28
西の空は、燃えるような茜色に染まっている。
自分たちがようやく掴んだ手がかりを、敵はとうの昔に手に入れ、すでに行動を起こしているのかもしれない。
これは、競争ですらない。
ただ、絶望的に開いた差を、これから追いかけるだけの、あまりにも無謀な旅の始まりなのだ。
旅館への帰り道、水上は珍しく押し黙っていた。
彼の横顔には、これまで見せたことのない焦燥と、巨大な敵に対する苦悩の色が浮かんでいる。
その様子を、志乃は静かに見つめていた。
そして、不意に足を止めると、凛とした声で言った。
「水上さん。まだ、手はあります」
水上と巌が、驚いて彼女を振り返る。
「館員の方のお話では、玄洋会の方たちは、腕利きの猟師や山案内人を味方にすることはできなかった。それは、彼らのやり方が高圧的で、土地の人々の信頼を得られなかったからではないでしょうか」
志乃の言葉は、暗闇に差し込んだ一筋の光のように、水上の心に届いた。
「だとしたら、そこにこそ、私たちの勝機があるはずです。私たちには、水上さんの帝国大学の研究員という、信頼を得るに足る肩書きがあります。玄洋会が手に入れられなかった、この土地に詳しい方の協力を得ることができれば、ひと月という時間の差を覆すことも、不可能ではないかもしれません。彼らが持つ古い地図よりも、長年山と共に生きてきた方の知恵の方が、きっと勝るはずです」
それは、ただの希望的観測ではなかった。
古物屋の娘として、人と物、そして土地との繋がりを大切にしてきた彼女ならではの、的確な状況判断と、大胆な逆転の発想であった。
水上は、志乃の顔をまじまじと見つめた。
そして、次の瞬間、彼の顔から迷いが消え、いつもの自信に満ちた学者の表情が戻っていた。
「……その通りだ。全く、あなたの慧眼には、言葉もない」彼は、心からの感嘆を込めて言った。「私は、敵の持つ『情報』という優位性ばかりに目を奪われ、最も大切な『人の心』という要素を見落としていた。よし、決まりです。玄洋会が失敗した『山案内人』探しを、我々が成功させましょう」
巌もまた、力強く、そして深く頷いた。
その目は、この小さな乙女に対する、絶対的な信頼を物語っていた。
旅館に戻った一行は、すぐに女将を呼び、この町で最も腕が良く、そして信頼できる猟師か山案内人はいないか、と尋ねた。
女将はしばらく考え込んでいたが、やがて、一人の男の名を口にした。
「……それなら、熊撃ちの源爺さんかねぇ。あの人なら、この辺りの山のことなら、隅から隅まで知り尽くしているはずだよ。ただ…」
女将は、そこで言葉を濁した。
「あの人は、相当な変わり者でね。めったに人と口を利かないし、山の掟を破る者には、神様より厳しい。これまでも、町の名士からの頼みですら、気に入らなければ一言の下に断ってきたのよ。あなた達のような、東京の人の頼みを聞いてくれるかどうか…」
その言葉は、彼らの前に新たな試練が待ち受けていることを示唆していた。
しかし、志乃たちの心は、もはや揺らいではいなかった。
闇雲に訪ねて、玄洋会と同じ轍を踏むわけにはいかない。
「女将さん」志乃は、柔らかな、しかし真摯な口調で尋ねた。「その源爺様は、どのようなお方なのでしょうか。私たちは、ただ物見遊山で山へ行きたいわけではないのです。どうしても、あの方のお知恵をお借りせねばならない、切実な事情がございまして。もし、何かお気に召すものや、お人柄についてご存知でしたら、教えてはいただけませんか」
志乃のその丁寧な物腰と、助けを求める切実な瞳に、女将は少しだけ警戒を解いたようだった。
彼女は、周囲をはばかるように声を潜め、ぽつりぽつりと語り始めた。
「源爺さんはねぇ…若い頃は、そりゃあ腕の立つ猟師で、里の英雄みたいな人だったんだよ。だけど、一人息子を山で亡くしてからは、すっかり人が変わっちまってね。山の掟を破る者と、都会の人間を、蛇蝎のごとく嫌うようになったのよ。爺さんの言う『山の掟』ってのは、ただ獲物を獲り尽くさないとか、そういう話じゃないの。山への敬意を忘れた者は、決して山に入れてはならん、という厳しいものよ」
女将は、お茶を一口すすると、続けた。
「爺さんの機嫌を取りたいなら、よそ行きの菓子折りなんて、逆効果ね。あの人が喜ぶのは、山の幸だけだよ。この土地で獲れた岩魚を焼いたものとか、自分で漬けた野沢菜の古漬けとかね。それから…地元の酒蔵が造ってる『霧ヶ峰』という辛口の酒。あれを土産に持っていけば、話くらいは聞いてくれるかもしれないけど…」
それは、金や権威では決して得られない、土地に根ざした人間だけが知る、貴重な情報であった。
「ありがとうございます、女将さん。大変参考になりました」
水上は深々と頭を下げ、女将に心付けを渡した。
その夜、三人は作戦を練った。
水上は町の酒屋で最高級の『霧ヶ峰』を、そして巌は、人目を忍んで近くの川で、見事な岩魚を数匹釣り上げてきた。
志乃は、女将に頼み込んで台所を借り、持参した味噌を使って、岩魚を朴葉味噌焼きにする準備を整えた。
翌朝、三人は町のはずれにあるという、源爺の家へと向かった。
それは、山の麓に立つ、一軒の粗末な掘っ立て小屋であった。
煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
家の周りには、動物の骨や毛皮が無造作に干してあり、独特の獣の匂いがした。
彼らの前には、頑固で、気難しく、そしておそらくは深い悲しみを抱えた一人の老人が待っている。
この難攻不落の山の主の心を、彼らは開かせることができるだろうか。
志乃は、朴葉味噌の包みを胸に抱き、静かに息を吸い込んだ。




