邪悪なるもの
その光景を読み取ったアズラムは憤慨していた。
その場にはナグスの姿もあったのだ。
第三位宮廷魔導師の顔はどこかうつろで、まるで病でひきつったかのように、口元には生気のない半笑いを浮かべていた。
この魔導師は姿を変えたニフカを従えて、この場を去って行ったのだ。それも空間に開いた穴に飲み込まれるようにして。
「幽世へ入ったのか」
わなわなと拳を震わせるアズラム。
まさか宮廷内に邪悪な魔導師が入り込んでいたとは。
「ちくしょう!」
彼が地団駄を踏んでいるのを見て騎士たちはいぶかしんでいたが、周囲の状況を見れば見るほど、この異様な処刑場の空気に恐れを感じはじめていた。
早くこの場を離れたい。そんな気持ちになった騎士たちを振り返り、アズラムは城への帰還を命じたのだった。
「いったいあの場で何が」
馬の背にまたがったまま騎士が魔導師に尋ねた。
「すまないが、それを教えることはできない」
まずは大臣に報告しなければ。そして何よりナグスのような裏切り者がほかにもいるかもしれないと、警戒しなければならなかった。
彼の疑念は自分以外のものすべてに向けられる、悪意にも似たものへと成長していた。
残留思念を読み取って目撃したものに恐怖し、彼の心は深く傷ついていたのだ。この状態を抜け出すのに彼は、数ヶ月の孤独を生きなければならなかった。
ニフカがなんの力を受けてあのような姿になったのか、彼にはわかっていた。
邪神。
ナグスは邪神の信徒だったのだ。
邪悪な意思をもつ神から力を授かる魔導師。ナグスがそれだったのだ。
身近にそんな者が存在していた事実に、アズラムは形容しがたい想いに囚われた。怒りや絶望。そうしたものが一気に彼の中に去来し、彼自身の無力さに打ちのめされたように馬に揺られつづけた。
城に戻るまでの道が永遠に思えた。
残留思念で見た光景が彼を苦しめる。
邪悪な怪物になったニフカ。なぜ彼はあんなものになることを受け入れていたのだろう。
彼は不自然なほどの笑みをたたえて拷問にも堪えていた。いや──、受け入れていたと言ってもいい。痛みも死も、何もかもを受け入れていたように思えた。
「ぬふぁははははは」
彼の奇怪な笑い声がアズラムの頭の中で木霊する。
邪悪な魔法によって変質し、人間をやめ──怪物へと変貌した領主。
何人もの命を犠牲にして成し遂げられてしまった邪悪な陰謀。それを止められなかったことへの後悔がアズラムを苛むのだった。
アズラムにとってここ一月で起きた出来事は、生涯忘れることはないだろう。
あまりに残酷でおぞましい裏切りの数々に、若い魔導師は怒りに震えていた。
気づけば手綱を強くにぎりしめ、手が痛くなるほどに。
そして何よりも、今回の事件の全貌に対する恐怖が彼の心を蝕んでいた。
もしかすると彼自身も危険な儀式の材料(触媒)として使われていたかもしれなかったのだ。
同胞だと思っていた高位魔導師ナグスへの感情は、次第に怒りを超え、憎しみに変わっていった。
魔導師アズラムは王宮に戻ると、急いでこのことを大臣らに報告したのである。
「それはまことか?」
「真実です」
彼は大臣と、首席宮廷魔導師にありのまま報告をした。
「まさか、ナグスがそのような……」
首席宮廷魔導師ファウゼンは驚愕と怒りをにじませた表情を一瞬見せ、すぐに目を閉じて思案しはじめた。
「このことをほかに知る者は?」
「いえ、私は誰にも話しておりません」
「よし。このことは内密にしておこう。ナグスの手下が宮廷内にいるとは思えないが、ほかの魔導師たちがナグスの研究に興味を示すかもしれん」
「では我々だけでナグスの研究室を調べ、彼の残した資料を処分する……と?」
「そうだ。邪神とのつながりなど、断固として認めるわけにはいかん。こんなことが外部にもれてみろ。我が国の宮廷魔導師の権威は失墜するぞ」
首席魔導師とアズラムは、魔導棟にあるナグスの研究室に向かい、警戒しながら扉を開けて室内に入って行った。
罠などは仕掛けられておらず、大部屋には仲間の魔導師と共に使用する大きなテーブルや、さまざまな道具が置かれた棚が壁際に並んでいる。
そこにはおかしな物はなく、アズラムとファウゼンは別の部屋につながるドアを開け、ナグスの残した物から、今回の事件に関係する資料を探そうとした。
小さな部屋の中は事務作業をする執務室のようだった。机の上には紙の束や本、筆記用具などが散乱していた。
アズラムは残留思念を探りながらあたりを調べて暗い部屋の中に進むと、ちらかった机の上に何かがあるのを見つけた。
それを手にしようとするとアズラムの頭の中に、紙に何かを書き残しているナグスの思念が流れ込んできたのである。
* * * * *
私はもうだめだ……
あれとの契約は間違いだった。
いまさら嘆いても遅いが、最初はあれの力の一部なりとも得て、思うように階級を上げられ、第三位の宮廷魔導師になることができた。
だが──私の内部にあるものが、私の気づかぬうちに私を支配しはじめていたのだ。
それは私自身でもあり、私ではないものだ。
私の中に芽生えていた悪意。それが成長し、私を支配しているようだった。
私は──私は、わた、わ……ワわ、わた──しは、ぁあぁァアアァぁあ……
突然雑音のようなものがアズラムの頭の中にひびきはじめ、彼はその思念から慌てて離れた。
ナグスの意識は、なんらかの魔術的な力によってか、あるいは邪神の支配力によって変質させられていたらしい。
錯乱を起こしはじめていた彼は、意識と狂気の狭間にあったようだ。
「何かわかったのか」
ファウゼンが声をかけてきて、アズラムは片手で頭を押さえながら、机の上にある散乱した紙の中から一枚の紙を取り出した。
それは紙の一部がしわになっていて、にぎりつぶされた紙を平らに延ばした跡のようだった。
その紙にはだいぶ乱暴な字で、こう書かれていた。
「私を止めてほしい。この殺人を止めなければ、新たな邪悪が地上に生まれ落ちてしまう。アズラム、あの男なら真相にたどりつけるはず。────彼だけが頼みの綱だ~~~~」
最後のほうの文章は読み取れないほど字が乱れていた。
「これは……ナグスは意識を支配されていたのか?」
「おそらくは。──第三位魔導師は邪神の力を得ようとして、心を徐々に支配されてしまったようです。彼の意識を乗っ取るだなんて、相当の力を持った上位存在が関与していたのかもしれません」
「だが奴は、最後の力で邪神の支配に抵抗し、君に今回の事件を追うように仕向けたわけか」
アズラムは無言で頷いた。
高位の魔導師が自らの部屋に書き残した短い文章には、彼が犯した罪に対する後悔と、自分のしたことで起こる災厄をなんとか食い止めようとした、彼の最期の、声にならない叫びのように思えた。
アズラムはナグスに対する怒りを忘れることはできなかったが、彼が最期に人間的な意思から、支配下にあった意識に──操り人形となった糸をたぐって──行動を起こさせ、自分を選択するよう仕向けたことには一定の理解をした。




