表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/49

34

 一行は、源兵衛げんべえが『熊穴くまあな』と呼ぶ、巨大な岩のふもとにある洞窟どうくつへとたどり着いた。

 日が落ちるにつれて、山の空気は急速に冷え込み、森のやみは次第に濃くなっていく。

 昼間とは全く違う、畏怖いふすべき何ものかの気配が、木々の間から一行をうかがっているかのようだった。


「ぐずぐずするな。陽が完全に落ちる前に、火を起こし、結界けっかいを張る」


 源兵衛の声は、これまでになく厳しかった。

 源兵衛は、水上といさおに向かって、背負ってきた荷物の中からなたを渡した。


「そこの若い衆と、力自慢の旦那は、この辺りで一番乾かわいとるまきを、腕いっぱいに集めてこい。湿しめった木は煙が出るだけで、何の役にも立たん。いいか、この洞窟から、わしの声が届く範囲を離れるんじゃねえぞ」


 水上と巌は、心得こころえたとばかりにうなずくと、すぐに森の中へと入っていった。

 志乃は、自分に何ができるか分からず、不安げに源兵衛の顔を見上げた。


「お嬢ちゃんは、わしを手伝え」


 源兵衛は、洞窟の入り口の地面を指差した。

 彼はふところから、油紙に包まれた灰色の粉を取り出すと、その粉で、洞窟の入り口の地面に、内と外を分かつように、一本の太い線を引いた。


「それは、何でございますか?」


「山の神の使いだった、古狼ころうの骨を焼き、月光で清めた灰じゃ」源兵衛は、作業の手を止めずに答えた。「ただの獣避けじゃねぇ。これは、人と獣の世を分けるさかいしるしよ。獣はおのれの領域をわきまえておる。この印を越えて、人の世に踏み込むことを本能で恐れるんじゃ」


 志乃は、その手際の良さに感心しながら、自分にできることを探した。そして彼女は、洞窟の中にあった比較的平らな石をいくつか集め、即席のかまどを組み上げるのだった。

 そしてその中に、乾いた枯れ葉や細い小枝を丁寧ていねいに並べていく。

 その手つきは、まるで古今堂ここんどうで傷つきやすい品を陳列ちんれつするかのように、自然な手つきで落ち着いていた。


 やがて水上と巌が、山のような薪を抱えて戻ってきた。

 源兵衛は、その中から特に乾いたものを選び出すと、火打ち石と打ち金を使ってたくみに火花を散らした。

 数度の試みの後、赤い火種が生まれ、枯れ葉に燃え移り、ぱちぱちと音を立て、闇の中に温かい光を生み出した。


 炎が安定すると、源兵衛は再びふところから別のものを取り出した。

 それは麻の紐に、何かの動物の歯や、鳥の羽、そして小さな鈴がいくつも結びつけられた、奇妙なお守りのようなものであった。

 それを洞窟の入り口に、灰の線と平行になるよう、神社の注連縄しめなわのように設置した。


「…これでよし。よほどのことがねえ限り、獣も、よからぬモノも、この内側へは入ってこん」


 それは、迷信深い老人の世迷よまごとではない。長年、この山で生き抜いてきた男だけが持つ、経験に裏打うらうちされた山の知識だった。


 火が燃え盛る洞窟の中は、外の世界とは隔絶かくぜつされた、小さな安息あんそくの地となった。

 四人は、火を囲んで輪になり、志乃が用意したにぎめしを、黙々と食べた。

 塩の効いた素朴な握り飯が、冷え切った体にわたるようだった。


 外からは、時折、得体の知れない獣の遠吠とおぼえや、風が木々を揺らす不気味な音が聞こえてくる。

 しかし、源兵衛が張った結界と、燃え盛る炎が、それらの脅威きょういから彼らを守ってくれているようだ。


 志乃は、炎の向こうで、厳しくもどこか安堵したような表情を浮かべる源兵衛の顔を、じっと見つめていた。

 この老猟師の知恵と経験がなければ、自分たちは今頃、この山の闇に呑み込まれていたかもしれない。

 彼女は、この不思議な旅の中、また一つ、人の温かさと自然の厳しさを学んでいた。


 やがて男たちは一人、また一人と、獣の毛皮にくるまって浅い眠りについた。

 水上は、最後まで何かの書物を読んでいたが、いつの間にか、その手から本が滑り落ちている。

 巌は、洞窟の入り口近くにしたまま、まるで石像のように動かないが、その呼吸は深く穏やかだった。

 源兵衛だけが、火の番をしながら、猟銃りょうじゅうかたわらに置いて目を閉じている。


 志乃は、眠ることができなかった。

 外からは、時折、得体の知れない獣の遠吠えや、風が木々を揺らす不安げな音が聞こえてくる。

 しかし、それ以上に彼女の意識をとらえていたのは、この山そのものが発する、巨大で濃密のうみつな気配であった。


 彼女は、そっと体を起こすと、洞窟の隅に静かに正座せいざした。

 そして、巌から教わった呼吸法を静かに実践し始めた。


——吸う息は、天から清浄せいじょうな気を頂き、体の隅々《すみずみ》まで満たすように。

——吐く息は、己の中にある不安やよどみを、地の底へ返すように。


 初めは、ただの深呼吸しんこきゅうであった。

 しかし、それを幾度となく繰り返すうちに、志乃の意識は、ゆっくりとその輪郭りんかくを失い始めた。

 自分の身体と、この洞窟の岩肌と、外の闇に満ちる森と、その境界線が曖昧あいまいになっていく。


 彼女の五感が、これまで感じたことのないほどまされていくのが分かった。


 耳には、眠る仲間たちの穏やかな寝息だけでなく、洞窟の奥深くで、岩の隙間すきま水滴すいてきしたたる、かすかな音が聞こえる。


 肌には、燃える火の温かさだけでなく、洞窟の外の、湿った土とこけの匂いを含んだ、夜気やきの冷たさを感じる。


 そして、それらを超えた、第六感とでも呼ぶべき感覚が、ゆっくりと目覚めていった。


(…生きている)


 この山は、生きているのだ。


 彼女は、巨大な杉の木々が、その根を大地深く張り巡らせ、地下水を吸い上げる、力強い生命の流れを感じた。

 夜の闇に紛れて獲物を探す、きつねてんの、しなやかな動きを感じた。

 そして、この山で三十年の間、誰にもとむらわれることなく眠り続ける多くの魂の、静かで深い悲しみを感じた。


 それは、恐ろしいというよりも、むしろ途方もなく大きく、そして懐かしいものに抱かれているかのような、不思議な感覚であった。

 自分の中に流れる『斎部いんべ』の血が、この山の記憶と共鳴きょうめいしている。


 志乃はこの時初めて、自分が受け継いだ力の本当の意味を理解した。

 それは、神器じんぎをただしずめるだけの力ではない。

 万物ばんぶつの声を聞き、その心に寄り添い、そして調和ちょうわさせるための力なのだ。


 彼女がゆっくりと目を開けると、焚き火の炎は、いつの間にか赤く色付く小さなほむらになっていた。

 しかし彼女の目には、闇に閉ざされた森の木々一本一本の輪郭が、まるで月の光に照らされているかのように、はっきりと見えていた。


 志乃は今、自分の心がこの山の自然と、完全に一つになったのを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