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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 水上は、駅近くの古い旅館に宿を取り、皆で一泊して旅の疲れを取ると、さっそく今後の計画について話し始めた。


日鎮ヶ岳(ひずめがたけ)は、この地図で見ても、登山道すら記されていない未踏峰みとうほうに近い。ふもとの村々も、今は寂れてしまっているでしょう。まずは、この松本の町で情報を集めるのが先決せんけつです」


 志乃は、その提案に静かに頷いた。


「私も、それが良いと思います。まずは、母の故郷である『神邑かむら』について、何か知っている人がいないか探してみたいのです。いきなり『日鎮ヶ岳』のことを尋ねては、警戒されるかもしれません」


 彼女の慎重な意見に、水上も同意した。


良案りょうあんです。では、私と志乃さんで聞き込みを。いさお殿は、我々の護衛ごえいとして同行どうこうをお願いします。ただし、あまり近付くと相手が警戒しますので、少し離れたところから周囲を見張っていてください」


 巌は、無言で力強く頷いた。


 三人は、松本の城下町へと足を踏み入れた。

 水上と志乃が学者とその教え子として並んで歩き、その十歩ほど後ろを、巌が周囲に鋭い視線を配りながら、影のように従う。

 彼の巨躯きょくは目立つが、その気配の消し方は、巌から稽古けいこを受けている志乃ですら感嘆かんたんするほどであった。

 水上は、町の古老ころうが集まりそうな場所として、縄手なわての通りにある古い蕎麦屋に目星をつけた。


 水上と志乃が店に入ると、巌は通りの向かいにある煙草屋の軒先のきさきで、何気なく腰を下ろした。

 しかしその目は、蕎麦屋の入り口から一瞬たりとも離れていない。


 縄のれんをくぐった蕎麦屋は、江戸時代から続くというだけあって、黒光りする太いはりや柱が、歴史の重みを物語っていた。

 昼時を過ぎていたため、客はまばらで、店の隅では老人たちが数人、昼間から酒をわしている。


 水上と志乃が席に着き、とろろ蕎麦を注文すると、腰の曲がった老婆ろうばが、湯気の立つ茶を運んできた。

 彼女がこの店の主のようだった。


「おや、見かけない顔だねぇ。東京からのお客さんかい?」


 人懐こい笑顔に、水上は穏やかに応じた。


「ええ、大学の者でして。この辺りの古い民話みんわや伝説を集めて回っております。お婆さん、何かご存知ではありませんか。例えば、そう……山に纏わる《まつわる》不思議な話など」


 その言葉に、老婆は「さあねぇ」としわだらけの顔で笑った。


「この辺りの山には、天狗てんぐ様が住んでおられるとか、雪女ゆきおんなが出るとか、そんな話はいくらでもあるよ。だが、あんたらが聞きたいのは、そんなありふれた話じゃないんだろう?」


 老婆の目は、全てを見透かすように、きらりと光った。

 水上は、彼女がただ者ではないことを悟り、より慎重に言葉を選んだ。


「実は、ある古い文献を調べておりまして。この近くに、かつて『神邑』という、巫女みこの一族が暮らす、隠れかくれざとがあったと記されていました。何かご存知では?」


 その名が出た瞬間、老婆の顔から笑みが消えた。

 彼女は、店の入り口に視線をやり、まるで誰かが聞き耳を立てていないか確かめるように、声を潜めた。


「……その名は、この町では口にしてはならんことになっとる。あんた方、物好きなのも大概にしときなされ。命が惜しければな」


 老婆の口調は、穏やかだが、有無うむを言わせぬ響きがあった。


「神邑は、もうないよ。わしがまだ子供の頃、あの村は一夜にして土砂どしゃに埋まった。麓の者たちは、山の神の怒りに触れたのだと噂した。それ以来、あの辺りの山に立ち入る者は、一人もおらん」


「山の神…ですか?」と志乃が尋ねた。


「ああ。神邑の巫女たちがまつっていた、特別な山だ。古い人たちは、それを『日鎮ヶ岳』と呼んでいたがね。禁じられた名だよ。あの山は、神々が眠る場所。人の子が、興味本位で足を踏み入れて良い場所じゃない」


 老婆は、そこで一度言葉を切ると、さらに声を低くした。


「……それに、あんた方だけじゃないよ。ひと月ほど前にも、あんた方と同じように、東京から来たという、気味の悪い背広の男たちが、同じことを嗅ぎ回っていた。あの連中、目が笑ってなかったね。ろくなもんじゃないよ」


 玄洋会だ。

 彼らもまた、この町で情報を集めていたのだ。

 志乃と水上は、顔を見合わせた。


 老婆は、それ以上何も語ろうとはしなかった。

 ただ、去り際に、「あの山の方角だけは、決して見ないことだね。見ていると、心が吸い寄せられてしまうから…」と、不吉な言葉を残していった。


 蕎麦屋を出ると、巌が音もなく二人の背後に合流した。

 西の空に傾きかけた太陽が、雪を頂いた山々を茜色あかねいろに染めている。

 老婆が言っていたのは、あの方角だろうか。

 志乃たちが手に入れたのは、一つの古い伝承と、敵がすぐそこまで迫っているという、確かな事実であった。

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