17
翌朝、志乃は障子窓から差し込む、これまで経験したことのないほど柔らかな光で目を覚ました。
鳥のさえずりと、遠くで鹿威しが立てる規則正しい音だけが聞こえる。
昨夜までの喧騒が、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。
部屋の隅に用意されていた清潔な着物に着替え、静かに襖を開ける。
磨き上げられた廊下は、朝日を浴びて飴色に輝いていた。
父と暮らした古今堂の、どこか雑然としていながらも温かい空気とは違う、ここは全てが静謐で、清浄で、そして底知れぬ歴史の重みに満ちている。
志乃は、この屋敷そのものが一つの結界であるかのような感覚に包まれながら、人の気配がする書庫へと向かった。
「おはようございます、志乃さん。よく眠れましたかな」
志乃がためらいがちに襖を少しだけ開けると、水上が気づいて手招きをした。
彼の表情は、昨夜の緊迫したものではなく、穏やかな学者のそれに戻っていた。
部屋の中では、白髪の老人が一人、巨大な地図を広げており、若い女性が銅鏡を磨いていた。
そして、部屋の隅の柱に寄りかかるようにして、岩のような大男が腕を組んで立っていた。
「水上さん。お願いがあるのですが」志乃は意を決して言った。「ここにいらっしゃる皆様に、きちんとご挨拶をさせていただけませんか。どのような方々で、何をしてらっしゃるのか、知っておきたいのです」
その言葉に、水上は満足げに微笑んだ。
「ええ、そのつもりでした。あなたの覚悟と、状況を理解する知性には、我々も敬意を払わねばなりません。こちらへ」
水上はまず、机に向かう老人へと志乃を導いた。
老人は、広げられた日本全土の古地図の上に、さらに半透明の紙を重ね、そこに朱で複雑な線を引いていた。
それは、志乃の目には意味をなさない模様に見えたが、何か途方もないものを描き出していることだけは分かった。
「八坂翁は、我々『防人』の長老です。この国に眠るあらゆる伝承、古文書に精通しておいでです。我々の進むべき道を示す、羅針盤のような方です」
老人は地図から顔を上げ、皺の深い目で志乃をじっと見つめた。
その視線は、まるで魂の芯まで見透かすかのようであった。
「『鎮めの乙女』よ」八坂翁は、古井戸の底から響くような、静かで深い声で言った。「おぬし様がここへ来ることは、古い記述にあった通りじゃ。それは、権力者のための予言ではない。この日ノ本の国が、大きな禍に見舞われる時に現れるという、一つの徴じゃ。その力が、この国の安寧を保つ最後の鍵となるやもしれん」
次に、水上は銅鏡を磨く女性を紹介した。
彼女は作業の手を止め、静かに立ち上がると、志乃に深々とお辞儀をした。
「彼女は和泉君。傷ついた神器を修復し、そこに記された古代の文字を解読する専門家です。彼女の右に出る者はいません。我々が確保した品々の声を聞き、その意味を解き明かすのが彼女の役目です」
和泉は、ふと何かを思い出したように立ち上がると、机の隅に置かれていた、見覚えのある品を指差した。
それは、志乃たちの物語の発端となった、あの螺鈿の小箱であった。
「志乃様、これ……」
「どうして、これがここに?」志乃は驚いて尋ねた。
「昨夜、我々の仲間が海龍の屋敷から回収しました」水上はこともなげに言った。「中身はありませんでしたが、箱自体が重要な研究対象ですので。和泉君、何か分かったかね?」
「はい」和泉は頷くと、小箱の内側を指差した。彼女の声には、専門家としての興奮と、畏怖が混じっていた。「この内張り…信じられません。素材は…海藻なのです。普通、箱の内張りに海藻など、まず使いません。古今東西のあらゆる工芸品を見てきましたが、このような作りのものは初めてです」
彼女は続けた。
「ですが、ただの海藻ではありませんでした。これは『鎮魂藻』。古文書にのみその名が記されている、特別なものです。それ自体が、神器が放つ乱れた気を抑制する力を持っています。この箱は、石を運ぶためだけの器ではない。石の力を封じ込めるための、もう一つの神器なのです。玄洋会の連中は、力ずくで石を取り出した。品の持つ歴史や、古人の知恵に対する敬意が、彼らには決定的に欠けています」
和泉の言葉には、職人としての静かな怒りがこもっていた。
最後に、水上は部屋の隅に立つ大男を手招いた。
男はゆっくりと近付いてくると、志乃の前で深々と頭を下げた。
言葉は一言も発しないが、その佇まいには絶対的な信頼感を漂わせている。
「彼は巌殿。この屋敷の守り手です。元は相撲取りで、その怪力は鬼神の如し。昨年の大震災の折、この屋敷の塀が崩れ、ならず者たちが押し入ろうとした時も、巌殿は一人で門の前に立ち、朝まで誰一人通さなかったそうです。彼がいる限り、玄洋会の者どもも、やすやすとは手出しできません」
八坂翁、水上、和泉、そして巌。
学者、密偵、職人、そして守護者。
それぞれが、この奇妙な戦いにおける己の役割を担っている。
志乃は、自分が本当に異質な世界の住人になってしまったのだと、改めて実感した。
そして、八坂翁の言った『鎮めの乙女』という言葉が、彼女の心に重く根を下ろし始めていた。
それは、ただ守られるだけの存在ではない。
自分にも、果たすべき役目があるのだという、静かな自覚の芽生えであった。




