キャンププロジェクト
我が国の政治は、悪くも良くもない。そう思い続けてきた。でも、自分の興味のある世界に政治が絡んできた。感心するが、何か話がうまく行きすぎじゃないか。
梅の花を愛でていたと思ったらいつの間にか桜の開花予想でニュースは持ちきりになっている。桂人は毎朝ベッドに横たわったまま目を瞑って、テレビのニュース番組をラジオのように音声だけを取り入れる日課がある。絶賛就活中の大学の友人達は何かを競うようにしてモーニングルーティンについて、コーヒーを淹れるだのジョギングをするだの豪語しているが、桂人にとってはこの数分間の「ブラインド聞き流しニュース」が眠りと覚醒のスムーズな繋ぎ目として地味ながらも有意義に機能していているので気に入っている。実のところ、大部分は天気予報と占いの内容の時間に起きることが多いので、いつも内容はそんなに頭に入ってこない。ところが、今朝のニュースは特異だった。
「昨日、『国民のキャンプ用品購入の為の給付金』の予算案が承認されました。コロナ禍における国民の心身健康の向上を目的として2ヶ月前に野党から提案されたもので、テントや飯盒道具などを含むキャンプに必要となる道具の購入については1人当たりり5万円まで補助金として給付されることになります。」桂人は初めてモーニングルーティンの掟を破った。まだコンタクトを入れていないのにテレビに向かって穴が空きそうになる視線を刺す。どうやら昨年の小学生の給食お当番マスク配布に続いて、今年も大胆な事件が起こりそうな予感がする。あまり政治に期待はしていないし、緩い大学院生活も控えていてそもそもそんなに現在の暮らしに不満があるわけではなかったから、今まで政治の内容を聞き流してきた桂人にとっては新鮮なワクワクが芽生えていた。
「たまにはやるじゃん、日本。」
先週北欧からの留学生友達が偉そうに日本の政治がインパクトがないと批判していて、同意しながらも少し悔しかったところもあって、桂人は思わず笑みを浮かべた。国会で議員が話しているニュースの映像を人生で初めて凝視する。ぼやけた視界で確認できるのはなんだか色々なグラフのフリップを出して、キャンプグッズが最終的に国民の健康と経済活動活発化に繋がることを首相に対して恐ろしいほど真顔で説明しているようだ。 桂人はまた目を閉じる。自分が大臣なら2ヶ月間の討論などせず一瞬で首相の特別命令でも出して承認するだろう。
実はキャンプには憧れを抱いていた。就寝前に惰性で見る動画サイトを20分くらい見ていると「私の人生はかくに幸せです。ご覧あれ。同意しろ。」と押し付けられている気がして嫌気がさすのだが、キャンプ系の動画は他のジャンルよりもいいバランスの孤独と慎ましさが伺えて、気持ちよく拝聴できたのである。そういえば、去年別れたばかりの彼女がキャンプをしたいと言っていたな。そのことについてはそれ以上思考を深めないことにして、顔を洗いに腰を上げた。
バイト帰りにホームセンターに寄ってみる。忙しくて間に合あわせたのかそれとも心を込めた販売促進の為なのか、どちらか分からないがカラフルな手書きの商品説明ボードがずらりと並んでいる。全部キャンプ用品についてだ。遊牧民が使っていそうな家族サイズの大きなテントから、椅子・寝袋等含めて一通りそろったソロキャンプ初心者用セットで税込4万9千円の嫌らしいパッケージ商品まである。早速店は給付金効果にあやかろうとしている。桂人は一瞬ここで衝動買いをしてしまおうかと思ったが、昨日まで加湿器やバスソルトのおうち時間グッズを押し売りして十分儲かっている大手企業に給付金は使いたくないので、踏み留まった。
曇り空の中、春一番が吹きそうな生暖かい向かい風を受けながら帰路を進む。いつも使うコンビニとクリーニングの間にひっそり挟まれているコーヒー豆屋さんに看板が立っているのが目に入った。「こだわりキャンプグッズ販売中」いつも若いのにいぶし銀なチョビひげを生やした店主が丁寧に玄関を掃き掃除しているのだけが桂人にとってのその店に対する唯一の情報だった。きっとお笑い芸人なのにナレーターとして引っ張りだこになるような低い安定感のある声の持ち主だろうと唯一の推測もしていた。良い機会だと思い、直角に曲がって吸い寄せられるように桂人は入店した。
