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海龍と名乗る男が去った後も、店の空気はしばらく氷のように張り詰めていた。
父の宗一郎は難しい顔で腕を組み、カウンターに置かれた小箱を睨んでいる。
志乃はその硬い表情を見上げ、おずおずと口を開いた。
「ねえ、お父様……あの箱、開けてみませんか?」
「馬鹿を言え。下手にこじ開けて傷でもつけたら、値打ちが下がる。それに、あの男……ただ者じゃない。あの箱は面倒の種だ。下手に触るべきじゃない」
宗一郎の言葉は、古物商としての長年の経験から来るものだ。
奇妙な品には、奇妙な人間が付きまとう。関われば関わるほど、厄介事に巻き込まれるのがこの世の常だった。
けれど、志乃の瞳は好奇心にきらきらと輝いている。
「でも、あの怖い人があんなに欲しがるなんて、よっぽどすごい宝物が入っているのかもしれません。それに、彼がまた来る前に、中身が何なのか知っておいた方が良いのではありませんか?」
おっとりとした口調ながら、その言葉には妙な説得力があった。
宗一郎はぐっと言葉に詰まる。確かに、娘の言うことにも一理ある。得体の知れないものを抱えたまま、あの男と再び向き合うのは分の悪い賭けかもしれなかった。
宗一郎は大きなため息をつくと、根負けしたように腰を上げた。
「……分かった。お前の言う通りかもしれん。だが、絶対に無理はせんぞ。少しでもおかしなところがあったら、すぐに止める」
そう言うと、宗一郎は店の奥にある作業場から、桐の道具箱を持ってきた。
中には、年代物の品々を修復するための、鑿や小刀、真鍮のヘラといった繊細な道具が整然と並んでいる。彼はその中から、最も細く、先の尖ったいくつかの道具を選び出すと、再び小箱に向き合った。
「ふむ……錠前の作りが日本のものとは違うな。実に精巧だ」
宗一郎は独り言を呟きながら、慎重に作業を始めた。
額に汗を滲ませ、息を殺して道具を操る。志乃も固唾をのんでその手元を見守った。
店の外の賑わいが、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。
この静かな空間に響くのは、宗一郎の道具が箱の縁を擦る微かな音と……そして、あの不思議な脈動だけだ。
箱に近づくほど、その鼓動ははっきりと、力強くなっていく。
まるで、箱の中で何かが目覚めようとしているかのようだった。
宗一郎が特殊なヘラを錠前の隙間に差し込み、ぐっと捻ったその時、かちり、と乾いた音が響いた。
緊張が解け、父と娘は顔を見合わせる。宗一郎はゆっくりと蓋を持ち上げた。
箱が開くと同時に、ふわりと冷気が溢れ出した。
それは、ただの冷たさではない。まるで真冬の墓地を思わせるような、命の温もりを一切感じさせない、底冷えのする冷気だった。
志乃は恐る恐る中を覗き込む。
箱の内側は、深紅の天鵞絨などではなく、まるで乾いた海藻を編み込んだかのような、奇妙な手触りの素材で覆われていた。
そして蓋の裏側には、淡い光を放つ文字のようなものが描かれていた。だが、外の光に触れた途端、それはみるみるうちに薄れ、数秒もしないうちに完全に消え失せてしまう。
そして、箱の中央。黒い絹の布に、大切そうに包まれていたのは、一つの石だった。
宗一郎が布を取り除くと、現れたのは掌に収まるほどの大きさの、艶やかな黒石だった。
どこにも角がなく、吸い込まれるように滑らかな球体。黒曜石のようでもあり、瑪瑙のようでもあったが、そのどちらでもない。
どの角度から光を当てても、一切の反射を見せない。まるで光そのものを飲み込んでいるかのようだった。
「……石、か。何だこれは。ただの石じゃないか」
宗一郎が眉をひそめ、手を伸ばそうとするのを、志乃は思わず止めた。
「お父様、待って。その石……脈打っています」
箱から出された石は、先程までとは比べ物にならないほど、はっきりとした脈動を放っていた。
トン……トン……と、ゆっくりと、しかし力強く、まるで生きているかのように。
その鼓動は、店の床を、空気を、そして志乃たちの心臓を直接揺さぶるかのようだった。
ただの石ではない。この小さな黒い球体は、明らかに何らかの力を宿している。
そしてその力は、決して人の世にあって良いものではない。
そんな根源的な畏怖を、父と娘は同時に感じていた。
古今堂の静けさは、今やこの石が放つ不気味な脈動によって完全に支配されていた。
一体この石は何なのか。そして、これを執拗に求める海龍光太郎の目的とは。
一つの謎が解けたかと思えば、さらに深く、暗い謎が姿を現したのだった。