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八坂翁の言葉は、志乃の心に不思議な静けさを伴って腑に落ちた。
自分が『鎮めの乙女』であるという途方もない事実は、恐怖よりもむしろ、これまで感じていた漠然とした疑問に対する一つの答えを示した。
海龍が自分に向けた視線、水上の真摯な眼差し、そして父の過剰なほどの心配。
それら全てが、この一つの言葉によって繋がった気がした。
彼女は、巻物を丁寧に桐箱へ戻す翁の姿を静かに見守った後、今度は銅鏡を磨く和泉の方へと向き直った。
和泉は、先程の興奮が冷めやらぬといった様子で、熱心に作業を続けている。
その指先は繊細で、古びた神器に新たな命を吹き込んでいるかのようだった。
「和泉さん」
志乃が声をかけると、和泉ははっとして顔を上げた。
「はい、志乃様」
「先程のお話にあった、『神器』について、もう少し教えていただけますか。あの石の他にも、色々あるのでしょう? どのようなもので、どのように扱うべきなのか…少しでも、知っておきたいのです」
それは、これから自分が関わる世界の道具について、その性質と作法を学んでおきたいという、古物屋の娘らしい実直な探究心からくる言葉だった。
水上と八坂翁は、その様子を興味深げに見守っている。
和泉は、志乃の真剣な眼差しに一瞬戸惑ったようだったが、やがて得心したように頷いた。
「はい、もちろんです。…いえ、むしろ、あなた様にこそ知っておいていただかねばならないことでした」
彼女は作業の手を止めると、志乃を自分の作業机の隣へと招いた。
机の上には、銅鏡の他にも、欠けた土器や、奇妙な文様の刻まれた石器などが並べられている。
「一言で『神器』と申しましても、その性質は様々です。八坂翁が研究されているように、それらは元々、この国の龍脈…大地の力の流れを整えるために、古の人々が作り出したものだと考えられています」
和泉は、机の上の品々を指差しながら説明を始めた。
その口調は、まるで女学校の先生が、熱心な生徒に講義をするかのようだった。
「例えば、志乃様がご覧になったあの『鎮めの石』。あれは、龍脈の乱れを鎮めるのではなく、逆に増幅させ、一点に集める力を持つ『集めの神器』です。玄洋会は、その力を利用して、意図的に災厄を引き起こすつもりなのでしょう。紀伊半島で使われたという『水龍の玉』も、同じ類のものです」
「では、この小箱は?」志乃は、机の隅に置かれた螺鈿の小箱を指差した。
「この『鎮魂藻』で編まれた小箱は、まさに『鎮めの神器』ですね。集められた力を、内に封じ込める働きがあります。本来、あの石とこの箱は、一対で扱われるべきものでした。石の力を箱で封じ、必要な時にのみ、最小限の力を引き出す…それが、古人の知恵だったのです」
和泉は、次に錆びた一本の短剣を手に取った。
刀身には、蛇が絡みつくような奇妙な模様が刻まれている。
「これは『断ちの神器』。目に見えぬ縁や呪いを断ち切る力がありますが、使い方を誤れば、人の命運さえも断ち切ってしまう。そして…」彼女は、今磨いていた銅鏡をそっと持ち上げた。「これは『写しの神器』。ただ姿を写すのではなく、真実の姿…あるいは、人の心の奥底にあるものを映し出すと言われています。ですが、力が強すぎるためか、長い間曇ったままで、誰もその真の力を引き出せていません」
集めるもの、鎮めるもの、断つもの、写すもの。
それぞれが、異なる力と役割を持っている。
志乃は、父の店に並ぶ様々な品々を思い浮かべた。
どの品にも来歴があり、それぞれの物語がある。
神器もまた、その来歴が途方もなく古く、物語が人の世の理を超えているだけなのだ。
そう思うと、不思議と心が落ち着いた。
「扱う上で、何か作法はありますの?」
「はい」和泉は、表情を引き締めた。「最も重要なのは、敬意を払うことです。これらは、ただの道具ではありません。大いなる力の宿る器であり、時にはそれ自身の意思を持つことさえあります。触れる前には、必ず心身を清め、精神を集中させなければなりません。そして…」
彼女は、白い絹の布を取り出すと、それを丁寧に広げた。
「決して、素手で長く触れてはなりません。常人であれば、その気に中てられ、心を病むか、体を壊してしまいます」
和泉はそう言うと、絹布で手を覆い、螺鈿の小箱をそっと持ち上げた。
そして、それを志乃の前に差し出した。
「志乃様。よろしければ、お持ちになってみてください。あなた様ならば、あるいは…」
志乃は、一瞬ためらった。
だが、和泉の静かな瞳に促され、恐る恐る小箱を受け取った。
布越しに伝わる感触は、ただの古い木箱のそれだった。
しかし、意識を集中させると、その奥に、かつて石が放っていた脈動の、ごく微かな残響のようなものが感じられた。
それは、もはや禍々《まがまが》しいものではなく、ただ静かに眠っているかのようだった。
そして、志乃が箱に触れている間、その残響がさらに穏やかになっていくのを、彼女自身、はっきりと感じ取ることができた。
「……やはり」
和泉が、小さな驚きの声を上げた。
水上と八坂翁も、固唾をのんでその様子を見守っている。
志乃は、自分が何か特別なことをしているという自覚はなかった。
ただ、埃をかぶった品を丁寧に拭ってあげるような、そんなごく自然な気持ちで、小箱に触れていた。




