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水上の素性が、偽りではないと分かっただけでも、まずまずの収穫と言えるだろう。
古今堂に戻った宗一郎は、娘の思慮深さに感心しつつも、まだその表情から険しさが消えることはなかった。
「よし、志乃。お前の言う通りにしよう。岸馬君に連絡を取る。彼奴がどう出るかは分からんが……」
宗一郎は意を決すると、店の帳場に置かれた黒い電話機の受話器を上げた。
大正十一年にもなれば、電話を持つ店も珍しくはなくなったが、呼び出しにはまだ時間がかかる。
交換手を呼び出し、毎日新聞社の番号を告げると、宗一郎は緊張した面持ちで相手が出るのを待った。志乃は、父の背中を静かに見守る。
「……岸馬君か? 俺だ、古今堂の神阪だ。……ああ、息災だよ。他でもない、先日話した件で、少し進展があってな。いや、電話で話せることじゃない。……そう、あの男のことだ。いや、それだけじゃないんだ。もう一人、話を聞くべき男が現れた。……ああ、分かっている。君が危ないと言ったのは百も承知だ。だが、もう引き返せないところまで来てしまった。君の知恵を貸して欲しい。……すまん。……ああ、明日か。いつもの『カフェ浪漫館』でいい。昼過ぎに。……ああ、感謝する」
受話器を置いた宗一郎は、大きく息を吐いた。
「岸馬君、来てくれるそうだ。だが、相当乗り気じゃない様子だった。よほどのことがなければ、これで最後にしてくれ、とな」
続いて、宗一郎は再び帝国大学の考古学研究室へ電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声、先日応対してくれた書記だった。
宗一郎は、水上先生に明日の昼過ぎ、『カフェ浪漫館』にて待っていると伝えてほしい、と丁寧に頼んだ。書記は心得たとばかりに請け負ってくれる。
これで、役者は揃うことになった。
その夜、父と娘の夕餉は重い沈黙に包まれていた。
宗一郎は、ただ一言、「明日は、余計なことは喋るな。男たちの話に、黙って耳を傾けていればいい」とだけ言った。
志乃は、父の心配を痛いほど感じながら、静かに頷いた。
翌日、空は朝からどんよりと曇っていた。
約束の時間少し前に『カフェ浪漫館』に着くと、岸馬はもう店の隅の席で煙草を燻らせていた。彼の前には、まだ湯気の立つ珈琲が置かれている。
「……来たか。で、話というのは何だ。それと、例の『もう一人の男』とやらは」
岸馬の口調は、以前にも増して固い。宗一郎がことの経緯を説明しようとした、その時だった。
店の扉が開き、水上潤が姿を現した。彼は店内を見渡し、すぐに三人が座る席へと、迷いのない足取りで近付いてくる。
「お待たせいたしました。神阪さん、そちらの方が?」
宗一郎が口を開くより先に、岸馬がぶっきらぼうに名乗った。
「毎日新聞の岸馬です。あんたが、例の男か」
岸馬の刺々しい視線を受け流し、水上は穏やかに名刺を差し出した。
「帝国大学の、水上と申します。神阪さん親子から、事情は伺っております」
岸馬は、その名刺をひったくるように受け取ると、胡乱げな目つきで眺めた。
水上は意に介した様子もなく、軽く会釈すると席に着く。
こうして、古物屋の主人とその娘、大学の謎めいた研究員、そして裏社会に精通した新聞記者という、奇妙な四人が一つのテーブルを囲むことになった。
店の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。
重い沈黙の中、四者四様の思惑が、珈琲の湯気と共に渦を巻いていた。




