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稽古と手紙の執筆を終え、志乃の心は定まっていた。
父への想いを胸にしまい、彼女は今、自分にしかできない役目を果たす覚悟を決めていた。
玄洋会が動いている今、一刻の猶予もない。
その日の夕刻、志乃は書庫で地図を広げる水上と八坂翁の元へ向かった。
「水上さん、八坂様。お話がございます」
二人が顔を上げる。
志乃の表情に、これまでにない真剣な光が宿っているのを、彼らは見逃さなかった。
「巌様との稽古で、少しですが、自分の身のこなしに自信がつきました。そして、皆様のおかげで、多くの知識も得ることができました。これ以上の準備に時間を費やすのは、むしろ玄洋会に時間を与えるだけのように思えます。すぐに信濃国、『日鎮ヶ岳』へ出発すべきです」
その進言は、もはや保護されるべき少女のものではなく、状況を冷静に判断し、決断を下す『鎮めの乙女』としての言葉であった。
水上は、八坂翁と顔を見合わせた。
翁が、深く、静かに頷く。
「……乙女の言う通りじゃ」翁の声が、書庫の静寂に響いた。「機は熟した。これ以上時をかければ、好機は腐り落ちるだけじゃろう。水上、支度をせい」
「はっ」
水上の短い返事を合図に、神宮文庫の空気は一変した。
静かな研究の場から、作戦決行を前にした司令部へと、その貌を変えたのだ。
旅立つのは、志乃、水上、そして巌の三人。
八坂翁と和泉は、この隠れ家を守り、後方支援とさらなる文献調査に当たるという。
「志乃さん、これを」
和泉が、志乃に丈夫なズボンと上着、そして編み上げの登山靴を手渡した。
「山歩きに、着物は不向きです。お気に召さないかもしれませんが、動きやすさを第一に」
志乃がそれに着替えると、古物屋の娘の面影は消え、どこか凛々《りり》しい、未知の冒険に旅立つ若者の姿がそこにあった。
出発は、翌日の夜明け前と決まった。
その夜、志乃は八坂翁に呼ばれた。
翁は、小さな木の札を彼女に手渡した。
そこには、古代の文字で何かが書かれている。
「それは、山の神々の怒りを鎮める護符じゃ。道中、決して体から離さぬようにな。そなたの力と、この護符があれば、山の精霊たちも、そなたの味方となるであろう」
夜明け前、まだ帝都が深い眠りについている中、志乃たちは屋敷の裏門から、静かに出立した。
黒塗りの自動車が、音もなく彼らを待っている。
「志乃殿」
見送りに来た巌が、初めて志乃の名を呼んだ。
「道中、必ずお守り申す」
その言葉は、何よりも心強い約束だった。
自動車は、まだガス灯の光が残る都大路を抜け、新宿駅へと向かった。
彼らは、多くの夜行列車の乗客に紛れ、信濃国(長野県)方面へ向かう一番列車に乗り込んだ。
汽車が走り出すと、帝都の灯りが次第に遠ざかっていく。
志乃は、窓の外を流れる景色を見ながら、自分がもう、後戻りのできない旅に出たのだということを実感していた。
蒸気機関車の規則正しいリズムが、これから始まる冒険への序曲のように聞こえた。
汽車に揺られ、月明かりの下、窓の景色が帝都の甍から武蔵野の平野、そして次第に険しい山々の風景へと変わっていくのを、志乃は静かに見つめていた。
自分の人生が、この汽車のように、もう後戻りのできない線路の上を進んでいるのだと、彼女は感じていた。
列車は何時間走り続けただろうか?
夜が白み始める頃、松本駅に到着した。
ひやりとした高原の空気が、志乃の頬を撫でる。
その向こうには、朝日を浴びて雄大な姿を現す、北アルプスの山々が屏風のように連なっていた。
あの山のどこかに、『日鎮ヶ岳』が、そして母の故郷が眠っている。
帝都の喧騒は、もう遠い。
ここからは、人の知恵と、古の自然が支配する世界だ。
志乃は、これから対峙するであろう、未知の困難と謎に、静かに心を向けた。




