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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第1章
4/23

4

 古今堂に戻った父と娘は、どちらからともなく重い沈黙に沈んでいた。

 店の奥、帳場の上に置かれた螺鈿らでんの小箱は、先程の騒動が嘘であったかのように静まり返っている。

 しかし、その内に秘められた黒い石が放つ不気味な脈動は、二人の記憶に、そして店の空気そのものに深く刻み込まれていた。


「……志乃」


 先に沈黙を破ったのは宗一郎だった。彼の声には、もはや古物商としての好奇心はなく、ただ純粋な恐怖と後悔がにじんでいる。


津頭つがしら先生の言う通りだ。あれは道理から外れたものだ。我々のような商人が手を出していい代物じゃない。明日、蔵の最も深い場所に封印しよう。そして、あの男が来ても……」


「駄目です、お父様」


 志乃は、父の言葉を静かに、しかしはっきりとさえぎった。


「蔵に隠しても、あの海龍という方は必ず見つけ出します。あの人はそういう目をしています。それに、私たちは見られていました。大学からの帰り道、誰かにつけられていた……。逃げるだけでは、きっともっと悪いことになります」


 志乃の言葉に、宗一郎は反論できなかった。彼もまた、大学からの帰り道に感じたあの粘つくような視線を思い出していた。

 相手は、ただの強盗や恐喝屋ではない。目的のためなら手段を選ばない、底知れぬ組織の影を感じる。


「では、どうしろと……」


「相手のことを知らなければなりません。海龍光太郎とは何者なのか。なぜ、あれほどまでにこの石を欲しがるのか。それを知ることが、私たちを守る唯一の道だと思います」


 娘の落ち着き払った声に、宗一郎はごくりと喉を鳴らした。

 危険に対して鈍感だと思っていた娘が、いつの間にか、自分よりも的確に状況を掴んでいる。

 彼は観念かんねんしたように、一つの名を口にした。


「……毎日新聞に、岸馬きしばという記者がいる。昔からの付き合いで、少しばかり裏の事情に詳しい男だ。彼なら、何か知っているかもしれん」


 翌日の昼過ぎ、宗一郎と志乃は神田須田町にある喫茶店『カフェ浪漫館』の扉をくぐった。

 店内には珈琲の香ばしい匂いと紫煙しえんが立ち込め、学生や知識人らしき人々が小声で議論を交わしている。蓄音機ちくおんきからは軽快な流行歌が流れていた。

 店の隅の席で新聞を読んでいた男が、宗一郎の姿を認めると、無愛想に片手を上げた。


「神阪の旦那じゃないか。珍しいな、あんたがこんなハイカラな場所に来るなんて。おや、そちらの可愛らしいお嬢さんは?」


 岸馬きしばすすむと名乗るその男は、よれた背広に無精髭を生やし、いかにも場末の新聞記者といった風体ふうていだったが、その目だけは剃刀かみそりのように鋭かった。


「娘の志乃です。岸馬さん、他でもない、折り入って調べて頂きたい人物がいる」


 宗一郎は、人目をはばかるように声を潜め、海龍光太郎の特徴と、彼が古今堂を訪れた経緯を簡潔に話した。

 ただし、黒い石の持つ異様な性質については伏せ、あくまで「曰く付きの南蛮渡りの小箱」を狙っている、ということに留めた。


 話を聞くうちに、岸馬の表情から軽薄けいはくさが消え、険しいものへと変わっていく。

 彼は手帳を取り出し、メモを取りながら何度か宗一郎に鋭い質問を浴びせた。


「海龍光太郎……その名、確かに聞いたことがある。だが、表の世界の人間じゃない。待っていてくれ」


 岸馬はそう言うと、店の奥にある電話へと向かい、誰かと数分間、小声で話した。

 席に戻ってきた彼の顔は、以前にも増して暗く、深刻な色を浮かべていた。


「旦那、とんでもないものに首を突っ込んじまったな」


 岸馬は煙草に火をつけ、深く煙を吸い込んでから言った。


「海龍光太郎は、玄洋会げんようかいという結社の幹部だ。表向きは大陸との貿易を手掛ける商会だが、その実態は、日本の古来からの力を復活させ、帝国の栄光を世界に示すことを目的とした国粋主義者こくすいしゅぎしゃの集まりだ。連中は、ただの右翼じゃない。陸軍の一部や華族かぞくの中にも、奴らと繋がりを持つ者がいるという噂だ」


 宗一郎の顔がこわばる。一介の古物商が相手にしていい組織ではなかった。


「玄洋会は、日本各地に散らばる古代の遺物……特に、神代かみよの時代に遡るような、神秘的な力を持つと信じられている品々を血眼ちまなこになって探している。連中は、それを『神器じんぎ』と呼んでいるらしい。あんたが手に入れた小箱も、その一つと見て間違いないだろう」


 岸馬は、志乃の方に痛ましげな視線を向けた。


「旦那、俺からの忠告だ。その品からは、今すぐ手を引け。海龍に渡すなり、川に捨てるなりして、関わりを断つんだ。奴らは、目的のためなら殺しもいとわない連中だ。警察だって、奴らの背後にいる大物を恐れて、まともに動けやしない。これは、あんたや嬢ちゃんがどうこうできる問題じゃない」


 岸馬の言葉は、善意からの警告であると分かっていた。

 しかし、宗一郎の脳裏には、蔵に封印しても無駄だと言った志乃の言葉と、大学からの帰り道に感じたあの視線が蘇っていた。

 もう、後戻りはできないところまで来てしまったのかもしれない。


 喫茶店を出ると、冷たい秋風が父と娘の頬を撫でた。

 帝都の賑わいは変わらない。しかし、その華やかな日常のすぐ裏側で、自分たちの知らない、深く暗い流れが渦巻いている。

 古今堂に戻った二人は、帳場に置かれた螺鈿の小箱を前に、再び言葉を失った。

 岸馬の情報は、わずかな光であると同時に、さらに濃い絶望の影を投げかけていた。

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