「お、いらっしゃいませ」驚いた割には低い少し湿った声で迎えてくれた。先ほどの推測を評価するなら△といったところだろうか。ちょび髭店主はこちらに気を遣うことなく黙々と作業を再開する。その方が桂人も安心してキャンプグッズを眺められる。
見たことないブランドのテントが並んでいて、説明を見るとそれらは長野や新潟発の独自ブランドらしい。深い湖のような上品な紺色でそれを見ているだけで心が落ち着いてくる。視線を落として確認した値段に桂人は目を丸くする。テントがソロキャンプサイズで3万5千円、キャンピングチェア1万円、飯盒可能メスティン7千円、、、こだわりの値段が名刺サイズの紙切れの上におしゃれな小さな文字で刻まれている。
「見た目もいいですけど、日本ブランドだから気候に合っていて品質抜群にいいんですよ」
いつの間にか後ろから重低音で店主が語りかけていた。
「は、はい。確かに、ネットの安いのより信頼できますよね。せっかく給付金も出たことだし」
値段への動揺は隠せないが、息を多めに使った声で防衛線をひく。
「テントは腐らないし、いいモノを長く使うのも大人の男らしくてかっこいいですよ。ゆっくり見てくださいね」
防衛線から一歩引いて、またいぶし銀店主は持ち場に戻った。うまい。人生において一回り先輩から放たれた大人の男のかっこよさの余韻が桂人を包み込む。
合計12万6千円。余韻が冷めないうちに桂人は会計を済ませた。いいんだ、給付金が出るし、大学卒業旅行で行こうと思っていたインドバックパック旅行の貯金がコロナで保留になったし。それに、この店員に俺の本気を見せたかった。大人の男磨きの第一歩を認めてほしかった。
「ありがとうございます。その決断、かっこいいよ」
マスクの上に並ぶレーシックしたようなニョキッとした目が真っ直ぐ桂人の眉間を貫き、コーヒー豆の匂いに刺激されて自然と背筋が伸びた。
翌朝、いつも通り目を瞑ってニュースを聞き流すのだが、天気予報に入った瞬間目を見開いた。東京の文字の横にデコポンのような太陽マークが並んでいる。5月上旬並の快晴らしい。大人の男のソロキャンプデビュー日だ。午後6時からのオンライン授業しか予定がなかった桂人は、おそらく1人暮らし史上初めての独り言を放った。いぶし銀店主にすぐ使える状態にしてもらっていたグッズ達をインドで使うはずだった60 ℓバックパックに詰め、コメと水を一番上にそっと置いて封をする。アパートを出て玉川上水を渡ればすぐの都内最大の公園、小金井公園で堂々たるデビューを炸裂させるのだ。
冬にジョギングをしたときには閑散としていた桜の広場が、新品のツヤツヤしたテントで埋め尽くされていて、アマチュアテント展覧会のようだ。給付金が出るやテントを速攻購入する猛者達のやる気に圧倒されながらも、自分も負けじと陣地を探し出そうと奮闘していると、少し先でバイト仲間の香田がソロテントを組み立てている。
ソロキャンプなのに声かけたら気まずいかとも思ったが、実際のところ桂人自身やや気が引けていたこともあって、道ずれにしてしまおうと声かける。
「おぉ、香田!」
「うおぉ、ケイトゥー!」
バイト仲間はいい。ニックネーム以外のことなんてそんなに知らないからこその、あっさりした仲間意識がある。香田はニックネームも香田にするような真面目なやつだが、しっかりとグループに波長を合わせられる名脇役的な存在だ。
「どうせだからケイトゥーも隣で一緒にやろうよ。どこか気がひけるんだよなソロキャンプって」
そういう一言が本当に名脇役だなと桂人は嬉しく思って、早速大人の男磨きグッズ達を組み立て始めた。
