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水上は、駅近くの古い旅館に宿を取り、皆で一泊して旅の疲れを取ると、さっそく今後の計画について話し始めた。
「日鎮ヶ岳は、この地図で見ても、登山道すら記されていない未踏峰に近い。麓の村々も、今は寂れてしまっているでしょう。まずは、この松本の町で情報を集めるのが先決です」
志乃は、その提案に静かに頷いた。
「私も、それが良いと思います。まずは、母の故郷である『神邑』について、何か知っている人がいないか探してみたいのです。いきなり『日鎮ヶ岳』のことを尋ねては、警戒されるかもしれません」
彼女の慎重な意見に、水上も同意した。
「良案です。では、私と志乃さんで聞き込みを。巌殿は、我々の護衛として同行をお願いします。ただし、あまり近付くと相手が警戒しますので、少し離れたところから周囲を見張っていてください」
巌は、無言で力強く頷いた。
三人は、松本の城下町へと足を踏み入れた。
水上と志乃が学者とその教え子として並んで歩き、その十歩ほど後ろを、巌が周囲に鋭い視線を配りながら、影のように従う。
彼の巨躯は目立つが、その気配の消し方は、巌から稽古を受けている志乃ですら感嘆するほどであった。
水上は、町の古老が集まりそうな場所として、縄手の通りにある古い蕎麦屋に目星をつけた。
水上と志乃が店に入ると、巌は通りの向かいにある煙草屋の軒先で、何気なく腰を下ろした。
しかしその目は、蕎麦屋の入り口から一瞬たりとも離れていない。
縄のれんをくぐった蕎麦屋は、江戸時代から続くというだけあって、黒光りする太い梁や柱が、歴史の重みを物語っていた。
昼時を過ぎていたため、客はまばらで、店の隅では老人たちが数人、昼間から酒を酌み交わしている。
水上と志乃が席に着き、とろろ蕎麦を注文すると、腰の曲がった老婆が、湯気の立つ茶を運んできた。
彼女がこの店の主のようだった。
「おや、見かけない顔だねぇ。東京からのお客さんかい?」
人懐こい笑顔に、水上は穏やかに応じた。
「ええ、大学の者でして。この辺りの古い民話や伝説を集めて回っております。お婆さん、何かご存知ではありませんか。例えば、そう……山に纏わる《まつわる》不思議な話など」
その言葉に、老婆は「さあねぇ」と皺だらけの顔で笑った。
「この辺りの山には、天狗様が住んでおられるとか、雪女が出るとか、そんな話はいくらでもあるよ。だが、あんたらが聞きたいのは、そんなありふれた話じゃないんだろう?」
老婆の目は、全てを見透かすように、きらりと光った。
水上は、彼女がただ者ではないことを悟り、より慎重に言葉を選んだ。
「実は、ある古い文献を調べておりまして。この近くに、かつて『神邑』という、巫女の一族が暮らす、隠れ郷があったと記されていました。何かご存知では?」
その名が出た瞬間、老婆の顔から笑みが消えた。
彼女は、店の入り口に視線をやり、まるで誰かが聞き耳を立てていないか確かめるように、声を潜めた。
「……その名は、この町では口にしてはならんことになっとる。あんた方、物好きなのも大概にしときなされ。命が惜しければな」
老婆の口調は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「神邑は、もうないよ。わしがまだ子供の頃、あの村は一夜にして土砂に埋まった。麓の者たちは、山の神の怒りに触れたのだと噂した。それ以来、あの辺りの山に立ち入る者は、一人もおらん」
「山の神…ですか?」と志乃が尋ねた。
「ああ。神邑の巫女たちが祀っていた、特別な山だ。古い人たちは、それを『日鎮ヶ岳』と呼んでいたがね。禁じられた名だよ。あの山は、神々が眠る場所。人の子が、興味本位で足を踏み入れて良い場所じゃない」
老婆は、そこで一度言葉を切ると、さらに声を低くした。
「……それに、あんた方だけじゃないよ。ひと月ほど前にも、あんた方と同じように、東京から来たという、気味の悪い背広の男たちが、同じことを嗅ぎ回っていた。あの連中、目が笑ってなかったね。ろくなもんじゃないよ」
玄洋会だ。
彼らもまた、この町で情報を集めていたのだ。
志乃と水上は、顔を見合わせた。
老婆は、それ以上何も語ろうとはしなかった。
ただ、去り際に、「あの山の方角だけは、決して見ないことだね。見ていると、心が吸い寄せられてしまうから…」と、不吉な言葉を残していった。
蕎麦屋を出ると、巌が音もなく二人の背後に合流した。
西の空に傾きかけた太陽が、雪を頂いた山々を茜色に染めている。
老婆が言っていたのは、あの方角だろうか。
志乃たちが手に入れたのは、一つの古い伝承と、敵がすぐそこまで迫っているという、確かな事実であった。




