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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 源兵衛げんべえという、老いたりとはいえ何よりも頼もしい猟師りょうしを仲間に加えた一行は、囲炉裏いろりの火を囲みながら、これからの具体的な登山計画を練り始めた。

 三十年の時を超えた因縁いんねんを断ち切るための、最初の作戦会議であった。


 水上は、旅館から持参した陸軍測量部作成の最新地図を囲炉裏のそばに広げた。

 等高線が細かく引かれ、あらゆる沢や尾根が正確に記されている、科学のすいを集めた地図である。


源爺殿げんじいどの玄洋会げんようかいが持っているのも、これとほぼ同じものだと思われます。彼らが神邑かむらの跡地、そして日鎮ヶ岳(ひずめがたけ)の山頂を目指すとしたら、どの経路けいろ辿たどるとお考えですか」


 源兵衛は、その地図を一瞥いちべつすると、鼻でふんと笑った。


「こんな紙切れ、何の役にも立ちゃしねえ。山ってもんは、昨日と今日とで、まるで顔が違う。夏に道があった場所が、冬には雪崩なだれで谷底だ。こんなもんに頼っとる限り、奴らはまだ山の中を彷徨さまよっているだろうよ」


 彼は、囲炉裏の灰の上に、太い指で大雑把おおざっぱな山の絵を描き始めた。

 それは、水上の地図とは似ても似つかぬ、しかし、長年山と共に生きてきた男だけが描ける、生きた地図であった。


「奴らがこの地図を見て進むなら、道は一つしかねぇ。梓川あずさがわ沿いの古い道をさかのぼり、徳本峠とくごうとうげを越える。そこから先は、地図の上じゃ白紙だが、おそらくは霞沢かすみざわを詰めて、日鎮ヶ岳の西側から取り付こうとするだろう。一番、距離が短いからな」


「しかし…」源兵衛は、けわしい顔で続けた。「その道は、三十年前の土砂崩れで、今は見る影もない。それに、霞沢は岩がもろく、いつ落石があってもおかしくねぇ、魔の谷だ。腕の立つ案内人もなしに、都会の人間が踏み込める場所じゃねぇ。奴らが今頃、その谷のどこかで立ち往生おうじょうしているか、あるいは…山のやしになっているか。どっちかだろうよ」


 その言葉は、玄洋会がひと月先を行っているという絶望的な時間差を、くつがえせる可能性を示唆しさしていた。


「では、私たちは?」水上が、身を乗り出して尋ねた。


「奴らとは、違う道を行く」源兵衛は、灰の上に、もう一本、大きく迂回うかいするような線を描いた。「わししか知らん、獣道けものみちだ。表の道よりも険しく、危険も多い。じゃが、奴らの倍の速さで、日鎮ヶ岳のふところに潜り込める」


 彼は、その道の途中に、いくつかの印をつけた。


「この道は、ただの近道じゃねぇ。途中、『天狗てんぐ岩屋いわや』と呼ばれる洞窟どうくつと、『善鬼ぜんきたき』と呼ばれる滝壺たきつぼを通る。どちらも、山の神々の通り道だと、昔から村の衆がおそれてきた場所だ。普通の人間なら、まず近づかん。じゃが…」


 源兵衛は、そこで一度言葉を止め、志乃の顔をじっと見た。


「お嬢さんのような、『しずめの血脈けつみゃく』を持つ人間とならば、話は別かもしれん。山の神々が、あるいは道を開いてくれるやもしれんからな」


 それは、科学や論理では計れない、この土地に古くから伝わる信仰と、志乃の持つ不思議な力が交差する、唯一の道筋であった。


「…その道を行きましょう」


 決断したのは、志乃だった。

 彼女の瞳には、恐怖も迷いもなかった。


「玄洋会の方たちが、力と知恵で山をねじ伏せようとするなら、私たちは、敬意を払い、山の許しを得て進むべきです。それこそが、母が生まれ育ったこの山の、本当の作法さほうなのだと思います」