香田のテントは見たことある。オンラインサイトで2番目に安いやつだ。そこも彼らしくて、堅実な感じがして良い。案外、真面目な香田と自称ワイルドな自分の2人でキャンプをするといいバランスかもしれない。まあ、そんな機会は訪れないんだろうけど、今後付き合う人々をキャンプをしてうまくいくかどうか想像するのは意外と良い判断材料になるかもしれない。そんなこんなを考えていると、ちゃっかりソロキャンプワールドが出来上がっていた。
「ケイトゥーのもいい感じだね」
「おお、ありがとう。お前のも色がいいよな」
きっとお互い初心者だからテントのことなんてよく分からないからそれ以上の会話に発展しなかったが、それぞれチェアに腰掛けて5分咲きに満たない桜を眺めているその余韻が、2人の大人の男のかっこよさを演出していると桂人は思い込むことにした。
公園でのキャンプはバーベキューでも始めない限り、特にすることはない。でもきっとそれがいい。家でゴロゴロして私利私欲に塗れた内容の動画に視力を奪い取られるよりも断然価値があるように思える。まだ給付金の受け取り方を調べていないが、政府も見捨てたもんじゃないなと桂人は淡く微笑んだ。
無言でうとうとしたり、意味もなくお湯を沸かして飲んだり、色で言うとオフホワイトのような時間が流れた。
「将棋持ってきたけど、やらないか?」
流石にオフホワイトに飽きた香田は何か始めたくなったらしい。香田がテントから古風な将棋盤と駒の入った小箱を大切そうに持ち出して、キャンプテーブルの上に置いた。
「実はこれテントより高いんだよね。笑っちゃうよ」
香田が言う発言で今まで一番面白いと思ったが、それを笑うと自分のテントの値段を誇っていることにつながりかねないので、わざとらしいダンディな低い笑い声を響かせておいた。
本を読むには少し強過ぎる微風が吹いているが、盤の上に並べられた将棋の駒が動いてしまうほどではなかった。桂人は中学校の時に雨が降って教室内で遊ぶ時だけ将棋をする程度だった。友達の見様見真似で駒の動かし方を習得した程度だったが、物分かりはいい方で、将棋を習っている児童と互角に戦えるレベルだったので、自信がないわけではない。このことを香田に説明しようしたが、結果がそもそもキャンプ中の時間潰しなのだからそんなに向きになることはないと捉え直し、伝えずにしておいた。
香田は先攻で、最初の一手から銀を動かして王を護ることに徹底している。後攻の桂人は彼の真面目さをまた不思議に感じながら、飛車の前の歩を一つ前に進めて「ガンガン行こうぜ」と言わんばかりの攻めの姿勢を序盤から見せつけた。隣のテントでは男女7人くらいでトランプをしながら陽気に騒いでいる。たまたま居合わせた知り合いの男2人で将棋を打ち合っている自分たちのキャンプとは根本から目的が違っているのが目に見えていて、自分の駒を動かしてから香田の駒が「パシッ」と置かれるまでの間は、キラキラしたキャンプの方を眺めながら1人1人の心の内にナレーターをつけて恋愛ドラマを脚本することにしていた。現段階では、7人中既に2組の両想いカップルが成立しているようのだが、男たちが群がってなかなか女子の運びたいペースに乗り切れていない様子である。
桂人が外部に集中しながら深く考えずに打っている実態に気がつくことなく、香田は一手ずつじっくり時間をかけながらマイペースに駒を撃ち返す。20分くらい経っただろうか。。男女グループで3組目のカップルができそうな頃、今までにない重みのある音で香田は駒を置く。
「王手」
桂人は冷水を背中に入れられたように目を見開いて、盤の上に全力で集中する。いつの間にか桂人側の陣地に敵の銀と香車が睨みを効かせていて、完全に手詰まり状態になっていた。自分の飛車は序盤から調子良く香田の駒たちを蹴散らしていたのに、敵陣地で身動きが封じられていたのだ。動揺から思考が冷静にできなくなり、あっさり降参を認めた。
「なんだ。意外と、香田将棋うまいんだな。結構やってんのか?」
さっきはプライドが阻止していた戦力チェックも、負けた後となるとあっさり自動的に聞き出していた。
