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全ての希望が尽きかけた瞬間であった。
ごぽり、と小さくも澄み切った音が静寂を破った。
音の源は、一行がこれまで聖域として敬意を払っていた『巫女の泉』そのものであった。
泉の中心、水がこんこんと湧き出すその場所から、柔らかな金色の光が放たれ始めたのだ。
それは磐座が放つ青白い光とは対極の、どこまでも温かく慈愛に満ちた、大地の力そのものの輝きであった。
金色の光は、瞬く間に泉全体に広がった。
そして、水晶のように透き通っていたはずの水が、まるで溶かした黄金のように輝き始めると、まるで意思を持っているかのように、その縁から溢れ出した。
溢れ出した金色の水は、まるで生きているかのように、ゆっくりと地面を伝い、磐座が放つ禍々《まがまが》しい青白い光へと、吸い寄せられるように向かっていく。
金色の水が、磐座の表面に刻まれた縄文の文様に触れた瞬間、青白い光は、まるで浄化されたかのように、その輝きを失っていった。
それはこの土地そのものが持つ、数千年の清浄な力が、三十年分の魂の悲しみと怒りを優しく洗い流しているかのようであった。
そしてその金色の光は、苦悶する志乃の体にも到達した。
その瞬間、志乃の身体の中心からも、これまでとは比べ物にならないほどの、強い清らかな金色の光…彼女自身の『鎮めの力』が、泉の光に呼応するように溢れ出したのだ。
内外からの二つの金色の光が一つに溶け合うと、それは巨大な光の奔流となり、磐座の青白い光を完全に呑み込んでいった。
幻視の世界で、絶望の奔流に引き裂かれそうになっていた志乃の意識は、温かい光に包まれた。
(…大丈夫…もう、大丈夫ですよ…)
それは彼女自身の声であり、またこの山の、彼女の遥かなる祖先たちの声でもあった。
光は三十一人の魂たちの、凍てついた悲しみを優しく溶かしていく。
憎しみは赦しへ、絶望は安らぎへと、ゆっくりと変化していく。
やがて幻視の中にいた三十一人の魂たちは、志乃に向かって、一斉に深く、深く頭を下げた。
その顔からは、苦悶も悲しみも消え、ただ感謝と、安堵だけが浮かんでいた。
彼らの姿は光の粒子となって、この山の自然の中へと、静かに還っていった。
鎮魂は、終わった。
現実の世界では、全ての光が、まるで夜明けの霧が晴れるかのように、すうっと消えていった。
後には何事もなかったかのように、静かに水が湧き続ける、元の美しい泉の姿だけが残されていた。
ただ、先程までとは比べ物にならないほど、その場の空気は清浄で、そして穏やかな気に満ちている。
志乃の体は、ふわりと、まるで羽のように軽くなり、磐座の上からゆっくりと地面に横たわった。
「志乃殿!」
今度こそ、誰もそれを止めなかった。
巌が真っ先に駆け寄り、志乃の体を抱きかかえる。
水上と源兵衛も、慌ててそのそばに膝をついた。
志乃は、深く穏やかな寝息を立てていた。
顔からは青白さが消え、ほんのりと血の気が戻っている。
彼女は、三十年前の悲劇から、そして魂たちの絶望から、完全に解放されたのだ。
儀式は誰もが予想しえなかった成り行きによって、成就したのだった。
一行は、疲労困憊の志乃を囲み、ただ安堵のため息をつくしかなかった。
危機は去った。
しかし、彼らが目の当たりにした奇跡は、この山や、志乃の持つ力の本当の恐ろしさを、改めて彼らに突きつけていた。
「…ひとまずは、休ませてやらねば」
水上が、かすれた声で言った。
彼の額には、学者らしからぬ脂汗がびっしりと浮かんでいる。
「この場所は、清浄にはなったが、長居は無用じゃ」源兵衛が、周囲の森に鋭い視線を配りながら応じた。「これほどの儀式の後だ。山の気配が大きく変わったのを、奴らが感じ取らんはずがねぇ。ここから半刻ほど下ったところに、わしが昔使っておった岩小屋がある。そこまでこの子を運び、夜が明けるまで休む。それから、山頂を目指す。異論はねぇな」
反対する者はいなかった。
巌は、志乃の体を毛布でそっとくるむと、まるで宝物のように、その巨躯の背に優しく担ぎ上げた。
その足取りは、これまでの過酷な道のりで疲弊しているはずなのに、不思議なほど軽かった。
源兵衛の案内で、一行は巫女の泉を後にした。
彼らが去った後、泉のほとりには、季節外れの小さな白い花が、死者に手向ける花のように、静かに咲き誇っていた。
岩小屋はその名の通り、巨大な岩が折り重なってできた、天然の洞窟であった。
源兵衛が若い頃、猟の際に寝床として使っていたというだけあって、風雨をしのぐには十分な場所だった。
巌が志乃をそっと横たえ、水上が火を起こす。
源兵衛は、小屋の周りに、再び獣避けと魔除けの結界を張り巡らせた。
火が燃え始めると、男たちの口数は少なく、互いの存在を確かめ合うように炎を見つめていた。
志乃は穏やかな寝息を立てている。
彼女の消耗は激しいが、その寝顔は帝都にいた頃よりも、どこか晴れやかで満ち足りているようにも見えた。
「…水上殿」源兵衛が静かに口を開いた。「わしは三十年間、間違っておった。息子を殺され、村を滅ぼされた怒りと憎しみだけで生きてきた。じゃが、あの子は…志乃お嬢ちゃんは、わしらにもっと大切なことを教えてくれた。憎しみでは何も救われん。弔い、鎮めることこそが、残された者の務めなんじゃとな」
「ええ」水上も、深く頷いた。「我々は玄洋会を追うあまり、大切なことを見失っていたのかもしれません。彼らと同じように、力で力を制することばかりを考えていた。ですが、志乃さんは違う道を示してくれた。あれこそが、斎部の一族が古来から受け継いできた、本当の戦い方なのでしょう」
夜が更け、男たちは交代で見張りに立ちながら、束の間の休息を取った。
志乃は一度も目を覚ますことなく、深く静かに眠り続けた。
翌朝、一行が目を覚ました時、志乃はすでに起きて岩小屋の入り口に座り、静かに朝日を浴びていた。
その横顔は、昨日の消耗が嘘のように清々《すがすが》しく、そして巫女としての新たな覚悟に満ちていた。
「おはようございます」
彼女が振り返って微笑むと、三人の男たちは、そのあまりの神々《こうごう》しさに思わず息を呑んだ。
「参りましょう。山頂へ」
志乃の言葉に、一行は再び立ち上がった。
弔いは終わった。
しかしこの先には、まだまだ険しい道が続いている。




