39
志乃は、泉の中央に鎮座する、ひときわ大きな磐座を見つめた。
そして、決意を固めて、仲間たちに向き直った。
「ここで、儀式を執り行いましょう」
その声には、もはや迷いはなかった。
「水上さんのお話にあった『神籬』…この古代の祭祀場こそ、神邑の皆さんの魂をお招きするのに、最もふさわしい場所だと思います。ここならきっと、三十年の間、誰にも届かなかった私たちの声が届くはずです」
その提案に反対する者は誰もいなかった。
一行は、この原初の聖域を借り、三十年前に非業の死を遂げた魂たちを弔うための儀式を準備し始めた。
まず水上の指示のもと、巌が先程切り出した四本の『神迎えの笹』を、泉を取り囲む磐座の四隅に深くまっすぐに突き立てた。
それは、この聖なる泉を中心とした、確かな結界の柱となった。
次に源兵衛が、背負っていた荷物の中から乾かした稲藁を取り出した。
慣れた手つきでその藁を綯い、一本の太く立派な注連縄を作り上げていく。
その間、水上は沢で汲んだ水で米を丁寧に研ぎ、和泉は持参した塩を清浄な白紙の上に広げた。
志乃は、その全ての準備を静かに見守っていた。
そして、彼女は泉のほとりにそっと膝をつくと、冷たい湧き水で自分の手と顔を清めた。
水面に映る自分の顔が、どこか知らない遠い昔の巫女の素顔のように見えた。
やがて準備は整った。
四隅に立てられた笹竹の間には、源兵衛が作った注連縄が張られ、中央の磐座の前には、清められた米と塩、そして泉の水が厳かに供えられた。
日は西の山に傾き、森は夕闇に包まれ始めている。
木々の梢を渡る風の音が、まるでこれから始まる儀式のための雅楽の調べのように聞こえた。
水上と源兵衛、そして巌は、結界の外側で静かに頭を垂れた。
ここから先は志乃一人の役目であった。
志乃は、ゆっくりと結界の内側へと足を踏み入れた。
そして、供え物が置かれた磐座の前に、静かに正座した。
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
自分の内にある『鎮めの力』を、そして斎部の血に流れる遥か古からの記憶を、今、呼び覚ますために。
(聞こえますか…)
彼女は、心の中で語りかけた。
(私は、神邑斎部が一人、千代の娘、志乃と申します。三十年の長きにわたり、皆様がどれほどお辛く、寂しい思いをされてきたか…。お慰めする言葉もございません…)
志乃が、その清らかな祈りを捧げ始めた、その瞬間であった。
彼女が手を触れていたわけでもないのに、目の前の巨大な磐座が、ごおおん、と地響きのような低い唸りを上げた。
それは物理的な音ではない。
魂に直接響く、古の岩の咆哮であった。
岩に刻まれた縄文の文様が、淡く青白い光を放ち始める。
「なっ…!?」
結界の外で、水上が驚愕の声を上げる。
源兵衛と巌も、信じられないものを見るように、その光景に釘付けになっていた。
磐座の光は、泉の水面に反射し、周囲の森を幻想的な光で照らし出した。
そしてその光は、まるで生きているかのように志乃の体へと流れ込み始めた。
彼女の意識が急速に遠のいていく。
自分の身体が、この場所と三十年前とが溶け合っていくような感覚。
次の瞬間、志乃は見た。
——それは今日のように、よく晴れた秋の日であった。
穏やかだったはずの神邑に、不釣り合いな怒号と悲鳴が響き渡っている。
村の中心にある、簡素だが立派な社殿の前で、村人たちが数人の背広姿の男たちと揉み合っていた。
男たちの手には拳銃が握られている。
その中心にいたのは、間違いようも無い、若き日の今と変わらぬ冷酷な眼差しをした『海龍光太郎』であった。
——「大人しく『陽霊の玉』を差し出せば、命だけは助けてやろう。どこに隠した!」
海龍の怒声に、村の長老らしき老人が毅然として立ちはだかる。
——「あれは人の手に余るものじゃ! 山の怒りに触れるぞ!」
——問答の末、痺れを切らした海龍の部下が長老を突き飛ばす。
それを合図に男たちは社殿へと押し入り、祭壇の奥から、まばゆい光を放つ宝玉を乱暴に奪い取った。
——その時、社殿の奥から一人の若者が飛び出してきた。
その顔は怒りに燃えている。
彼は、玉を奪った男に飛びかかり、その腕に食らいついた。
——次の瞬間、乾いた銃声が谷に響き渡った。
若者の胸が赤い血で染まる。
彼は、信じられないものを見るような目で、自らの胸を見つめ、そしてゆっくりと崩れ落ちた。
神聖なる社の庭に、斎部の血が、初めて流された。
——「…あ…あぁ…」
——村人たちの絶望的な悲鳴が響き渡る。
その瞬間、天候が急変した。
空が、みるみるうちに血のような赤黒い色に染まり、大地は地の底から響くような低い唸りを上げ、激しく揺れ始めた。
山そのものが、そこで起きた殺生という穢れに、激しく怒っているのだ。
——「な、なんだこれは!?」
海龍の部下たちが、狼狽の声を上げる。
彼は、手に入れた『陽霊の玉』を、まるで戦利品のように高々と掲げていたが、その顔にも焦りの色が浮かんでいた。
——山の斜面に巨大な口が開き、轟音と共に、村を、そして人々を、悲鳴と共に飲み込んでいく。
——地獄絵図の中、海龍は村で最も高い場所にある社殿にいた。
彼は、奪った『陽霊の玉』を懐にねじ込むと、眼下で部下たちが土砂に呑まれていくの姿を一顧だにすることもなく、ただ一人、崩れていく村とは反対側の、山頂へ続く険しい斜面を獣のような身軽さで駆け上がっていく。
目的はただ、神器を手に入れることだけなのだろう。
部下の命も、村人たちの命も、彼にとっては一片の価値もなかったのだ。
志乃はその地獄絵図と、海龍の非情な決断を、なすすべもなく見つめていた。
これはただの幻視ではない。
三十一人の魂が、その最期に見た絶望の記憶そのものであった。
「…う…あ…っ!」
現実の世界で、志乃の口から苦悶の声が漏れた。
彼女の体は磐座の光を浴び、けいれんするように震えている。
「志乃殿!」
巌が結界を破って中に飛び込もうとするのを、源兵衛が制した。
「ならん! 今あの子は、人ならざるモノと繋がっておる! 下手に触れれば、お前さんの魂ごと巻き込まれるぞ!」
志乃の意識は、もはやこの場にはなかった。
彼女は三十年前の、あの悲劇の瞬間に完全に囚われていた。




