第100話 邂逅
タプン。
闇の水面に落とされたように。
真っ暗闇の中、ゆるりゆるりと沈んでゆく。
あたりを伺っても、どちらを向いても、闇ばかりが続く世界。
それでもキャサリンの感覚の中では、たしかに沈んでいく、と感じることができた。
水の中に沈んでいく、小さな小石のように。
ゆらり、ゆらりと揺れながら。
激しさはなく、望まれる方へ惹かれながら。
行き先の方が自分を引き寄せてくれているように、招かれているように。
ゆらり、ゆらり。
落ちていく。
液体のような闇がいろいろなことを教えてくれる。
ユーリの心の風景が、キャサリンの頭には浮かんでは消え、これまでを映し出す。
おそらくユーリの中で強く残る想いが印象的であったろう景色とともにキャサリンへと伝わっていく。
キャサリンと出会えたこと、結ばれたこと、ずっと一緒だと言われたことへの、歓喜、安堵、安心、欲望、・・・そして諦観。
彼の中では、彼女は聖女のような輝きを持ち崇拝する対象であり、娘のように可愛らしく庇護する対象であり、そして己のすべてを受け止めて愛してくれる人であり、己のすべてを差し出しても愛する対象であった。
「ふわぁ・・・・」
キャサリンは真っ赤になりながら、それでもユーリの気持ちのひとつひとつを宝物でも見るかのように大切に眺めた。
婚約の儀で聖女のように輝く自分も、肩をくっつけて微笑む自分も、体を合わせて愛おしくユーリを見つめて乱れる自分も、全部照れながらも目をそらせなかった。
幸せそうな自分を見れば見るほどに、歓喜と、暖かく優しい気持ちと、体の芯からユーリを求める気持ちが疼く。
ユーリのすべてが自分を愛してくれているのだと全身で感じることができたから。
そこから更に、深く、深く潜っていく。
力に虐げられそうな人たちを放っておけない気持ち。
自分の心が泣きそうになって我慢ができなくなっていく。
思わず体が動く感覚、相手をこの世界から抹殺したい衝動。
こちらをバカにし、なめきって、虫けらを見るような目を向け、怯えて涙し許しを請うずるがしこいヤツラ。
目の奥には自分の保身しか考えていない真正のグズ達の目。
こんなヤツラに虐げられてきた自分に対するくやしさ。
感謝された喜び。
怖れられた哀しみ。
友達ができたこと。
その時のユーリに小さく灯った暖かい光。
見渡す限りの砂漠に、小さく芽吹く緑の葉のような、淡く小さな存在。
そこから枝を伸ばし、根を張り、弦を伸ばしてひろがっていく、人の縁。
ユラリ、ユラリ。
深く、深く。
変わらない暗闇は、厳しい冷たさの感覚をキャサリンにたたきつける。
見える景色は、部屋の中で自分の頭をまもるためにあげた両腕、そんなことはお構いなしに顔の横から、腹から、蹴られた足から休む間もなく伝わってくる激しい音と痛みの感覚。
倒れ込み、視界の半分が床のカーペットになっても蹴られ続け、赤く染まる視界、やがて薄れていく意識と、目覚めたときのひとりぼっちの暗い部屋、痛み、そして暴力から解放された安心感と生きていることへの安堵。
激しい空腹感、ひたすら水を飲んでも癒されることがない飢餓感。
延々と続く時間、体を丸めて少しだけ空腹が薄れる感覚。
朦朧とかすむ視界、細くガリガリの両腕、ゴミが錯乱した部屋。
汚い川辺で刺すような冷たさの水に身を沈め、裸でボロボロの服を洗う。
誰も話しかけてこない教室。
騒がしい教室で自分ひとりがいないものとして扱われ排斥される。
汚いものを見るような目をむけてくる講師。
撲られてそれをはやし立てるクラスメイト。
ユーリの中には、悲しみも怒りも無い。
全ての感情はとっくに押しつぶされ、引きちぎられ、麻痺させられ、チリとなって散ってしまった。
残っているのはどんな目でみられようと、どんな悪口を言われようと叱られようと、悪感情をぶつけられようともすりぬけていく。
何も感じない虚ろな心。
いつ死ぬかわからない自分。
誰も味方のいない部屋。
誰も味方のいない教室。
誰も味方のいない道。
誰も味方のいない公園。
誰も味方のいない世界。
絶望すら感じない心。
今日を生きること、何か食べるものを探し出して口にすることだけを義務付けられた生活。
キャサリンはボロボロと涙を流しながらじっと見ていた。
睨むような目が血走り、歯を食いしばった口からは血が滲んでいた。
鬼のごとき形相で彼女は見続けた。
ズブリ、ズブリ。
沈む力に、抵抗を感じるようになった頃。
進む先の方に、懐かしい気配を感じた。
最後にあふれる感情は、寂しさであり、哀しみと親しみ、そして安堵が複雑に絡まった感情。
キャサリンを遠くからやさしく見守り続けるユーリの目。
幸せそうに笑うキャサリンの横に立っているパートナーはユーリとは違う。顔ははっきりとは見えないが、穏やかで幸せな空気が流れ、幸せな人生がせつない気持ちとともに今のキャサリンに届く。
大きな嵐ではなく穏やかな凪。
暖かい陽だまり。