「いやいや、じいちゃんとの付き合いでやってた程度だよ。結構鍛えられたのかも。もしよかったら今度は僕が後攻でやらせてよ」
口から声が出ているはずなのに、自然と眉間に視点を集中させるような表情で強かに返答する香田に、桂人は将棋以上の敗北感を覚えた。
負けず嫌いな桂人は、軽快に駒を元に戻し、再戦を申し込んだ。
「うーし。それでは、よろしくお願いいたします」
もうあの男女組のことは無視して、この将棋に全力をかける。負けたら家族の命が引き換えになるくらいの覚悟で、俺はこの試合に勝つんだ。漫画の主人公のような心の声を心臓に響かせて、今度は前回より厳かに飛車の前の歩を前に進めた。「攻めは最大の防御なり」それを体現したい気持ちがあるのだが、その裏には戦法を変えることで自分が動揺しているのを香田に見せたくないというのが本心でだった。桂人の内側で燃え上がっている情熱とは裏腹に、香田は初手だというのにマイペースに少し考えてから、今度は王から見て逆側の銀を動かして王を護り始めた。
桂人は一瞬、自分も余裕があるうちに自陣の守衛を固めようかとも考えたが、初志貫徹を言い聞かせ、どんどん飛車の行動範囲を拡めていった。
しばらく経つと、お互いに持ち駒が何個かずつ取られ始めてきていて、相手の動きを読むのが難しくなってきていた。桂人は頭をかきむしりながら、ジャンプ機能のある桂馬を繰り出して、相手の防衛前線にプレッシャーをかけ始めた。香田は黙々とその駒を見つめ、鼻からトロッと息を吐き出すと、桂人が序盤で突っ込んだ自滅した金を持ち駒として取り出し、桂人の王の斜め前に置く。桂人の王しかそれを取れないので、反射的にその金を王で取った。
「ケイトゥ、ちょっと待って、それじゃ僕の王手だよ。」
その金の斜後方から、斜めに自由に行動できる角がひっそりと睨みを効かせている。将棋といえど、桂人はその脅威にゾッとする。その角は遠方から虎視眈々と王を睨みつけていたのだ。かといって、この金を王で取らなければ、次のターンで香田は持ち駒で畳み掛けてきて、降参するのは目に見えている。
「悔しながら、参りました」
「お手合わせ感謝いたします」
いつものバイト中ではありえないかしこまったやりとりに、一瞬の紳士性を感じて、その後にやっと屋外にいることを自覚した。それほど集中していたのだ。
その後も時間が許す限り何度も再選を挑んだが、全てあっけなく香田が勝利した。桂人が理由を聞いても、「少しだけ先手を読む」と哲学じみた表情でアドバイスをしてくれたのだが、絶望感に打ちひしがれていた桂人には焼石に水だった。
翌々週、桂人は投資額に見合う、より上級者向けの環境でキャンプをしようと奥多摩の公営キャンプ場でソロキャンプをすることにした。ただし、土日だと混み合いそうなので、学生の特権を生かして火曜日という「ど平日」に行う。今回のメインテーマは調理だ。情報取集としてソロキャンプの動画をサイトで見漁ったが、青空の下でコンパクトに調理をする過程は本来の目的以外にも、社会人として活かせそうなマネジメントスキルが養えそうだと思った。政府はキャンプによって国民が外の空気を吸う機会を増やすという健康面の目的を念頭においているが、その上の段階である「人間としての成長」に役立てることで、大幅な出費への妥当性を見出したいのである。
毎日乗る中央線が、いつの間にか知らない駅名の連続になっていって、自分が暮らしている時空間とは別のものへ向かっているような不思議な感覚で電車に揺られていく。東京とは思えないほどの豊かな山の緑と触れただけで心が清められそうな川の青が少し燻んだ窓から見えてきた。
