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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 西の空は、燃えるような茜色あかねいろに染まっている。

 自分たちがようやくつかんだ手がかりを、敵はとうの昔に手に入れ、すでに行動を起こしているのかもしれない。

 これは、競争ですらない。

 ただ、絶望的に開いた差を、これから追いかけるだけの、あまりにも無謀むぼうな旅の始まりなのだ。


 旅館への帰り道、水上は珍しく押し黙っていた。

 彼の横顔には、これまで見せたことのない焦燥しょうそうと、巨大な敵に対する苦悩の色が浮かんでいる。

 その様子を、志乃は静かに見つめていた。

 そして、不意に足を止めると、りんとした声で言った。


「水上さん。まだ、手はあります」


 水上といさおが、驚いて彼女を振り返る。


館員かんいんの方のお話では、玄洋会げんようかいの方たちは、腕利きの猟師りょうし山案内人やまあんないにんを味方にすることはできなかった。それは、彼らのやり方が高圧的こうあつてきで、土地の人々の信頼を得られなかったからではないでしょうか」


 志乃の言葉は、暗闇に差し込んだ一筋の光のように、水上の心に届いた。


「だとしたら、そこにこそ、私たちの勝機しょうきがあるはずです。私たちには、水上さんの帝国大学の研究員という、信頼を得るに足る肩書きがあります。玄洋会が手に入れられなかった、この土地に詳しい方の協力を得ることができれば、ひと月という時間の差をくつがえすことも、不可能ではないかもしれません。彼らが持つ古い地図よりも、長年山と共に生きてきた方の知恵の方が、きっとまさるはずです」


 それは、ただの希望的観測ではなかった。

 古物屋ふるものやの娘として、人と物、そして土地との繋がりを大切にしてきた彼女ならではの、的確な状況判断と、大胆な逆転の発想であった。


 水上は、志乃の顔をまじまじと見つめた。

 そして、次の瞬間、彼の顔から迷いが消え、いつもの自信に満ちた学者の表情が戻っていた。


「……その通りだ。全く、あなたの慧眼けいがんには、言葉もない」彼は、心からの感嘆かんたんを込めて言った。「私は、敵の持つ『情報』という優位性ゆういせいばかりに目を奪われ、最も大切な『人の心』という要素を見落としていた。よし、決まりです。玄洋会が失敗した『山案内人』探しを、我々が成功させましょう」


 巌もまた、力強く、そして深く頷いた。

 その目は、この小さな乙女に対する、絶対的な信頼を物語っていた。


 旅館に戻った一行は、すぐに女将おかみを呼び、この町で最も腕が良く、そして信頼できる猟師か山案内人はいないか、と尋ねた。

 女将はしばらく考え込んでいたが、やがて、一人の男の名を口にした。


「……それなら、熊撃ちの源爺げんじいさんかねぇ。あの人なら、この辺りの山のことなら、隅から隅まで知り尽くしているはずだよ。ただ…」


 女将は、そこで言葉を濁した。


「あの人は、相当な変わり者でね。めったに人と口を利かないし、山のおきてを破る者には、神様より厳しい。これまでも、町の名士めいしからの頼みですら、気に入らなければ一言いちごんもとに断ってきたのよ。あなた達のような、東京の人の頼みを聞いてくれるかどうか…」


 その言葉は、彼らの前に新たな試練が待ち受けていることを示唆しさしていた。

 しかし、志乃たちの心は、もはや揺らいではいなかった。

 闇雲やみくもに訪ねて、玄洋会と同じてつを踏むわけにはいかない。


「女将さん」志乃は、柔らかな、しかし真摯しんしな口調で尋ねた。「その源爺様は、どのようなお方なのでしょうか。私たちは、ただ物見遊山ものみゆさんで山へ行きたいわけではないのです。どうしても、あの方のお知恵をお借りせねばならない、切実せつじつな事情がございまして。もし、何かお気に召すものや、お人柄についてご存知でしたら、教えてはいただけませんか」


 志乃のその丁寧な物腰と、助けを求める切実な瞳に、女将は少しだけ警戒を解いたようだった。

 彼女は、周囲をはばかるように声を潜め、ぽつりぽつりと語り始めた。


「源爺さんはねぇ…若い頃は、そりゃあ腕の立つ猟師で、里の英雄みたいな人だったんだよ。だけど、一人息子を山で亡くしてからは、すっかり人が変わっちまってね。山の掟を破る者と、都会の人間を、蛇蝎だかつのごとく嫌うようになったのよ。爺さんの言う『山の掟』ってのは、ただ獲物えものを獲り尽くさないとか、そういう話じゃないの。山への敬意を忘れた者は、決して山に入れてはならん、という厳しいものよ」


 女将は、お茶を一口すすると、続けた。


「爺さんの機嫌を取りたいなら、よそ行きの菓子折かしおりなんて、逆効果ね。あの人が喜ぶのは、山のさちだけだよ。この土地で獲れた岩魚いわなを焼いたものとか、自分で漬けた野沢菜のざわな古漬ふるづけとかね。それから…地元の酒蔵さかぐらが造ってる『霧ヶきりがみね』という辛口の酒。あれを土産みやげに持っていけば、話くらいは聞いてくれるかもしれないけど…」


 それは、金や権威では決して得られない、土地に根ざした人間だけが知る、貴重な情報であった。


「ありがとうございます、女将さん。大変参考になりました」


 水上は深々と頭を下げ、女将に心付こころづけを渡した。


 その夜、三人は作戦を練った。

 水上は町の酒屋で最高級の『霧ヶ峰』を、そして巌は、人目を忍んで近くの川で、見事な岩魚を数匹釣り上げてきた。

 志乃は、女将に頼み込んで台所を借り、持参した味噌を使って、岩魚を朴葉味噌ほおばみそ焼きにする準備を整えた。


 翌朝、三人は町のはずれにあるという、源爺の家へと向かった。

 それは、山のふもとに立つ、一軒の粗末な掘っ立て小屋ほったてごやであった。

 煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。

 家の周りには、動物の骨や毛皮が無造作に干してあり、独特の獣の匂いがした。

 彼らの前には、頑固で、気難しく、そしておそらくは深い悲しみを抱えた一人の老人が待っている。

 この難攻不落なんこうふらくの山のぬしの心を、彼らは開かせることができるだろうか。

 志乃は、朴葉味噌の包みを胸に抱き、静かに息を吸い込んだ。

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