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水上の言葉が重くのしかかり、テーブルを囲む男たちがそれぞれの思案に沈む中、志乃は静かに心を決めた。
父の不安そうな顔と、岸馬の険しい表情、そして水上の真摯な眼差しを順に見つめた後、彼女は口を開いた。
「水上さん」
志乃の声に、三人の視線が再び集まる。
「あなたの言う『防人』の隠れ家へ、私を連れて行ってください。自分の身を守るため、そして、私自身のこの力の謎を解くために」
「志乃! 何を言うんだ!」
宗一郎が悲鳴のような声を上げた。
彼は娘の肩を掴み、自分の後ろへ隠そうとする。
「いかん! 絶対に許さんぞ! どこの誰とも知れん男に、お前を預けられるものか! 岸馬君、君からも言ってやってくれ! この子は、まだ十五なんだぞ!」
父の必死の形相に、志乃の心はちくりと痛んだ。
しかし、彼女は父の手をそっと握ると、静かに首を横に振った。
「お父様。ここにいても、玄洋会は必ず来ます。この店や、お父様を危険に晒すだけです。それならば、私自身が動くべきです」
岸馬は、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、深く長い煙を吐き出した。
彼は宗一郎の肩を叩き、それから水上を睨みつけた。
「旦那、落ち着け。嬢ちゃんの言うことにも一理ある。このまま店にいたんじゃ、親子揃って危ない。だがな、水上先生」岸馬の声は、低く、脅すような口調だった。「あんたも、ただ『安全だ』と言うだけじゃ、こっちは納得できん。どこへ娘さんを連れて行くつもりだ? 俺たちが、彼女の安否を確認する手立てはあるのか? 記者の言葉など、あんた方のような裏の世界の人間には意味がないかもしれんが、もしこの子に何かあったら、俺は持てる全ての力を使って、あんた達の秘密を白日の下に晒してやる。そうなっても構わん、という覚悟があっての話か?」
岸馬の言葉には、友人を思う男の気遣いと、記者としての執念が同居していた。
水上は、その脅しとも取れる言葉を、冷静に受け止めた。
「場所の秘匿は、彼女の安全のためにも不可欠です。しかし、ご心配はもっとも。岸馬さん、あなたを連絡役としましょう。定期的に、必ず志乃さんの状況をお知らせする方法を設けます。それでご納得いただけませんか」
水上の提案に、岸馬はしばらく考え込んだ後、宗一郎に向かって頷いた。
「旦那、今のところは、これが最善かもしれん……」
宗一郎は、まだ納得しきれない様子だったが、信頼する友人の言葉と、何より娘の固い決意の前に、力なく肩を落とすしかなかった。
水上は手早く段取りを決めると、「今夜半、時計の針が十二時を回る頃に、店の裏口で」とだけ言い残し、代金をテーブルに置いてカフェを去っていった。
古今堂に戻ってからの時間は、まるで水の中にいるかのように、重く、ゆっくりと過ぎていった。
宗一郎は、黙々と店の片付けをしていたが、その手が時折止まり、遠い目をするのを志乃は見ていた。
彼は、志乃の亡き母の古い写真立てを引っ張り出し、そのガラスを何度も何度も、柔らかい布で拭いていた。
「お母さんもな、志乃。お前のように、芯の強い人だった。わしが止めるのも聞かずに、都へ出てきて……。あんな山奥の暮らしよりも、広い世界が見たい、と……」
その言葉は、娘を送り出す今の自分の心境と重なっているようだった。
志乃は、父の背中にそっと声をかけた。
「すぐにお手紙を書きます。岸馬さんを通じて、必ず」
志乃は、旅支度と言っても、着替えの着物二、三枚と、数冊の書物を風呂敷に包んだだけの、ささやかな荷物を作った。
その中には、女学校の教科書の他に、与謝野晶子の歌集も一冊、忍び込ませておいた。
約束の時刻、志乃が店の裏口の戸をそっと開けると、そこには一台の黒塗りの自動車が、音もなく闇に溶け込むように停まっていた。
運転席の男は、帽子を目深に被っており、その顔は窺えない。
水上が、その傍らに影のように立っていた。
「志乃……」
見送りに来た宗一郎の声が、震えている。
彼は志乃の肩を固く掴んだ。
「……必ず、無事でいるんだぞ。必ずだ。誰のことも、完全に信用するんじゃないぞ。水上さんとて……」
「はい、お父様。ご心配なく」
志乃は気丈に微笑むと、後部座席に乗り込んだ。
水上がそれに続くと、運転手は一声も発さずに静かに発動機をかけ、車は滑るように動き出した。
低い走行音だけが、夜のしじまに響く。
志乃は、次第に小さくなっていく古今堂と、そこに佇む父の姿を、闇が覆い隠すまで、じっと見つめていた。
自動車は、帝都の眠る街を、まるで夢の中を渡るように滑らかに進んでいく。
ガス灯の淡い光が、人気のない通りを頼りなげに照らし、路面電車の線路が濡れたように鈍く光っている。
志乃は窓の外を流れる景色を眺めながら、自分が今、人生の大きな節目に立っていることを実感していた。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、これから始まるであろう未知の出来事に対する、静かな好奇心が胸を満たしていた。
やがて、麻布の静かな屋敷町の一角で、車は音もなく足を止めた。
目の前には、高い塀に囲まれた、古いが手入れの行き届いた武家屋敷が、夜の闇の中に黒々とその影を横たえていた。
表札も出ておらず、ここが何であるかを示すものは何もない。
ただ、その佇まいだけが、尋常ならざる歴史と秘密を内包していることを物語っていた。
「ここです」
水上の言葉と共に、屋敷の重厚な門が、内側から音もなく開かれた。
志乃は、父と暮らした穏やかな日常に別れを告げ、これから始まるであろう、謎に満ちた新たな世界へと、その一歩を踏み出した。




