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一行は、女将に教えられた道を頼りに、松本の町はずれにあるという源爺の家へと向かった。
それは、山の麓に立つ、一軒の粗末な掘っ立て小屋であった。
煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
家の周りには、動物の骨や毛皮を無造作に干しているようで、独特な獣の匂いがした。
戸口の前には、使い込まれた斧が薪に突き立っており、この家の主のただならぬ気配を物語っていた。
水上と巌が、どう切り出すべきか思案していると、志乃が静かに一歩前に出た。
彼女は二人に目配せし、自分が先に話す、という意思を伝えた。
水上は一瞬ためらったが、この少女がこれまでに見せてきた不思議な説得力に賭けることにし、静かに頷いた。
志乃は、戸口の前で一度深く息を吸い込むと、土間の戸を軽く叩いた。
「ごめんくださいまし」
しばらくの沈黙の後、内側からしわがれた、しかし鋭い声が返ってきた。
「……誰だ。猟の邪魔だ、帰れ」
「申し訳ございません。私ども、東京から参りました者です。突然お邪魔して、まことに恐縮ですが、どうかほんの少しだけ、お話を聞いてはいただけませんでしょうか」
志乃の穏やかで、透き通るような声に、戸の向こうの気配がわずかに変わった。
ぎぃ、と音を立てて、戸が少しだけ開く。
隙間から覗いたのは、片方だけの、鷲のように鋭い目であった。
その目は、志乃を、そしてその後ろに控える水上と巌を、値踏みするように見据えている。
「……東京のモンに、話すことなんざねぇ。土産物でも買って、とっとと帰んな」
老人が戸を閉めようとする、その寸前。
志乃は慌てずに、胸に抱えていた包みをそっと差し出した。
「これは、お土産というような、大したものではございません。ですが、旅の者からの、ほんの心ばかりのご挨拶です。こちらの川で獲れたという岩魚を、朴葉味噌で焼いてまいりました。それから、この土地のお酒も。山の暮らしでお疲れの体を、少しでも癒していただければと…」
志乃の言葉には、下心や駆け引きが一切感じられなかった。
ただ、純粋に相手を気遣う、温かい心がこもっていた。
源爺と呼ばれた老人の動きが、ぴたりと止まる。
彼の鼻が、朴葉の包みから漏れ出す、香ばしい味噌の匂いを捉えたようだ。
都会の人間が持ってくるような、ハイカラな洋菓子や、高価なだけの品物ではない。
この土地の幸に、手間をかけた料理。
それは、源爺が長年忘れていた、人との温かいやり取りを思い出させるものであった。
老人は、しばらくの間、頑固な沈黙を守っていた。
しかしやがて、小さくため息をつくと、戸をもう少しだけ開けた。
「……話だけだ。聞くだけなら、聞いてやらんでもない」
完全な受け入れてもらえたわけではなかったが、頑なに閉ざされていた老人の心が、志乃の真心によって、ほんの少しだけ開かれた瞬間であった。
水上は、学術調査という切り口で交渉を始めようと、一歩前に出ようとした。
しかし、それを志乃がそっと手で制した。
彼女は、源爺の、人を試すような鋭い視線から目を逸らさずに、静かに、そして正直に語り始めた。
それは学者としての理屈でも、交渉人としての駆け引きでもない、ただ一人の娘としての、偽りのない言葉であった。
「源爺様。私たちがここへ参りましたのは、ただ珍しい話を聞くためではございません。実は…私の亡き母が、このお山の近くの出身なのです」
その言葉に、源爺の唯一の目が、ぴくりと動いた。
これまで彼に向けてきたであろう、都会人の好奇心に満ちた言葉とは、明らかな違いがそこにはあった。
「母は、私が生まれてすぐに亡くなりました。ですから、私には母の記憶がほとんどございません。父から聞かされたのは、母の故郷が『神邑』という、山深い里であったということだけ。私は、ただ…自分の母がどのような場所で生まれ、育ったのか、この目で見ておきたいのです。母の故郷の土を、一目見ることができれば、それだけで…」
志乃の声は震えてはいなかった。
しかし、その静かな口調の中には、母を慕う娘の、深く、切実な想いが込められていた。
彼女は、玄洋会のことも、神器のことも、一切口にしなかった。
ただ、自分の個人的な、純粋な願いだけを、正直に打ち明けたのだ。
源爺は何も言わなかった。
彼はただ、じっと志乃の顔を見つめている。
その目は、獲物を見定める猟師のものではではなく、目の前の少女の真意を見透かそうとするものだった。
彼の脳裏に、かつてこの山で暮らしていた、素朴で強い意志を持った神邑の村人たちの面影が蘇っているのかもしれない。
あるいは、山で失ったという彼自身の息子の記憶と、目の前の少女の姿が重なっているのかもしれなかった。
長く重い沈黙が訪れた。
水上と巌は、固唾をのんでその様子を見守っている。
やがて、源爺は大きなため息を一つつくと、これまで半開きだった戸を、ゆっくりと、完全に開け放った。
「……入れ」
その一言だけを言うと、彼は背を向けて、薄暗い土間の奥へと消えていった。
三人は、顔を見合わせた。
そして、緊張した面持ちで、その粗末な、しかしどこか神聖な感じさえする小屋の中へと、足を踏み入れた。
中は獣の脂と煙の匂いが混じり合った、独特な空気に満ちていた。
中央には大きな囲炉裏があり、ぱちぱちと音を立てて火が燃えている。
源爺は、囲炉裏のそばにどかりと腰を下ろすと、無言で三人に座るよう、顎で示した。
志乃は、持参した朴葉味噌の包みと酒を、囲炉裏のそばにそっと置いた。
「……三十年前、村が土砂に埋もれたあの日、わしは山に入っとった」
源爺は、誰に言うともなく、ぽつりと語り始めた。
「空が、血のような色に光るのを見た。山の神の怒りだと、誰もが言うとった。だが、あれは違う。あれは、人の仕業だ。あの日、村にはよそ者が入り込んどった。お前らと同じような、東京から来た、背広の連中がな。奴らが、村の衆が大切にしとった『お宝』を、無理やり持ち出そうとしとった。そして…あんなことになった」
老人の声には、三十年の時を経ても消えることのない、深い怒りと悲しみがこもっていた。
「お前さんの母親…千代、と言ったか。あの子は、村一番の巫女だった。そして、わしの息子が、想いを寄せていた娘でもあった。あの子だけは、村の掟を破って、都へ逃げた。だから、助かった。…わしは、ずっとそれを恨めしく思うとった。だが、今、あんたの顔を見て、分かった。あの子は、ただ逃げただけじゃなかったんだな。斎部の血を、未来へ繋ぐために…」
源爺は、囲炉裏の火を見つめながら、そこまで言うと、再び長い沈黙に沈んだ。
志乃たちの前に、三十年前の悲劇の、これまで知られていなかった一面が、生々しく描き出されていた。