ど平日のだだっぴろい川原のキャンプ場には、いかにも上級レベルの中高年男性4人グループ1組しかいなかった。灰色の大きなテント2つをV字に並べ、その前に2人ずつキャンプチェアの上にゆったりと座ってビールや焼酎を飲んでいる。真ん中には若い竹が3本くらい生えたような大きめの無線機がおいてあって、少し雑音混じりにニュースが流れている。いわゆる無線マニアのようにも見えるが、それぞれがボソボソと話し合ったと思えば黙ったりしていて、少し離れた場所でテントをする分には申し分ないジャンルのグループだ。そんな分析をしながら彼らの側を通り過ぎると、軍事評論家のようなサングラスをした男性と目があったので軽く会釈をして、まるで承認をえたかのように桂人はそそくさと50mほど奥に進んでテントを広げた。側を通った時に、男の1人が子供の進路の話をしてるのが聞こえて、こんな大自然とこだわりのラジオ設備を前にして井戸端会議をしてるおっさんたちだが、人情味に溢れている感じがして滑稽に思えた。桂人は視界のぎりぎりに彼らが入る位置にテントの入り口を設け、キャンプチェアと調理スペースを確保した。
厚切りベーコン、米、塩胡椒ととりあえず持ってきたツナ缶。野菜を完全に忘れていたが、男しかいないキャンプ場に見合うワイルドさが際立つので、少し気に入った。食材をテントの中に広げて少し見渡したが、まだ腹は減っていないからと、チェアに座って雄大な自然と対峙する。杉の木と少々の熊笹が足元に生えている山はぼた餅のようにずんぐりと居座っていて、その手前を左から羽衣のような清流が穏やかに流れている。川の音だけが聞こえていることに安心していると、空高くからピーヒョロヒョロロ、とトビの声がため息のように降りてくる。
あいつもソロで飛んでいる。
おそらく日本の自然界において、空に関してはあいつが王座に君臨しているだろう。もし俺がうさぎだったら颯爽と滑空し降下してきて爪でえぐって連れ去っていくだろうに、あいつは俺にそれをしてこない。無論、俺もあいつにここから何か危害を加えることはしない。この関係こそがかっこいい男同士の間合いだと、桂人は自覚した。
午後1時過ぎ。4人グループの方は既にお酒がだいぶ回ってきているようで、当初より声量が2段階ほど増してきており、焼きそばを作り出すような提案が聞こえてくる。対抗する必要はないのだが、こちらが風下である以上、匂いによるテロが勃発するのは目に見えているので、無線米を飯盒に入れて、炊き出しを始めた。こだわりのキャンプグッズの中で、唯一遅れて追加購入したのがキャンプ用のコンパクトなガスコンロだった。流石に予算は尽きていたので、ネットで安いものを購入したのだが、十分にその役割を果たしてくれている。真っ直ぐな青い火が立ち上がり、そこに飯盒を乗せると均等に底面に広がる。いかにも人工的な火なのだが、それを見つめているだけで、さっきの自然と対峙していた時間と同じくらいに心が安らいでくる。これもネット動画で解説されていた。原始時代からの名残で、人間はコントロールされた火を見ると身の上の安全を感じて安心できるらしい。
沸騰してとろ火にかけるまでにはまだ時間がある。どうせなら、火に対する本能的な感情とは別に現代の人間として新たな学びを見出してみたい。桂人はじっとその火を見つめた。やはり、バーナーから出る火は青く直上しているのに、飯盒の底面に触れた途端に形を変えてそれを包み込むように火で覆う姿が印象的だ。水とは真逆の存在と捉えられるはずの火が、熱を帯びたまま水があらゆる器の形状に沿う様子と同じように柔軟に変形して包みこむ。戦の名法として謳われる「風林火山」においては、火はみるみる燃え広がるように敵の陣地を侵す意味で引用されているが、今認識したような「柔軟に形を変えること火の如し」を引用する方が効率的で賢い感じがして良い気がする。適当な思いつきにしてはなかなか興味深い知見に至ったことに桂人は満足した。派生してもし5つ目の「如し」を追加するとしたらそれは「先手を読むこと香田の如し」である。「風林火山香」最後が香となるだけで、本来のものものしい男らしさから女性らしい優雅な感じに転化していて、そこに風流さを感じられる。
調理と空想のマルチタスクを行なっていると、4人グループはベロベロになっていて、焼きそば作りを断念したらしい。会話の内容が川の音に負けじと桂人の耳に入ってくる。