そんな人生がキャサリンへと届く。
これは今のユーリの心の奥底をとらえる架空の未来。
ユーリがひとりで生きていく、このままであれば訪れる未来への選択肢のひとつ。
「な、なんだい、この世界は・・・」
キャサリンはユーリではないパートナーと出会い、恋に落ち、結婚し、子供が生まれ、幸せな家庭を築き、全力で研究に打ち込む日々。
子供は立派に育ち、自分の研究は王宮に認められ、幸せと名誉を手に穏やかな老後を過ごしみんなに看取られて土へと還っていく。
ユーリと出会う前に自分が夢に描いていた理想の人生。
神に祝福された人生。
誰もがあこがれる人生・・・。
「ほわぁ・・・」
自分の幸せな未来をみせられて心が優しく包まれるのを感じる。
ユーリは仲のよい生徒であり、心の片隅で惹かれ続ける相手であり、そして自分を祝福してくれる心の許せる親友であり。
甘酸っぱくて幸せに満ちた世界。
そんな世界を神に遣わされた男が守り続ける。
神の力をふるい孤独をまとった男がひとり血を流しながら。自分の愛する友が幸せに生きる世界を優しく守る。
己の命を代償にして忍び寄る魔の手から友を救い敵を破壊していく。
傷つき、壊れていく自分の代償に守られた親友の幸福を愛おしく見つめながら。
「こ、こ、こんなの、神様じゃないか!」
己の命を引き換えにして皆の幸福を守り続ける、神の力をふるう男。
崇められ、畏れられ、誰からも距離をおかれ、都合の悪い敵からは命を狙われ続ける孤独な男。
そんな人間がいるワケがない。
人はだれしも自分の幸せを求めるものじゃないか。
人々の幸せを守るために己のすべてを差し出せるなんて聖人という言葉を思いつかない。
いや、これはすでに神の意志でしかありえないではないか。
しかし。
しかし。
「ユーリは、ユーリはいつ幸せになるんだい!!!!」
最悪な前世から生まれ変わり。
神から授かった力を友のためにふるい続ける男。
崇められ、畏れられ。男に残るのは誰も近づけない孤独と命を狙い続けるヒットマンたち。
そんな人生のどこに幸せがあるというのか。
キャサリンはもう知ってしまった。
前世でうとまれ、嫌われ、孤独に生きてきた、それが当たり前の顔をして平気なふりで生きてきたユーリが心の奥底で渇望しているものを。
共に生きる魂を何よりも欲していることを。
自分と愛し合うユーリの心が、砂漠の水のようにひたすら尽きることなく幸せを吸い続けることを、それでも満たされない孤独を抱えていることを。
「ダメだダメだダメだダメだダメだ!!!こんなの絶対ダメだ!!!!」
いつもユーリの頭をやさしくなでるその白い手は握りしめられて血管が浮かぶ。
握った拳の爪が手のひらに食い込んで血がにじむ。
「なんだいなんだいこんな世界は!まっぴらゴメンだね、ボクはユーリとずっと一緒だって誓い合った仲なんだからね!ユーリをボッチになんかさせないんだからね!」
キャサリンに湧き出たのは強い怒りの感情だ。
ただそれが何に対して怒っているのかは自分でもわからない。
今のユーリが魔力を失おうとしている状況に対してなのか。
過酷な宿命をユーリに課した神に対してなのか。
誰もユーリの孤独に気づかない、キャサリンにとっては絶対に冷たいこの世界に対してか。
それとも・・・それとも、キャサリンと共にいられることを至上の幸福としながら、すでに心の奥底でそれを手放す痛みに耐えようとして身構えているユーリの心に対してなのか。
「ずっと一緒にいるって言ったくせに!」
それなのになぜ簡単にあきらめてしまうのか。
キャサリンは闇に向けてユーリに向けて叫び続ける。
「死んでも一緒だって言ったくせに!」
叫びは深い闇にしみこんでいった。
それでも深い闇に埋め込まれた消せない気持ち。
消えない世界。
孤独がユーリをつかんで離さない世界。ユーリの心の奥底で一番求めているものと真逆の世界。
そして漂うのは、諦めとキャサリンの幸せを願う優しく哀しい気持ち。
「じゃあなぜキミは諦めてるんだい!なぜもっと今の自分を必死に大切にしないんだい!!!」
キャサリンの心からの叫びが響くと。
静寂の闇が取り囲んだ。
そこにはもうユーリの孤独な感情も一人で生きるビジョンも浮かんでいない。ただ穏やかで静かな闇であった。
やがて浮かんできたのはキャサリンへの感謝。
終わってしまうかもしれない幸せに向けて。
自分が愛することができた人への、自分を愛してくれた人への感謝と、自分のこれまでの想像すらできなかった幸福な時間への感謝であった。
「ば、ば、ば、バカヤローッ!ボクたちはもっともっと幸せになるんだよ!ボクの幸せも一緒になかったことにすんなー!!」
シンとした暗闇にほんの少しの哀しみが漂うと。
次の瞬間には世界が喜びで光り輝き、全ての闇を消し去ってしまうのだった。
キリ番です
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