3
箱が開いてからというもの、古今堂の店内は奇妙な静けさに包まれていた。
ただ、黒い石が放つ低温と、心臓の鼓動のような脈動だけが、その空間を満たしている。
宗一郎は青ざめた顔で、カウンターの上に鎮座するその異様な物体を凝視していた。彼の長年の経験が、これが決して関わってはいけない類のものであると、警鐘を鳴らしていた。
「……志乃。これは駄目だ。すぐに箱に戻して、蔵の奥に固く封印する。あの男が来ても、もうないとでも何とでも言って追い返すんだ」
父の震える声には、本物の恐怖が滲んでいた。
しかし志乃は、恐ろしいという感情よりも、目の前の不思議な石に対する尽きない興味に心を奪われている。
「でも、お父様。このままにしておいても、あの海龍という方はまた必ず来ます。それに、この脈動……もしもっと強くなったらどうするのですか?」
志乃は父の顔をまっすぐに見つめた。彼女の瞳には、不思議と恐怖の色はなかった。
「正体がわからないから不安なのです。それなら、正体を知れば良いのではありませんか? 本郷の帝国大学へ行きましょう。鉱物学の津頭先生なら、これが何という石なのか、きっと教えてくださいます」
「馬鹿を言え! こんな得体の知れないものを外に持ち出すなど、危険すぎる! それに、あの男の手下が見張っているかもしれんのだぞ!」
「だからこそ、です。家に置いておけば、あの人たちが力づくで奪いに来るかもしれません。大学のように、人がたくさんいる場所の方がかえって安全です。それに、相手が何を欲しがっているのか分からなければ、交渉もできません」
おっとりとした娘が、これほど理路整然と反論するとは思わなかったのだろう。宗一郎はぐっと言葉に詰まった。
志乃の言う通り、このまま石を抱えて怯えているだけでは、事態は悪化する一方かもしれなかった。
宗一郎は大きなため息をつくと、根負けしたように腰を上げた。
「……分かった。お前の言う通りかもしれん。だが、絶対に無理はせんぞ。少しでもおかしなところがあったら、すぐに引き返す」
宗一郎はそう言うと、黒い石を丁寧に元の絹布で包み、再び螺鈿の小箱に収めた。
さらにその小箱を風呂敷で何重にも包み、まるで赤子を抱くかのように慎重に抱え上げる。その間も、石の脈動は風呂敷の上からでも微かに伝わってきた。
古今堂の戸に鍵をかけ、父と娘は本郷へと向かった。
表通りに出ると、学生や行き交う人々で賑わっていた。けれど志乃にはなぜか、その人混みの中から自分たちをうかがう視線を感じるような気がした。
海龍の訪問以来、神経が過敏になっているだけだろうか。
赤煉瓦に蔦の絡まる帝国大学の門をくぐると、そこは外の世界とは切り離されたような、静かで知的な空気が流れていた。
詰襟の学生たちが闊歩し、木々の間からは風格のある校舎が顔を覗かせている。宗一郎は慣れた足取りで理学部の校舎へ向かい、津頭順教授の研究室の扉を叩いた。
現れた津頭教授は、白衣をまとった小柄な老人で、度の強い眼鏡の奥から鋭い視線を投げかけてきた。
宗一郎が挨拶もそこそこに風呂敷包みを解くと、教授の目は螺鈿の小箱に釘付けになった。
「ほう、神阪さん。また珍しいものを。南蛮の薬入れかなにかかな」
「先生、見ていただきたいのは、その中身でして……」
宗一郎が蓋を開け、黒い石を取り出すと、津頭教授の表情が怪訝なものに変わった。
彼は石をピンセットで摘み上げ、あらゆる角度から調べ始める。
研究室には、様々な鉱石の標本や、ガラス器具、薬品の匂いが満ちていた。その理詰めの空間に、その黒い石はひどく不釣り合いな存在に見えた。
「ふむ……黒曜石ではない。瑪瑙でもない。これほどの硬さと密度を持つ鉱物は、私の知る限り地球上には存在しない」
教授はダイヤモンドの針で表面を引っ掻こうとした。だが、石には一点の傷もつかず、むしろ針の方がわずかにすり減ってしまう。
天秤で重さを測れば、見た目の大きさからは到底考えられないほどの重さを示した。
教授の眉間の皺が、ますます深くなる。
「神阪さん、一体どこでこれを?」
「……とある事情でして」
宗一郎が言葉を濁すと、教授はそれ以上は聞かず、石をガラスのビーカーに入れた。
「塩酸にも硝酸にも反応しない。磁気も帯びていない……一体何なのだ、この石は」
津頭教授は、自分の知識では計り知れない存在を前にして、苛立ちと興奮が入り混じったような表情をしていた。
彼はしばらく考え込むと、おもむろに立ち上がり、研究室の隅にあった奇妙な機械の前に立つ。それは、電極のついた台座に、いくつもの真空管が接続された装置だった。
「最後の手段だ。微弱な電流を流して、その抵抗値と反応を見てみよう」
教授が石を台座の上に置き、スイッチを入れた、その瞬間だった。
ビリッ、と空気が震えるような音がしたかと思うと、研究室の電灯が一斉にチカチカと点滅を始めた。
そして、石が放つ脈動が、突如として激しくなる。
トン、トン、トン、という音は、もはや志乃にしか聞こえない微かなものではない。それは研究室全体を揺るがす、低く重い響きとなっていた。
「な、なんだこれは!?」
津頭教授が驚きの声を上げる。
黒い石は、まるでそれ自体が巨大な心臓であるかのように、激しく、禍々《まがまが》しく脈打っている。
ガラス器具が棚の上でカタカタと震え、床を通じて足元にまで不快な振動が伝わってきた。
「先生、お止めください!」
宗一郎が叫ぶと同時に、パアン! と乾いた音を立てて、一番近くにあった電球が破裂した。
それを合図に、教授は慌てて機械のスイッチを切った。
途端に、激しい脈動は収まり、研究室には再び静寂が戻った。
しかし、先程までの知的な静けさとは違う。何か得体の知れないものに触れてしまった後の、気まずい沈黙だった。
黒い石は、何事もなかったかのように、ただ静かに台座の上にある。
「……神阪さん」
津頭教授は、額の汗を拭いながら、震える声で言った。
「その石は、私の手に負える代物ではない。すぐにここから持ち出してくれたまえ。二度と私の前に持ってきてはならん。これは……この世の道理から外れたものだ」
高名な学者が、恐怖をあらわにしている。その事実が、この石の異常さを何よりもはっきりと物語っていた。
志乃と宗一郎は、礼もそこそこに研究室を後にした。
帰り道、夕暮れの赤煉瓦の校舎の影から、誰かがこちらを見ているような強い視線を感じ、志乃はふと振り返った。
人影はすぐに角の向こうに消えた。
気のせいだろうか。
しかし、志乃の背筋を、ぞくりと冷たいものが走り抜けていった。
ただ見られていただけではない。
それは、獲物を見定めるかのような、粘りつくような視線だった。