「俺らはこうやってキャンプの補助金にぶら下がってるけどよぉ、なんか怪しいよな。裏でもあるんじゃないか」
「国民の健康促進とか言うとるけどなぁ、確かになんかあるやろな。政治なんてそんなもんやろ。アウトドアのメーカーと癒着でもしとるんやろなぁ」
標準語と関西弁が入り混ざることで、一気に日本国民を代表して討論している議会のように聞こえて、桂人は火から目を反らさないようにしながらも聞き入る。しかし、そこからは国会議員の〇〇の話し方が好きだの嫌いだのサウナでも聞くような陳腐な会話に切り替わってしまった。
実は、桂人はこのキャンプ給付金に対する説得力のある都市伝説についても動画サイトを通して知っていた。
元々あらゆるジャンルの都市伝説を桂人は閲覧する癖があったのだが、ここ最近キャンプの動画を漁るようになってから、動画サイトが気を利かせてキャンプにまつわる都市伝説をおすすめ動画に出してくるようになっていた。その中の1つを興味本位でクリックしたのだが、桂人はすっかりそれを信じ込んでいる。
その内容は、大地震が来た時に国民が自力で生活できるレベルを上げておくことで、救助の人的支援不足や物資不足を解消する為であるというものだった。近年に来ると予想される〇〇トラフ地震は被害範囲が大きすぎて、被災直後から数日間は被災者の元に物資が届かないことが推測されるので、その間に各自でキャンプ生活することができれば国家的な混乱状態を免れることができる。桂人自身もソロキャンプを通して2〜3日なら生活できそうだと実感できているので、この説は説得力があると思っている。むしろ、健康促進だなんて取り繕わずに最初から災害時のサバイバル力を確保するためと全面的に押し出せばいいとさえ思う。それをやると個人を国家が見放しているとか反論があるのかもしれないが、日本の歴史上大地震はほぼ確実に来るのだから、国家と個人の関係を説く前に少しでも多くの人命救助につながるように愚直に対策をすべきだ。そう考えると、このキャンプ給付金の追い風に乗って奮発した自分が段々と誇らしくなって、いつの間にか日焼け止めを1滴も塗っていない顔を真上に向けて空を眺めて、文字通り鼻高々な気持ちになった。
無事に米も炊けて、ベーコンもただスキレットの上で炒めるだけだったので、初めてのキャンプ飯は難なくクリアすることができた。災害時にこのクオリティをサッと作れるのは満点だと確信すると、桂人は彼女に振られてから数週間続いていたうっすらとした虚無感から解き放たれて、久しぶりに生きる活力が漲ってくるのを感じた。俺は1人でも生きていける。強がった孤高な男が言う生きる力ではなくて、どんな環境でも辛抱強く耐え忍ぶ強さの意味での男らしさが自分の中に広がっていく。同時に、キャンプの魅力はまさにこの瞬間だと思った。スマホを放っておいて、目に見える景色や自分が今行っている行動を分析して、自分を見つめ直すことができる。そう思うと、ますますハイクオリティなキャンプグッズを買ったことが有意義に思えてきて、今まで無関心だったはずなのに政治が生活に与える良い影響を肌に感じることができた。
初夏を感じさせる少しジリジリする日差しだったが、テントの中に入ると適温の空間に青む風が注ぎ入ってきて、非常に快適だった。前回はチェアに座って将棋しかしておらず、テントの中を全く堪能していなかったのだ。テントの下にはゴツゴツした川原の石が並んでいるはずなのに、テントの床面に特殊なマットが何層か敷かれているらしく、そのゴツゴツは全く感じられない。寝袋さえ引けば、ビジネスホテルのベッドと同じレベルの寝心地になるだろう。3mm程のテントの布は外部と桂人を完全に遮断してくれている。唯一の繋ぎ目である入口からは真っ青な空に太ったクリオネが羽を休ませているような雲が漂っているだけだ。さっき食欲に任せてかき込んだベーコンと炊き立ての白米がお腹の中でまだ熱を発していて、血液がそちらに集まっていくのがわかる。それがわかったことで、脳もやる気を無くしたらしく、視界は狭まって、やがて消えた。
