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一行は、源兵衛が『熊穴』と呼ぶ、巨大な岩の麓にある洞窟へとたどり着いた。
日が落ちるにつれて、山の空気は急速に冷え込み、森の闇は次第に濃くなっていく。
昼間とは全く違う、畏怖すべき何ものかの気配が、木々の間から一行を窺っているかのようだった。
「ぐずぐずするな。陽が完全に落ちる前に、火を起こし、結界を張る」
源兵衛の声は、これまでになく厳しかった。
源兵衛は、水上と巌に向かって、背負ってきた荷物の中から鉈を渡した。
「そこの若い衆と、力自慢の旦那は、この辺りで一番乾いとる薪を、腕いっぱいに集めてこい。湿った木は煙が出るだけで、何の役にも立たん。いいか、この洞窟から、わしの声が届く範囲を離れるんじゃねえぞ」
水上と巌は、心得たとばかりに頷くと、すぐに森の中へと入っていった。
志乃は、自分に何ができるか分からず、不安げに源兵衛の顔を見上げた。
「お嬢ちゃんは、わしを手伝え」
源兵衛は、洞窟の入り口の地面を指差した。
彼は懐から、油紙に包まれた灰色の粉を取り出すと、その粉で、洞窟の入り口の地面に、内と外を分かつように、一本の太い線を引いた。
「それは、何でございますか?」
「山の神の使いだった、古狼の骨を焼き、月光で清めた灰じゃ」源兵衛は、作業の手を止めずに答えた。「ただの獣避けじゃねぇ。これは、人と獣の世を分ける境の印よ。獣は己の領域を弁えておる。この印を越えて、人の世に踏み込むことを本能で恐れるんじゃ」
志乃は、その手際の良さに感心しながら、自分にできることを探した。そして彼女は、洞窟の中にあった比較的平らな石をいくつか集め、即席の竈を組み上げるのだった。
そしてその中に、乾いた枯れ葉や細い小枝を丁寧に並べていく。
その手つきは、まるで古今堂で傷つきやすい品を陳列するかのように、自然な手つきで落ち着いていた。
やがて水上と巌が、山のような薪を抱えて戻ってきた。
源兵衛は、その中から特に乾いたものを選び出すと、火打ち石と打ち金を使って巧みに火花を散らした。
数度の試みの後、赤い火種が生まれ、枯れ葉に燃え移り、ぱちぱちと音を立て、闇の中に温かい光を生み出した。
炎が安定すると、源兵衛は再び懐から別のものを取り出した。
それは麻の紐に、何かの動物の歯や、鳥の羽、そして小さな鈴がいくつも結びつけられた、奇妙なお守りのようなものであった。
それを洞窟の入り口に、灰の線と平行になるよう、神社の注連縄のように設置した。
「…これでよし。よほどのことがねえ限り、獣も、よからぬモノも、この内側へは入ってこん」
それは、迷信深い老人の世迷い言ではない。長年、この山で生き抜いてきた男だけが持つ、経験に裏打ちされた山の知識だった。
火が燃え盛る洞窟の中は、外の世界とは隔絶された、小さな安息の地となった。
四人は、火を囲んで輪になり、志乃が用意した握り飯を、黙々と食べた。
塩の効いた素朴な握り飯が、冷え切った体に染み渡るようだった。
外からは、時折、得体の知れない獣の遠吠えや、風が木々を揺らす不気味な音が聞こえてくる。
しかし、源兵衛が張った結界と、燃え盛る炎が、それらの脅威から彼らを守ってくれているようだ。
志乃は、炎の向こうで、厳しくもどこか安堵したような表情を浮かべる源兵衛の顔を、じっと見つめていた。
この老猟師の知恵と経験がなければ、自分たちは今頃、この山の闇に呑み込まれていたかもしれない。
彼女は、この不思議な旅の中、また一つ、人の温かさと自然の厳しさを学んでいた。
やがて男たちは一人、また一人と、獣の毛皮にくるまって浅い眠りについた。
水上は、最後まで何かの書物を読んでいたが、いつの間にか、その手から本が滑り落ちている。
巌は、洞窟の入り口近くに座したまま、まるで石像のように動かないが、その呼吸は深く穏やかだった。
源兵衛だけが、火の番をしながら、猟銃を傍らに置いて目を閉じている。
志乃は、眠ることができなかった。
外からは、時折、得体の知れない獣の遠吠えや、風が木々を揺らす不安げな音が聞こえてくる。
しかし、それ以上に彼女の意識を捉えていたのは、この山そのものが発する、巨大で濃密な気配であった。
彼女は、そっと体を起こすと、洞窟の隅に静かに正座した。
そして、巌から教わった呼吸法を静かに実践し始めた。
——吸う息は、天から清浄な気を頂き、体の隅々《すみずみ》まで満たすように。
——吐く息は、己の中にある不安や淀みを、地の底へ返すように。
初めは、ただの深呼吸であった。
しかし、それを幾度となく繰り返すうちに、志乃の意識は、ゆっくりとその輪郭を失い始めた。
自分の身体と、この洞窟の岩肌と、外の闇に満ちる森と、その境界線が曖昧になっていく。
彼女の五感が、これまで感じたことのないほど研ぎ澄まされていくのが分かった。
耳には、眠る仲間たちの穏やかな寝息だけでなく、洞窟の奥深くで、岩の隙間を水滴が滴る、かすかな音が聞こえる。
肌には、燃える火の温かさだけでなく、洞窟の外の、湿った土と苔の匂いを含んだ、夜気の冷たさを感じる。
そして、それらを超えた、第六感とでも呼ぶべき感覚が、ゆっくりと目覚めていった。
(…生きている)
この山は、生きているのだ。
彼女は、巨大な杉の木々が、その根を大地深く張り巡らせ、地下水を吸い上げる、力強い生命の流れを感じた。
夜の闇に紛れて獲物を探す、狐や貂の、しなやかな動きを感じた。
そして、この山で三十年の間、誰にも弔われることなく眠り続ける多くの魂の、静かで深い悲しみを感じた。
それは、恐ろしいというよりも、むしろ途方もなく大きく、そして懐かしいものに抱かれているかのような、不思議な感覚であった。
自分の中に流れる『斎部』の血が、この山の記憶と共鳴している。
志乃はこの時初めて、自分が受け継いだ力の本当の意味を理解した。
それは、神器をただ鎮めるだけの力ではない。
万物の声を聞き、その心に寄り添い、そして調和させるための力なのだ。
彼女がゆっくりと目を開けると、焚き火の炎は、いつの間にか赤く色付く小さな焔になっていた。
しかし彼女の目には、闇に閉ざされた森の木々一本一本の輪郭が、まるで月の光に照らされているかのように、はっきりと見えていた。
志乃は今、自分の心がこの山の自然と、完全に一つになったのを感じていた。




