へと、慎重に進んでいった。
源兵衛を先頭に、危険な崖の縁を静かに回り込んでいく。
足元で小石がからからと音を立て、遥か下の谷底へと落ちていった。
そして、崖を回り込んだ先には、まさしく志乃の言葉通りの光景が広がっていた。
巨大な岩が、崖に寄りかかるようにして鎮座しており、その根元には、屈強な巌の巨体でも屈めば通り抜けられそうな、自然にできた隙間が黒い口を開けていた。
「……本当、だ」水上が感嘆の声を漏らした。「どうして、これが…」
源兵衛は何も言わなかった。
ただ、志乃の横顔を畏敬の念のこもった、これまでとは全く違う眼差しで見つめていた。
この娘はもはや、ただの斎部の末裔ではない。
この山そのものの声を聞き、その意思を代弁する、真の巫女なのだと、彼は悟っていた。
一行は、その岩の隙間を慎重に通り抜けた。
その先には、崖崩れの影響を受けていない、元の獣道が確かに続いていた。
もし志乃のこの力がなければ、半日以上かけて危険な迂回路を進まねばならなかっただろう。
志乃の新たな力は、玄洋会との絶望的な時間差を覆すための、唯一無二の武器となっていた。
それは、現代の地図でも長年の経験でもない、この山に愛された者だけが手にすることができる、奇跡の道標であった。