 その言葉に、水上も、そして巌も、深く頷いた。

 計画は定まった。

 地図を当てにはせず、いにしえの伝承と一人の少女の持つ不思議な力を頼りに、山の聖域せいいきへと足を踏み入れることを決意したのだ。


 一行の前に、これから進むべき、危険で、しかし唯一の道筋が示された。

 玄洋会という巨大な敵、そして日鎮ヶ岳という神秘の目的地。

 あまりにも大きな目標を前に、水上はやるべきことを整理するように、深く息をついた。


「計画は定まりました。ですが、このまま山に入るのは無謀でしょう。皆、疲れている」


 彼の言葉に、志乃が静かに頷いた。


「はい。まずは、源爺様のお許しがいただけるのでしたら、今夜はこちらで休ませていただき、万全の体勢で、夜明けと共に出発する、というのはいかがでしょうか」


 その提案に、源兵衛は「好きにせい」とだけぶっきらぼうに答えたが、その口元には、どこか満足げな色が浮かんでいた。

 焦ってこうそうとしない、その慎重な姿勢が、彼の流儀りゅうぎに合っていたのかもしれない。


 その夜、四人は源兵衛の小屋で、ささやかながらも忘れられない食事を共にした。

 囲炉裏の火が、それぞれの顔を赤く照らし出す。

 志乃が心を込めて焼いた岩魚の朴葉味噌ほおばみそ焼きは、香ばしい香りを小屋に満たし、水上が持参した銘酒めいしゅ『霧ヶきりがみね』が、緊張した男たちの心をゆっくりと解きほぐしていった。


「……千代ちよは」


 酒を一口呷った《あおった》源兵衛が、ぽつりと呟いた《つぶやいた》。


「あの子は、山の草花の名を、わしよりもよう知っとった。どんな毒草も、あの子の手にかかれば薬になった。わしの息子が、熊にやられて大怪我おおけがを負った時も、あの子が付きっきりで看病かんびょうしてくれたおかげで、命拾いのちびろいしたもんじゃ…」


 それは、三十年の間、誰にも語ることのなかった、老猟師の心の中にだけあった、温かい記憶の断片であった。

 志乃は、自分が知らなかった母の姿を、その言葉の中に見出し、じっと耳を傾けていた。


 やがて食事を終えると、四人は囲炉裏の残り火を囲むようにして、雑魚寝ざこねすることにした。

 獣の毛皮が敷かれた床は、硬かったが、不思議と体は休まった。

 志乃は、都会の家では決して聞くことのない、夜の山の音を聞いていた。

 風が木々を揺らす音、遠くで響くふくろうの声、小屋の屋根を叩く、おそらくは木の実の落ちる音。

 それは恐ろしいというよりも、むしろ、自分が今、巨大な生き物の懐に抱かれているかのような、不思議な安らぎを感じさせた。


(お父様は、今頃どうしているだろうか…)


 帝都ていとに残してきた父を想うと、胸が少しだけ痛んだ。

 しかし、後悔はなかった。

 自分は今、進むべき道の上にいる。

 その確信が、志乃の心を強く支えていた。


 空が白み始める、夜明け前。

 志乃が目を覚ますと、源兵衛はすでに起きて、囲炉裏の火を大きくしていた。

 彼は、朴葉で包んだ大きな握り飯を、無言で一人一人に手渡した。


「食え。今日は長い一日になる」


 一行の口数は少なく、それぞれに簡単な食事を済ませると、静かに立ち上がった。

 小屋の外に出ると、朝霧が立ち込める中、東の空だけが、わずかに明るく染まりかけている。

 ひやりとした空気が、眠っていた体を覚醒かくせいさせた。


 源兵衛を先頭に、水上、志乃、そして最後尾を巌が固める。

 四人は、言葉を交わすことなく、朝霧の中、日鎮ヶ岳へと続く、地図にはない獣道へと、その第一歩を踏み出した。

 それは、三十年の時を超えた因縁と、一人の少女の運命を巡る、長く険しい旅の始まりであった。


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