おそらく北に向けている頭の方から人が向かって来るのが足音でわかる。妙な足音である。1・2を繰り返して聞こえるはずなのに、セットの間に2拍くらいの間があって、次の1・2の時にはだいぶ音が近づいてくる。これは人ではない。もしや熊か。荒い息遣いが聞こえてくる。そういえばベーコンを焼いたスキレットがそのまま放置されている。すぐ起き上がりたいのに、金縛りのように体が言うことは聞かない。声も出ない。腰が上がらない。怖い。熊はあらあらしく真っ直ぐにこちらへ向かってくる。そして、熊にとっては無力なテントの入口の前でその足音はピタリと止まった。
「兄ちゃん、ちょっとこっち来ぃや、あんたもラジオ聞かなあかんわ!」
熊の正体はあのグループのうちの1人だった。一瞬心地よい睡眠を阻害された嫌味を感じたが、テントから一歩外に出ると明らかに空気が張り詰めている。雄大な山と美しく輝く川の景色は健在なのだが、目には見えない重々しい魔力が広がっているような気がする。とりあえず熊のようなおじさんの背中を追ってラジオの元へ向かう。川原の岩を蹴る自分の音でまだラジオの音は聞こえてこない。ラジオの音をますます遠ざけるように四方から少女の断末魔のようなサイレンが鳴り始めた。ダムの放流もゲリラ豪雨もないはずなのにおかしい。桂人はいつの間にか能動的な走りに切り替えて、熊親父を追い抜いて先にラジオの側に着いていた。まるでラジオを生まれて初めて聞く民のように耳を傾けると恐ろしい内容が耳に入ってきた。
「1時間前にA国が発射した飛翔体が新潟市に着弾しました。現地は火の海に包まれています。繰り返します」
ここ数年日本海に不時着させてばかりだったA国のミサイルが遂に届いてしまったそうだ。迎撃ミサイルを掻い潜ってついに新潟市に命中してしまったという。
「なんや。こんなことほんまにあるんかいな。どないなっとんや」
さっきまで酒に浸っていた親父たちが何かを思い出したかのように悲嘆さと焦りの表情で耳は音声に集中しながら、川原の石をそれぞれじっと見つめている。
おかしい。サイレンは依然鳴り響いている。新潟はここから何百キロも離れていると言うのに東京の山奥である奥多摩でもサイレンが鳴り響いているのだ。山あいで響いてやまびこのようにおそろさしさを塗り重ねられていく。
急に自分のスペースであるマイテントに戻りたくなる衝動にかられ、またゴツゴツした岩の上を走りながら戻っていく。さっきまで美しかった自然の風景は不気味な夕陽が差し掛かってきていて、呼応するサイレンの恐ろしさを倍増させていた。入口に頭を突っ込んで、自分のテントだと言うのに物色を始める。ツナ缶と米がまだ余っている。誰にも奪われるはずないのに、それをバッグの奥底に隠して、興奮がおさまるように深呼吸をした。
バッグを背負って、もう一度ラジオのそばに駆けつける。「新しい情報です。東京の新宿付近への爆撃が確認されています。23区内の方は地下鉄駅に避難してください。繰り返します。東京都が標的になっています」
女のアナウンサーは地声に近い迫った声で叫んでいる。絶望感であのお喋りの親父たちも必死に家族の安否を確認している様子だった。
切り替わって冷静な男のアナウンサーの声になった。
「首相命令でA国に対し宣戦布告を言い渡しました。日本海で軍事演習を行なっていた自衛隊からA国に艦砲射撃を行います。国民の皆様は引き続き避難を行なってください」
「そうや!あんな国どつき回したれ!」
サイレンを割るようにおっさんたちが熱狂している隣で、桂人は冷静に頭を傾げる。
