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神保町にある古書店街のその一角、鈴懸並木に落ちた葉が、乾いた音で舞い散る秋の暮。
大正十一年、帝都東京は、西洋文化の華やかさと、古き日本の面影が入り交じった、どこか気もそぞろな風情に満ちていた。
神阪志乃の生家であり、仕事場でもある古物屋『古今堂』は、賑やかな表通りから一本入った、人通りの少ない路地の奥に、ひっそりと佇んでいた。
中に入れば、時代に取り残されたかのような、古式ゆかしい静けさが広がっている。
ゆるやかに漂う少しばかりの埃と、古い木の匂い。それに微かな香が入り交じった、独特な香りに店内は満ち足りている。それが、志乃が生まれ育った世界の香りなのだった。
志乃は十五歳。この店の看板娘であり、店主である父、神阪宗一郎の一人娘だ。
女学校に通いながら、店の手伝いをするのが彼女の日課だった。
透き通るような白い肌に、すっと切れ長の瞳。黒曜石のように艶やかな髪は、流行の耳隠しに結っている。けれど、その佇まいはどこか古風な日本人形を思わせた。
彼女の性格はおっとりしていて、周りが慌てるようなことが起きても、まるで春の陽だまりの中にいるかのように、一人だけ穏やかだった。
そのような性格は、裏を返せば危険に鈍感なだけとも言えた。だから、父の宗一郎は口癖のように言うのだ。
「お前はもう少し世間を疑ってかかれ」
だが、志乃にはその意味が今ひとつ飲み込めない。店に持ち込まれる品が、時として不思議な事件を巻き起こすのだが、それすらも志乃にとって、少しばかり変わった日常の一幕でしかないのだ。
その日も、志乃は店番をしながら、格子戸の向こうの静かな路地をぼんやりと眺めていた。
遠くで路面電車の警笛が鳴る。時折、道行く人の下駄の音が「からん」と響いた。
そんな穏やかな午後の空気を破って、一人の男が不意に店の前で足を止めた。
痩せこけた体には、着古された和服。年は四十代くらいだろうか。こけた頬と目の下の深い隈が、その苦しい生活を物語っていた。
着ている物は粗末な袷だ。けれど、背筋はすっと伸びている。その姿には、卑屈な様子とは違う、隠しきれない気品のようなものが感じられた。
男はしばらく店の看板を見上げていた。やがて意を決したように、軋む格子戸を開けて中へと入ってくる。
「ごめんください」
か細いけれど、どこか品のある声だった。奥の帳場から、父の宗一郎が顔を出した。
「へい、いらっしゃい。何かお探しで?」
「……いや、探しているわけではないのです。これを、買い取ってはいただけないでしょうか」
男は懐から、布に何重にも包まれた小さな箱を取り出した。それは掌に乗るほどの大きさの、黒檀でできた小箱だった。
表面には螺鈿細工で、見たこともないような幾何学模様が描かれている。一目で古い品だと分かった。
宗一郎は手慣れた様子でルーペを取り出し、箱を調べ始めた。
「ほう、これは珍しい。南蛮渡りの品ですかな。薬か、あるいは何か神聖なものでも入れていたんでしょうか」
宗一郎の問いに、男は曖昧に頷くだけだった。男の目は、ずっと落ち着きなく店内をさまよっている。そして時々、不安そうな顔で志乃の方をうかがっていた。
「中身は?」
「……開かないのです。鍵もありません」
「開かずの箱、ですかい。まあ、それもまた面白い。細工は見事なもんだ。しかし、これでは大した値は……」
「お願いします。三十円でどうでしょうか。それでいいんです」
男の言葉に、宗一郎は少し驚いた顔をした。
三十円といえば、腕の良い職人でも一ヶ月、汗水流して働いてやっと稼げるかどうかという大金だ。
宗一郎はしばらく考え込んだ後、帳場の引き出しから紙幣を取り出した。
「わかりました。曰く付きかもしれませんが、この細工の価値は評価しましょう」
男は金を受け取ると、まるで何かに追われるように店を飛び出していった。後に残されたのは、カウンターの上にぽつんと置かれた、冷たい小箱だけだった。
「お父様、なんだか可哀想な方でしたね」
志乃が言うと、「ああいう客は深追いするものじゃない」と、宗一郎は志乃に釘を刺し、小箱を手に取った。
その瞬間、宗一郎はわずかに眉をひそめる。
「……なんだ? この箱は、妙に冷たいな」
志乃もそっと触れてみた。確かに、まるで氷に触れているかのようにひんやりとしている。
それだけじゃなかった。志乃が耳を澄ますと、箱の奥からごくわずかに、心臓の鼓動のような脈動が聞こえる気がしたのだ。
「何か聞こえませんか?」
「ん? ……いや、何も。気のせいだろう」
宗一郎が小箱を帳場にしまおうとした、その時だった。
再び格子戸が開き、今度は先程の男とは対照的な、恰幅のいい紳士が店に入ってきた。
上質な絹の羽織をまとっている。鋭い眼光が店内をさっと一瞥し、すぐに宗一郎の手元にある小箱へと注がれた。その雰囲気は、やくざ者とはまた違う。もっと底知れない組織の匂いがした。
「ご主人。今しがた、みすぼらしい男がこの店に入らなかったかね」
有無を言わさぬ、威圧的な口調だった。宗一郎は動じることなく応じる。
「さあ、お客様のことはいちいち覚えておりませんで」
「とぼけるな。その男が持っていた小箱、それであろう。私が探していた品だ。言い値で買おう。二百円ではどうだ?」
宗一郎の目が、値踏みするように男を見据える。ただの物好きではない。
「申し訳ございません。そちらは先程、当店が買い取った品です。中を確認もしないで、すぐにお売りすることはできません」
「ふん、強情なことだ。ならば三百円。それ以上は出さん。売るか、売らないか、はっきりしろ」
海龍光太郎と名乗ったその紳士は、苛立ちを隠そうともせず、懐に手をやった。
膨らんだ羽織の下にあるのは、まず間違いなく短刀だろう。店の空気が一気に張り詰める。
宗一郎の額に、じわりと汗が滲んだ。これまで何度も修羅場をくぐり抜けてきた宗一郎だったが、この男が放つ気迫は普通ではなかった。
その時だった。それまで黙って様子を見ていた志乃が、心配そうに男を見つめて口を開いた。
「あの……何かお困りなのですか? その箱が、そんなに大切なのでしたら……」
海龍の視線が、すっと志乃に向けられた。
その瞬間、彼がまとっていた殺気とも呼べるほどの威圧感が、ふっと霧のように消え去った。まるで、燃え盛る炎に冷水を浴びせかけたかのようだ。
海龍は、志乃の澄んだ瞳をしばらく見つめていた。そうして、信じられないものを見るような唖然とした面持ちを振りかぶって、一つ咳払いをする。
「……いや。まあ、よかろう。だが、その箱は必ず手に入れる。また来る」
それだけ言い残すと、海龍はいまいましげに舌打ちをし、乱暴に戸を開けて去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような静けさが店内に戻る。
「……志乃、お前というやつは本当に……」
宗一郎は、呆れたような、それでいてほっとしたような複雑な表情でため息をついた。
一体、今の男は何者だったのだろうか。そして、この小箱に秘められた謎とは何なのだろう。
志乃は、カウンターの奥に置かれた小箱に目をやった。
先程よりも少しだけ、その脈動がはっきりと聞こえるような気がした。
帝都の喧騒の裏側で、また一つ、奇妙な物語の幕が静かに上がろうとしていた。