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志乃の顔には、もう迷いはなかった。
彼女は、沢の水を一口飲むと、まだ見ぬ神邑の村の方角を静かに見据えた。
そして、今度は、これまで黙って話を聞いていた源兵衛の方へと向き直った。
「源爺様」
「なんだ」
「水上さんのお話では、儀式には神籬を立てるための笹竹と、清浄な場所が必要とのことです。このお山のことは、源爺様が一番よくご存知のはず。神邑の跡地の近くに、そのような場所に心当たりはございませんか」
その問いに、源兵衛は、煙管をふかしながら、しばらくの間、じっと目を閉じて何かを考えていた。
彼の脳裏には、三十年前の、まだ緑豊かだった頃の故郷の地図が、鮮明に描き出されているかのようだった。
やて、彼はゆっくりと目を開けた。
「…村の跡地そのものは、悲しみが深すぎる。魂を弔うには、清浄とは言えん場所じゃ。じゃが…」
彼は、沢の上流、さらに奥深くの森を指差した。
「あの村跡から、半刻(一時間)ほど登ったところに、小さな泉がある。『巫女の泉』と、村の衆は呼んどった。この山で一番、清らかな水が湧く《わく》場所でな。千代たち巫女は、祭りの前には、必ずあの泉で身を清めとった。あそこ以上に、儀式にふさわしい場所はねぇだろう」
その言葉は、一行の心に、確かな希望の光を灯した。
「笹竹は、どうでしょうか」と水上が尋ねる。
「笹竹なら、心配いらん」源兵衛は、こともなげに言った。「神邑へ続く古い道の入り口…村の衆が『まじない』をかけとった場所のすぐ手前に、群生地がある。儀式に必要な分は、そこで手に入るはずじゃ」
水上は、源兵衛の知識に改めて感嘆の念を抱いていた。
「よし」源兵衛は、すっくと立ち上がった。「話は決まった。まずは、笹竹の群生地を目指す。それから、巫女の泉だ。陽は、待ってはくれんぞ」
一行は、再び立ち上がった。
彼らは、ただ悲劇の跡地へ向かうのではない。
三十年の間、忘れ去られていた魂たちを弔うための、聖なる準備を整えるために、一歩一歩、山を登っていく。
源兵衛を先頭に、一行は再び険しい獣道へと足を踏み入れた。
沢を離れ、山のさらに深い懐へと分け入っていく。
これまでの道程ですら険しかったが、ここからの道は、まるで山が本性を現したかのように、その厳しさを増していった。
木々の密度が濃くなり、昼間であるにも関わらず、森の中は薄暗い。
空気はひやりと肌を刺すように冷たくなり、湿った土と苔、そして濃密な生命の匂いが、一行の周りを満たしていた。
先頭を行く源兵衛の動きには、一切の無駄がなかった。
彼は時折、風の匂いを嗅ぎ、地面に残された獣の痕跡を読み、そして、凡人には見えぬであろう、木々の枝ぶりに宿る微かな気配さえも感じ取っているかのようであった。
「この先、少し開けた場所に出る。そこが、昔、神邑へ続く道の入り口じゃった」
源兵衛が、背後を振り返らずに言った。
しばらく進むと、彼の言葉通り、鬱蒼とした木々が途切れ、陽光が差し込む、小さな広場のような場所に出た。
そこには、苔むした地蔵が一体、半分土に埋もれるようにして寂しげに佇んでいる。
そして、その地蔵の背後には、見事な笹竹が、まるで緑色の壁のように、びっしりと群生していた。
葉は肉厚で、その縁は雪のように白く、ただの笹竹ではない、どこか神聖な気配を漂わせている。
「これは…見事な」水上が感嘆の声を漏らした。「これは、隈笹の中でも、特に古い種ですね。これほど見事な群生は、私も初めて見ました」
「村の衆は、これを『神迎えの笹』と呼んどった」源兵衛は、笹の葉を一枚、慈しむように撫でながら言った。「この笹が茂る場所から先が、村の者が『まじない』をかけとった聖域の入り口じゃ。この笹を刈り、清めて作った玉串でなければ、山の神々は決して姿を現さん、とな」
志乃は、その場所に満ちる清浄な空気を深く吸い込んだ。
昨夜、山と一体になった時に感じた、あの巨大な気配。
その源流の一つが、ここにあるのだと、彼女は直感した。
「巌殿」水上が声をかける。「儀式に使う笹を、四本。できるだけ節がまっすぐで、葉の色が良いものを選んで、切り出していただけますか」
巌は、無言で頷くと、背負っていた荷物の中から、清められた布で巻かれた小刀を取り出した。
彼は、群生地の中から、ひときわ立派な笹を四本選び出すと、一本一本に、まるで許しを乞うかのように静かに手を合わせ、それから、驚くほど滑らかな手つきで、根元から切り出した。
四本の笹竹を手に入れた一行の顔には、安堵の色が浮かんでいた。
弔いの儀式に必要な、最初の準備が整ったのだ。
「さて」源兵衛は、再び険しい森の奥を指差した。「次は、巫女の泉じゃ。ここから先は、本当の聖域。心してかかれ。獣よりも恐ろしいものが、お前さんらを試しに来るやもしれんぞ」
その言葉を合図に、一行は、笹竹を携え、さらに深く、そして神秘的な山の気配が満ちる、未知の領域へと、その足を進めていった。