おかしい。数ヶ月前、夫婦別姓という現代において誰にとっても異論の無いようなことさえも何週間も議論していた議会制の我が国が、地球上で最も交戦権とは程遠い存在であると信じていた我が国が、あっさりとA国に宣戦布告している。しかも、ちょうどよく日本海で軍事演習をしていた。明らかにおかしい。桂人の脳裏には動画サイトのおすすめで微かに見かけた別の歴史暴露系の都市伝説がよぎる。先の対戦で我が国が行った奇襲攻撃である真珠湾攻撃の翌日に、米国大統領は日本へ宣戦布告をした。この宣戦布告へのスピードに対して、米国側は事前にこの奇襲攻撃について情報を入手していたという説だ。たった今我が国は逆の立場の行いをしているようにしか思えない。
ポケットに何か角張ったものが入っているのに気がついた。スパイが拳銃をすっと握るように2本指をポケットに忍ばせる。将棋の駒だ。直線的に掬い上げて目をやる。あの日俺に対して先手を読んで睨みを聞かせていた「角」が裏返っていて、めらめらと燃え上がる火炎のような真っ赤な文字を浮かび上がらせている。
我が国はこの攻撃を宣戦布告の大義名分とするために予想しながら待ち受けていたのではないか。だとしたら、秘密裏ながらも想定範囲内の攻撃によって、新潟や東京の人たちの命を犠牲にしている。そして準備万端に日本海で待機していた自衛隊が戦闘を開始しているのだ。香田のように先手を読んで。
憎い駒を川に投げ込んだ。憎い。角が憎い。バッグに放り込む。こんなものとっておく必要はないはずだが、今はとりあえず持てるものはかさばらなければ持っておきたい。桂人はテントに視線を向ける。今度はテントが憎く見えてきた。キャンプの給付金もよくよく考えればはなから怪しいじゃないか。これから国民総力戦になってひもじい毎日が続いていくのに、テントでやり過ごせと言うことか。その為の先手の策だったのだろうか。
そう考えると、まんまと踊らされている自分が悔しくなって、衝動的にガスバーナーでテントに着火した。高品質テントの布は防火性だと信じ込んでいたのに、これも嘘だ。みるみる火は嫌らしい手つきのようにテントを覆っていって、まるでピエロの白化粧を塗りたくった上にできるような皺を浮かび上がらせながら燃えていった。国家有事の事態だと言うのに、テントから出る煙は真っ直ぐ空に向かって伸び伸びと昇っていく。自分もこの煙のように空高くへ行ってしまいたい。そして成層圏のあたりから、今から起きる戦争を「人間は馬鹿だなぁ」と思いながら眺めていたい。緊張感で張り詰めた心で見つめる温和な煙に自分を重ねている自分の今の行動が人生最大の現実逃避だと桂人は思った。
煙の一番高い所を探して空を見上げると、濃い緑色なのに夕陽で照らされている部分がブラッドオレンジの様な照り返しをしている線形の鉄の塊が、飛行機が飛ぶ位置よりも高い場所で走っている。それも数十本。
「この世の終わりだ」
誰にも聞かれるはずのない一言を力なく放った瞬間、空のオレンジが真っ白な光に掃き出されて、恐ろしさの塊が爆発した。
桂人は汗でびっしょりだった。カラスの気の抜ける声が聞こえる。奥多摩の美しい夕景色がテントの入り口から見える。テントから顔を出しておっさんのグループの方を確かめる。いつの間にか大きな鉄板を出していて、轟々と音を立てながら焼きそばを焼いている。そのソースの甘い香りが桂人にとってはこの上なくありがたい香りに感じられた。
夢だったのか。
もう一度テントの中で仰向けになる。まだ少し寝ぼけているのだろうか、河原上のテントにいるはずなのに、自分が将棋の駒として将棋盤の上で待機している気持ちがする。仲間が近くにいるけど、出番の指示を待っている感覚。棋士は香田なのだろうか。じっと悩んでいるらしい。先手を考えている。
棋士に一言伝えたい。駒の身からすると争いは避けてほしい。負けたくないが、勝ちたくもない。このままずっと相手と程よい距離を保って、誰も死なないし、殺さなくてすむ世界にしてほしい。そのための先手を考えているならじっくり考えてもらってかまわない。駒である自分も何かしら考えるべきなのだろうが、全体を見渡している棋士の方が良い判断をできるのは間違いないはずだ。だから棋士を信じて、桂人はひたすら目を瞑る。平和のための先手に期待しながら。